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聖母と守護天使の逃避行  作者: Lucy M. Eden


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第三章

ウィーンを離れて数時間。車が深い森を抜け、視界が開けた瞬間、アレクサンドラは思わず息を呑んだ。


そこには、言葉を絶する静寂の世界が広がっていた。夜明けの光を浴びたザルツカンマーグートの湖畔。鏡のように澄んだ湖面には、雪を戴いたアルプスの山々が、まるで精巧な細工物のように逆さまに映り込んでいる。空気は研ぎ澄まされ、吸い込むたびに肺の奥が震えるほど冷たく、そして清らかだった。


「着きました。ここが、私たちの目的地です」


ラファエルが車を止めたのは、湖を見下ろす高台にひっそりと佇む、古い石造りのマナーハウスだった。かつてアレクサンドラの父が愛した別荘。今は、雪の重みに耐えながら、主の帰還を静かに待っていた。


車を降りると、都会の喧騒が嘘のような静寂が彼女を包んだ。聞こえるのは、風が木々を揺らす音と、遠くで鳴く冬鳥の声だけ。


ラファエルは車を降りるなり、すぐに周囲の警戒に入った。彼はアレクサンドラを玄関先に待たせると、建物の外周を一周し、窓の施錠や侵入の痕跡がないかを、豹のようなしなやかな動作で確認していく。その無駄のない動き、一瞬たりとも緩まない集中力。彼はこの美しい絶景の中にあっても、依然として「盾」であることを忘れていなかった。


「安全を確認しました。入ってください」


重厚なオークの扉が開かれる。冷え切った室内に、ラファエルが素早く暖炉の火を熾した。乾燥した薪がパチパチとはぜる音が、静かな部屋に響き始める。オレンジ色の炎が、埃を被ったアンティークの家具や、色褪せたタペストリーを優しく照らし出した。


「アレクサンドラ様、まずはそのドレスを脱いでください」


背後からの言葉に、アレクサンドラは一瞬、肩を震わせた。


「え……?」


「今のあなたには、それは重すぎる鎧よろいだ。この家にある、古い服に着替えてください。ここには誰もいません。パパラッチも、社交界のライバルも。あなたを『至宝』として見る人間は、一人もいないのですから」


ラファエルは、クローゼットから厚手のカシミアのセーターと、柔らかなウールのパンツ、そして厚手のソックスを取り出して並べた。


「着替えが終わるまで、私はテラスで周囲の監視をしています。終わったら呼んでください」


彼はそう言い残すと、アレクサンドラを見ることなく、冷たい風の吹く外へと出て行った。


一人残された部屋で、アレクサンドラは指先を震わせながら、ウィーンから着ていたシルクのドレスを脱ぎ捨てた。数千ドルの価値があるはずの布地が、今はただの重荷に感じられた。サファイアのネックレスを外し、固く結い上げていた金髪を解くと、まるで魂までもが自由になったような感覚に襲われた。


用意されたセーターに袖を通す。それは少し大きく、どこか懐かしいウールの匂いがした。鏡の前に立つと、そこには「ウィーンの至宝」ではなく、少し顔色の悪い、けれど等身大の、一人の若い女性が立っていた。


「……終わりました」


扉を開けて呼ぶと、ラファエルが静かに戻ってきた。彼はアレクサンドラの姿を認めると、一瞬だけ、その鋭い瞳を和らげたように見えた。


「よくお似合いです」


「そう……?なんだか、自分じゃないみたいだわ」


「いいえ。今のあなたこそが、本来の姿に見えます」


ラファエルはキッチンへ向かうと、手際よくコーヒーを淹れ始めた。豆を挽く芳醇な香りが部屋を満たしていく。


「お腹も空いているでしょう。あり合わせのものですが、簡単な朝食を作ります」


「あなた……料理までできるの?」


「護衛の任務には、自炊も含まれます。毒物混入を防ぐため、他人の作ったものを口にできない環境も多いですから」


彼はそう淡々と答えながら、卵を焼き、ライ麦パンをトーストした。彼の大きな手が、繊細な手つきで皿を整えていく。暖炉の前、古びた木製のテーブルを挟んで、二人は向かい合った。


窓の外では、朝日が完全に昇り、雪山が黄金色に輝き始めている。アレクサンドラは、熱いコーヒーを一口飲み、その温かさに瞳を閉じた。


「不思議だわ。ウィーンの最高級レストランで食事をしていた時よりも、ずっと……心が満たされている気がする」


「それは、あなたが今、自分自身を演じる必要がないからです」


ラファエルはそう言うと、わずかに視線を落とした。


「アレクサンドラ様。ここでは、私とあなたの間に契約書は存在しますが、形式的な礼儀は最小限にしましょう。私はあなたのボディーガードですが、この聖域にいる間だけは……」


彼は一度言葉を切り、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「ただの隣人でいさせてください。あなたが泣きたい時は肩を貸し、静かにしていたい時は影となる、一人の男として」


アレクサンドラの胸が、トクンと音を立てて跳ねた。「隣人」という言葉。それは、この数年間、彼女が何よりも渇望していた「対等な人間としての繋がり」を意味していた。


「……ずるいわ、ラファエル。そんなふうに言われたら、私、あなたに甘えてしまうもの」


「構いません。そのために、私はここにいるのですから」


外では、凍てついた湖面を風が渡る音がしていた。しかし、暖炉の炎とラファエルの静かな声は、アレクサンドラの凍りついた心を、ゆっくりと、確実に溶かしていった。


逃避行の初日。銀嶺の山々に抱かれたこの場所で、二人の物語は、新たな、そして濃密な色彩を帯び始めようとしていた。

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