第二章
背後で、音楽と虚飾の都が遠ざかっていく。
漆黒のセダンは、雨混じりの雪を切り裂き、ウィーンの市街地を脱出した。窓の外を流れる街灯の光は、まるで早回しされる古い映画のフィルムのように、アレクサンドラの瞳を虚ろに通り過ぎていく。
車内には、静謐な、しかし肌を刺すような緊張感が満ちていた。本革のシートが放つ重厚な匂いと、微かに混じる雨の湿り気。そして、運転席に座る男――ラファエルから漂う、冬の森を思わせる清冽な香りが、アレクサンドラの感覚を鋭敏にさせていた。
「追っ手は……パパラッチたちは、もういませんか?」
アレクサンドラは、ようやく震える声で問いかけた。彼女は今、自分が何から逃げているのか、半分も理解できていなかった。捏造されたスキャンダル、叔父の冷酷な目、あるいは「完璧なアレクサンドラ」を求め続ける市民たちの期待。それらすべてが、あのフラッシュの渦の中で怪物となって彼女を飲み込もうとしていた。
「数台、しつこい車両がついてきていましたが、先ほどの環状道路で振り切りました。ご安心を」
ラファエルの声は、氷のように滑らかで、それでいて揺るぎない確信に満ちていた。バックミラー越しに視線が交差する。その瞳は、彼女の心の奥にある怯えをすべて見透かしているかのようで、アレクサンドラは思わず視線を膝の上に落とした。
ふと気づくと、彼女はまだサファイアのネックレスを握りしめていた。指先が白くなるほど強く。
「お疲れでしょう。シートを倒して、少しお休みください。アルプスまでは、まだ数時間かかります」
ラファエルの合図とともに、助手席側のシートが静かに沈み込んだ。彼は左手でハンドルを固定したまま、右手を後部座席へと伸ばす。その指先が、上質なカシミアのブランケットをさっと手繰り寄せ、彼女の膝の上に丁寧に掛けた。
「あ……ありがとうございます」
ほんの一瞬、彼の指先が彼女の手に触れた。手袋越しのはずなのに、そこから伝わってくる熱は驚くほど熱く、アレクサンドラの胸の鼓動を跳ねさせた。彼はすぐに手を引くと、何事もなかったかのように前方の暗闇へと視線を戻す。
ラファエルは、無駄な会話を一切しなかった。しかし、彼の運転は驚くほど繊細だった。加速もブレーキも、アレクサンドラの体に微かな衝撃も与えないよう、細心の注意が払われている。それは、彼女という「高価な積荷」を守るための義務なのか、それとも、一人の女性への配慮なのか。
「あなたは……父の知り合いだったの?」
沈黙に耐えかねて、アレクサンドラは尋ねた。亡き父は生前、いざという時のために「最も信頼できる盾」を用意してあると言っていた。それが彼のことなのだろうか。
「私はただ、契約に従って動く影に過ぎません」
「影……」
「光が強ければ、影もまた深くなる。アレクサンドラ様、あなたはウィーンで最も眩い光の中にいらした。その光を疎ましく思う者たちが、今、影を動かしている。私は、その影を掃うための道具です」
冷徹な言葉だったが、その響きには不思議な温もりがあった。道具であると自称しながら、彼は誰よりも人間らしい気遣いを見せていた。
車が高速道路を抜け、周囲に高い建物がなくなると、外は完全な闇に包まれた。時折、遠くに見える家々の窓の灯りが、雪の中に滲んでいる。
「……喉は乾いていませんか?」
ラファエルがセンターコンソールから、保温ボトルを取り出した。彼は停車することなく、熟練の動作でそれを開け、アレクサンドラへと差し出した。
「ハーブティーです。鎮静効果のあるものを選ばせました」
受け取ると、まだ心地よい温かさが残っていた。一口含むと、カモミールと微かな蜂蜜の香りが広がり、強張っていたアレクサンドラの身体が、ゆっくりと解けていくのがわかった。
「ラファエル」
「はい」
「私は……これからどうなるのかしら。理事会はきっと、この不在を口実にするわ。財団は、父が人生をかけて守ってきた場所なのに」
アレクサンドラの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。「ウィーンの至宝」という仮面が剥がれ落ち、そこにはただ、居場所を失うことを恐れる孤独な女性がいた。
ラファエルは、しばらく沈黙を守っていた。やがて、車がザルツブルクの山道へと差し掛かった頃、彼は静かに車を路肩に止めた。窓の外には、月明かりに照らされたアルプスの稜線が、幽玄な姿を現していた。
ラファエルはシートベルトを外し、体を彼女の方へと向けた。車内の薄暗い照明の中で、彼の輪郭が浮かび上がる。強く、峻厳で、それでいて深い慈しみを湛えた守護者の姿。
「アレクサンドラ様、明日になれば、世界はまた勝手な物語を作り出すでしょう。でも、この車の中、そしてこれから向かうあの別荘だけは、誰の目も届かない聖域です」
彼は手を伸ばし、彼女の頬を伝う涙を、親指でそっと拭った。皮の手袋の硬質な感触が、なぜかアレクサンドラには、どんな柔らかな絹よりも優しく感じられた。
「ここでは……完璧な理事長である必要はありません。亡き父君の娘でもなく、ウィーンの象徴でもない。ただのアレクサンドラとして、心を休めてください」
アレクサンドラは息を呑んだ。生まれてから今まで、自分自身でいていいと言われたことがあっただろうか。彼は彼女の社会的地位を守るために雇われたはずなのに、今、彼は彼女の「魂」を守ろうとしている。
「……怖い。何もかも失ってしまうのが、怖いの」
「私がいる限り、何も失わせはしません。たとえ、この命に代えても」
ラファエルの言葉は、誓いだった。その瞳の奥にある揺るぎない光を見たとき、アレクサンドラは初めて、自分を縛り付けていた鎖が、ほんの少しだけ緩むのを感じた。
再びエンジンが始動し、車は夜の森の深淵へと進んでいく。行く手には、深い雪に閉ざされたアルプスが待っている。けれど、アレクサンドラの心には、先ほどまでの絶望ではなく、この男という名の盾に身を委ねる、甘く危険な予感だけが静かに満ちていた。




