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聖母と守護天使の逃避行  作者: Lucy M. Eden


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第一章

ウィーンの冬は、時に残酷なほど美しい。


国立歌劇場の壮麗なルネサンス様式の外壁を、今宵も容赦のない雪が白く染め上げていた。石畳の上を滑る馬車の蹄音、着飾った紳士淑女たちの嬌声、そして劇場から漏れ聞こえるオーケストラの残響。それらすべてが冷たい空気の中で結晶となり、この古都を一つの巨大な宝石箱のように閉じ込めていた。


「アレクサンドラ様、今夜も完璧な美しさでした」


オペラ座の貴賓室。老執事のハンスが、そっとカシミアのショールを彼女の肩にかけた。アレクサンドラは、鏡の中の自分を見つめる。


リチャード・ミラーの豪奢なシルクドレスに身を包み、首元には亡き母から受け継いだサファイアが冷たい輝きを放っている。緩やかに波打つ金髪と、理知的な光を宿したヘーゼル色の瞳。人々は彼女を「ウィーンの至宝」と呼び、この街の美徳と高潔さの象徴として崇めた。


「完璧……。ええ、そうね。それが私の仕事だもの」


アレクサンドラは、自嘲気味に口角を上げた。慈善団体の理事として、何千人もの困窮した子供たちに希望を与える「聖母」であること。スキャンダルとは無縁で、常に凛とした気品を保ち続けること。それが亡き父が彼女に託した遺産であり、彼女を縛り付ける、目に見えない鎖でもあった。


鏡の中の「マドンナ」は微笑んでいるが、その指先はわずかに震えていた。数時間前、匿名で送られてきた不穏なメッセージが脳裏をよぎる。『お前の化けの皮を剥いでやる。ウィーンの聖女がどこで、誰と夜を過ごしているか、世界が知ることになる』


心当たりなどない。彼女の生活は修道女のように潔癖だった。だが、悪意というものは事実を必要としない。一握りの捏造と、大衆の好奇心さえあれば、一晩で人の一生を破壊できることを、彼女は知っていた。


「ハンス、車の準備は?」


「はい。正面口に。ですが、お嬢様……」


ハンスの顔に、隠しきれない不安がよぎる。


「外には、例年にないほどの記者が集まっているようです。何やら良からぬ噂を聞きつけたようで」


アレクサンドラは、深く息を吐き出した。


「避けては通れないわ。逃げれば、事実だと認めることになってしまう。行きましょう、ハンス。いつものように」


重厚な扉が開かれ、劇場のロビーへと足を踏み出す。一瞬、荘厳な静寂が彼女を包んだが、正面玄関の重い扉が押し開かれた瞬間、その静寂は暴力的な怒号へと一変した。


「アレクサンドラ様!こちらを向いてください!」


「昨夜の密会は本当ですか!?」


「財団の資金流用の疑いについて一言!」


閃光。数十のフラッシュが、雪の夜を白く切り裂いた。アレクサンドラは眩しさに目を細め、視界が真っ白に染まるのを感じた。記者たちの壁が押し寄せてくる。警備員が防ごうとするが、スキャンダルという血の匂いを嗅ぎつけたパパラッチたちは、飢えた獣のように彼女を取り囲んだ。


「どいてください……!」


必死に声を絞り出すが、その声は罵声とフラッシュの音にかき消される。誰かが彼女のショールを掴んだ。バランスを崩し、雪の積もった石畳に膝をつきそうになったその時。


突如として、背後に「壁」が現れた。


押し寄せる人波が、まるで岩に当たった波のように、一瞬で左右に割れた。アレクサンドラの肩に、力強く、しかし驚くほど穏やかな感触の手が置かれた。


「……下がってください」


低く、深く、そして有無を言わさない威厳を湛えた声。アレクサンドラが顔を上げると、そこには漆黒のオーバーコートを纏った一人の男が立っていた。


彫刻のように整った横顔。冷徹なまでに研ぎ澄まされた瞳は、猛り狂う記者たちを一瞥しただけで、その場を氷結させるほどの威圧感を放っている。雪が彼の黒髪に落ちては溶け、その強靭な肉体から立ち上る微かな熱が、アレクサンドラの凍えた肌に伝わってきた。


男は、彼女の腰を片腕でしっかりと支え、もう一方の手で記者たちの進路を鮮やかに、かつ無駄のない動きで遮断した。


「誰だ、お前は!」


パパラッチの一人が叫ぶが、男は答えなかった。ただ、その鋭い視線がカメラのレンズを貫くと、記者は気圧されたように後ずさった。


男はアレクサンドラを見下ろし、その瞳に一瞬だけ、プロフェッショナルな献身とは異なる、深淵のような情熱を宿した気がした。


「……お迎えに上がりました、アレクサンドラ様」


その言葉は、凍てつくウィーンの夜空に溶ける甘い蜜のようだった。彼はアレクサンドラを優しく、しかし確実に守るように、正面に停められた漆黒のセダンへと導いていく。


「あなたは……?」


震える声で問いかける彼女に、男は車のドアを開けながら、静かに、しかし決然と告げた。


「ラファエル。今この瞬間から、あなたの命と名誉を預かる者です」


ドアが閉まり、外の喧騒が嘘のように遮断される。車内に漂う、雨上がりの森のような彼の香りと、高級レザーの匂い。アレクサンドラは、激しく脈打つ胸を押さえながら、暗闇の中に座る男の横顔を見つめた。


それは、彼女の孤独な人生という名の城に、突如として現れた「守護天使」との、初めての邂逅だった。

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