り:リスカ
〈syde A:詩織〉
薄く、肌を裂く。手首で真横に引く剃刀の刃。
すうっと流れる血を見て、彼女は嗤う。
手を下に下ろす。心臓より低く、暖かい湯船より下に。開かれた血管から、もっと沢山の血が流れ出る様に。
死ぬ気はない。こんな失血量じゃ気を失えもしない。第一、あたしは死にたくなんかない。
習慣。依存。ひとときの高揚感。陶酔。
自分に貼られるレッテル。隠さなければ一生負い目になると判っている傷跡。弱さの象徴。周囲の蔑みと同情。
なのに、彼女は繰り返す自傷をやめられない。
バタバタ走ってくる足音が聞こえて、――うっとりと詩織は湯船に体を沈めた。また、あの顔が見られる。本気で心配してくれる、本気で怒った顔が。
バンッ、と乱暴にドアが開けられた。ずかずかと、その人は湯船に深く浸かる詩織のだらりと垂らした左手を掴んで、ぐいっと上に持ち上げた。詩織の意図と反対、心臓より高く、暖かい湯船より上に。それ以上の血が流れない様に。
ぎっ、と彼女は詩織を睨む。素敵、と詩織の顔は緩んでしまう。へらーっと笑う詩織をきつくきつく睨んで、彼女はいつもの台詞。
「……どうして……?」
はぐらかす訳じゃないけど、答える訳にはいかないから。詩織はただ笑っていただけの顔を少し引き締めて、でも口元には薄い笑みを残して、そうしていつもと同じ台詞。
「……さあ」
射る様に詩織を見据えていた彼女の目から、ぽつりと涙が落ちる。濡れた浴室の床に、詩織の手を高く持ち上げたままの彼女はぺたんと座り込む。
風邪ひいちゃう、詩織はそれには申し訳ないと思うんだけど、この状況で湯船から上がる訳にもいかないから、せめて早く彼女に納得してもらおうと思う。
だから、詩織は気持ちを込めて謝った。
「佳菜子……ごめん」
ぽたっと、いくつも涙が佳菜子の目から落ちる。怒って睨んだ次は、悲しんで泣いてくれる。本気であたしに寄り沿おうとしてくれる、優しい涙。優しい佳菜子。大好きな、ひと。
――そう。大好きなの。だから、あたしは毎回こうしてしまうの。
ただのルームシェアの相方として出会った佳菜子。話してすぐに、好きになった。裏のない優しさ、真っ直ぐな愛情。
誰にでも向けられる佳菜子の愛情を、あたしは独り占めしたかったの。あたしを特別に好きでいて欲しいの。いつでもあたしの事だけを心配してくれて、いつでもあたしの事だけを一番に考えてくれる様に。
それを満たす条件は、リストカットしかなかった。何故、何を悩んでいるの。聞かれても答えない(答えられない)あたしに、口に出来ない深刻な過去や悩みがあるのだと解釈する佳菜子は……こうして、少しあたしのお風呂が長いと心配して見に来てくれる様になった。あたしの目論見どおりに。
ごめんね、愛しいひと。泣かせて、ごめんなさい。心配させて、怒らせて、あたしの為に悩ませてしまってごめんね。
でも、きっと。これからも、あたしはこれを繰り返してしまうだろう。大好きなあなたの優しさを自分への愛情だと信じて。
ごめんね、佳菜子。大好き、なの……。
〈syde B:佳菜子〉
ま た ― ―
目の前を、閃光が走る。
また、同じ事を。
何度でも、同じ光景を。
見せつけたいの?
苦しめたいの?
私を――
きっと、あなたは私の事が嫌いなんだろうと思う。
あなたはわざと、私をいたぶってるんだろうと思う。
私の心に巣食う哀しみ。
癒されない虚しさ。
消せない痛み。
私の胸に手の平を突き立てて、握り潰す様にあなたの手は私の心臓を掴むのよ。
いつも。
楽しむ狂言で。
笑いながら。
だらりと垂れた手、そこから拡がる血溜り。
湯船の中、俯いた顔は見えなくて。
私は立ち尽くす。
ただでさえ白い肌に、生きた温もりは感じられなくて。
悩んでいたらしい事さえも、気付いてあげられなかった。
どうして。
ずっと傍に居たのに。
どうして……。
さっきまで一緒に笑ってたのに。
どう、して……?
仲の良かった姉。
いつも、何でも笑って話しあってた。
なのに、別れは突然だった。
お風呂場の中で、姉は深く手首を切ってた。
何の前触れもなく。
何を言い残す事もなく。
何の未練もなく。
私はあなたの手を掴む。
微かにしか流れていない血。
申し訳程度にしか切られていない傷口。
あなたには、死ぬ気なんてないのよ。
ただ、注目を浴びたいだけ。
そうやって、私の気をひきたいだけ。
私じゃなくてもいい、誰かに構って貰いたいだけ。
……真似しないで。
私の姉の行動を。
模倣したりしないで。
私の姉を汚さないで。
本気でもないくせに。
……思い出させないで。
私を苦しめるのはやめて。
あなたに、姉の姿が重なる。
わざと、なの……?
知らない筈、なのに?
気付いてあげられなかった私を、責めてるの?
姉に代わって?
だから、あなたは笑ってるの?
簡単に刃を引く。
簡単に血を流す。
簡単に、それを笑う。
あなたのその行動には、何の意味があるの?
私はもう――これ以上、それを見ている事は出来ない。
落ちてた剃刀。
あなたが落とした剃刀。
手に握り込む。
あなたは、まだ笑ってる。
あなたが自分で切った様に、親指側から小指側に向けて切らなきゃいけない。
失敗しない様に。
チャンスは一回。
笑ったあなた。
にこっ、と私もあなたに笑い返す。
閃いた私の手に、あなたの意識が向かわない様に。




