第二話:人生の計画
下校時、時刻は午後五時半を指していた。
四月も末というのに、夕暮れの風にはなお冷たさが残り、流れゆく雲は茜色に染め上げられた。
多崎司は学生服のズボンのポケットに両手を突っ込み、不機嫌そうな面持ちで歩を進める。
先ほど申込書を提出したばかりというのに、ATF部の意味を問う間もなく追い出されてしまった。金持ちの子女とは、ことごとくこうも気難しいものなのか?
はあ……せっかくの早退可能な部活だ。万事うまく運ぶことを願うのみだ。
陽は次第に地平へ沈み、無数の街灯が虚勢を張るように点り始めた。
「多崎君、こんばんは」
アルバイト先のコンビニに入ると、遠野幸子が熱心に声をかけてくる。
「こんばんは。まずは着替えます」
多崎は軽く会釈を返すと、従業員用更衣室へと向かった。
彼がこの世界に来た当初、所持金はわずか四万円。翌月の家賃すら払えず、食糧危機に陥った彼は、真っ先に学園近くのコンビニでアルバイトを得て、誇り高き労働者となったのである。
先ほど挨拶をした幸子姉さんは、この店の女主人であり、未亡の身であった。容姿も悪くなく、心根も慈しみ深い。
元々この店は人手に困ってはいなかったが、多崎司の脚色を加えた哀れな生い立ちを聞いた後、女主人は「話の出来は今一つだが、男前だし、成長を見込める」と判断し、即座に時給千二百円という破格の待遇を提示した。
一般的な学生アルバイトの時給より、二百五十円も高い。
勤務時間は月曜から金曜の夕方六時から九時まで。週十五時間で、週給は総計一万八千円になる。
一万八千円……それが金銭か?
否、命の綱である。
多崎司はこの女主人に感謝していた――もっとも、職場で余計な気遣いをされなければの話だが。
ユニフォームに着替えた多崎は、品出し用のリストを手に、商品棚と倉庫の間をせわしなく行き来する。
彼の日々の業務は、まず棚の商品補充と、翌日納品すべき商品リストの作成から始まる。その作業を終えれば、後はレジカウンターに立ち、ひたすら会計を捌けばよい。
作業は単純明快で、頭を使う必要はない。ただ体力は要る。
補充リストの作成を終えた多崎は、カウンターへ戻り、ちょうど帰り支度を始めていた女主人へ、手帳をひらりと手渡した。
「多崎君は本当に几帳面なのね」遠野幸子は整然とした筆跡と明快な品目書きを見て、感嘆の声を漏らした。
「幸子姉さんのご厚意あってこそです」
「はっは~」遠野幸子は朗らかに笑い、財布から一万円札二枚をひらりと抜き取った。「ほら、先週の給料よ」
「あの、小銭の持ち合わせがなくて」
「余分の二千円は、ご褒美ってことで……」幸子は手をひらひらと振りながら、陽気に告げた。「姉ちゃん、デートに行ってくるわ。多崎君も頑張ってね」
「ご武運を」
【貴方との愉しい会話により、遠野幸子株 指数10ポイント上昇。現在の株価:110】
株価はまた上がった。多崎は彼女の後姿を見送りながら、心の内で嗤った。
この十日間の日常会話から、彼はすでに幸子という人物の本質と、彼女が求めるものを看破していた。
三十路の未亡人。多少の貯蓄があり、物質的には不自由しない。ならば彼女が追い求めるものは、ただ一つ――財力の多寡よりも、器量の豊かさ(※)に他ならない。
十五歳の多崎司には、到底叶わぬ望みだ。故に、システムを利用して彼女から「羊毛」を刈り取るに止めるべきで、非現実的な幻想など抱くべきではなかった。
かくして妄想に耽っている隙に、同校の制服に身を包み、お洒落に着飾った二人の少女が、ふらりと店内へと足を踏み入れた。
【二ノ宮詩織株 新規上場】
【発行価格:10】
【発行数量:1000株】
【春日香苗株 新規上場】
【発行価格:10】
【発行数量:1000株】
忌々しい(いまいましい)システムめ…… 容姿端麗な娘なら誰でもかまわず無造作に銘柄追加するなよ!
多崎司は内心で呪いの言葉を噛みしめると、瞬時に顔面に極めて淡い職業的微笑みを浮かべた。「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか?」
「あのっ……イケメン!」
「申し訳ございません。当店の商品ラインナップに『イケメン』は取り扱っておりません」
「話し方もウィットに富んでる……」長髪の女生徒は性格が外向的と見え、カウンターに手をついて身を乗り出した。「ねえ君、喫茶店に行かない?」
多崎は微かに身を後ろへ反らし、安全な距離を保つ。「申し訳ありません。勤務中ですので」
「待つわよ、お勤め終わるまで」
「やめてよ……」と同伴のショートカットの女生徒が彼女の袖を引っ張り、控えめな口調で諫めた。「相手を困惑させちゃうでしょ」
「大丈夫です」多崎は淡々と肯いた。
元の持ち主が育んだ東京育ちの美男子面影を継承した多崎は、この十日間で数多のナンパやラブレターを経験し、もはやこうした事態には流暢に対応できるようになっていた。初めは赤面し恥じらいを見せた純朴な少年の面影は、どこにもない。
ショートカットの女生徒が頬を微かに染めながら多崎を見上げた。「すみません……抹茶のドリンクが欲しくて……」
「二つ目の冷蔵庫、中段です」と多崎はレジ横に列をなす冷蔵庫を指さした。「茶系飲料は全てそこにございます」
「ありがとう……」女生徒は小声で礼を言うと、小走りで向かい、ペットボトル入り抹茶飲料を三本手に戻ってきた。
「ねえ君、どこの学校通ってるの?」長髪の女生徒は美男子漁りを諦めてはいない。
「百五十円×三本で四百五十円。五百円お預かりします。お釣り五十円です。どうぞ」
「じゃあまずライン交換から……」
「早く行こうよ」
「引っ張らないでよ! ねえ君、名前は……」
「お客様、一本お忘れです」カウンターに残された一本に気付いた多崎は、店の扉に向かって呼びかけた。
「そ……その一本はご馳走だから……」
ショートカットの女生徒が振り返り、紅潮した頬でそう告げると、仲間の腕を引っ張り、颯と現場から逃げ去った。
柔らかく甘美な、ほのかな羞らいを帯びた声の震えが、耳朶を痺れさせる。
東京の女子高生というものは、なかなか興味深い。
長髪の女生徒は外向的なようで、常に彼をただ乗り(フリーライド)させようと企んでいる。一方、内気に見えたショートカットの女生徒は、潔く飲み物をおごった。
さて、どちらが二ノ宮詩織で、どちらが春日香苗だったのだろう?
多崎はペットボトルの蓋を捻り、抹茶を一口含んだ。口にした瞬間の微かな苦味は、やがて仄かな甘みへと変わる。この先苦後甘の味わいは、彼の現下の人生そのもののように思えた。
この比喩は極めて正確だった。東京に来たばかりの彼は、極限まで苦渋に満ちていたのだ。
元の持ち主は五歳で両親を亡くし、祖父のもとへ引き取られた。
その祖父は栖川という、江戸期より続く旧華族の出であった。
このような名門の養子となった以上、筋書き通りに運べば、元の持ち主は安泰な人生を送れたはずだ。
しかし現実は……彼の母と父は駆け落ち(かけおち)同士だったのだ!
祖父は元々、多崎という姓を名乗るこの孫を認めておらず、彼の存在そのものが家門への汚点だとさえ考えていた。ただ幼さに免じ、一時の憐憫の情に駆られたのみで、しぶしぶ引き取ったのである。
この経緯があればこそ、多崎司の栖川家における立場は極めて疎外されていた。使用人から「若様」と呼ばれはしても、「栖川」の姓を冠する同世代の子供たちと比べれば、その存在は霞んで見える。
同世代の子供たちにとって多崎は、異分子に過ぎなかった。気が向けば嘲弄し、罵倒し、殴打さえしても構わない対象である。
大人たちの眼には、空気同然の存在と映った。所詮広大な屋敷に、一人の食客を養う余裕などあったのだ。
元の持ち主は十年の歳月を屈辱に嚥下し、ある日ついに爆発した。
――そして睡眠薬を呷った。
まったくもって……敗残の犬のように生き、散ったのである。
嗚呼。
多崎司がこの世界に来た初日、彼は栖川家を出た。名門の水深は計り知れず、手に余ると悟ったからだ。加えて「他人の屋根の下」という感覚が心底嫌悪だった。
自らアパートを借り、アルバイトを得て、東京での新たな生を歩み始めた。
この人生をどう生きるか――多崎は既に大筋の道筋を定めている。
現代日本は階級固化が深刻だ。庶民が底辺から中流へ上がるのは容易だが、中流から更なる高みへ登る道は、数百年の家系を紡ぐ門閥と新興財団によって封じられている。
無論、絶望ではない。卓越した才覚さえあれば、名門も人材を渇望する。
多崎は高校三年で学業に励み、名門大学へ進む。卒業後は実力と美貌を武器に社会の精鋭となることを目論む。
そうなれば、仮に令嬢と縁があろうとも、階級差ゆえに東京湾の埋め立て材にされる心配はない。
俗に言う、柔らかい飯を硬派に食う――大家になるか、大家の夫になるかだ。
仮にこの道が潰えても、彼にはシステムという奥の手が控えている。一点の揺るぎもない。
午後九時、夜勤の従業員と引き継ぎを終え、多崎は学制服へと装いを戻した。
コンビニを出れば、夜風が冷たい。
彼は首をすくめ、「システム」と心で唱えた。瞬く間に三つの選択肢が視界に浮かび上がる。
【株式市場】
【プレイヤー情報】
【取引市場】