闘う聖人君子:王陽明⑨
◯王陽明と寧王の乱
1519年、中国の明という国で起きた「寧王の乱」は、大変危ない事件でした。寧王朱宸濠という王族が、自分を皇帝にしようと反乱を起こしたのです。
この危機に立ち向かったのが、王陽明、別名王守仁でした。王陽明は学者であり、武将でもありましたが、何より人の心を動かす力を持った人物でした。
7月13日、王陽明は吉安という町から軍を進発させました。進発とは、軍隊が目的地に向かって出発することです。
反乱軍は、南京という大きな都市を攻めるために南昌という反乱の中心を空けていたのです。その隙をついて、王陽明は南昌を急襲しました。急襲とは、急いで敵を攻めることです。
南昌を取り戻したことで、反乱軍は慌てて戻ってきました。しかし、王陽明は24日と25日の二日間にわたり、敵と激しい戦いを繰り広げ、ついに撃破しました。撃破とは、敵を完全に負かすことです。
そして26日、ついに寧王の乱の首謀者である朱宸濠を捕えました。首謀者とは、その事件を計画した一番大事な人物です。
王陽明が率いていた軍は、もともときちんと訓練されていない烏合の衆でした。烏合の衆とは、まとまりのない人たちの集まりという意味です。普通の軍隊は毎日訓練をして強くなっていますが、彼の軍はそうではなかったのです。
それでも、王陽明はわずか2カ月足らずでこの大きな反乱を鎮圧しました。鎮圧とは、乱をおさえて平和にすることです。
この速さと成功は、王陽明の軍事能力がとても高かったことを示しています。彼は人の心を動かし、バラバラだった仲間を一つにまとめ上げました。
戦いの前、王陽明は軍の訓練もほとんどできていない義兵、つまり自分たちで立ち上がった兵士たちを率いて、心をひとつにすることを大切にしました。彼は、どんなに武器が足りなくても、戦う心があれば勝てると信じていたのです。
こうして王陽明は、ただの学者ではなく、実際に戦いの現場でも指揮をとる優れたリーダーであることを証明しました。
この戦いは、彼の人生においても大きな転機となりました。心の力を信じて進む王陽明の姿は、多くの人々の心に深く刻まれました。
◯王陽明と朝廷の戦略
1519年、中国の明という国で起こった寧王の乱。王陽明はこの乱を見事に鎮圧し、その軍事才能を証明しました。
しかし、乱がおさまったあとも、問題は残っていました。寧王の残党――つまり、反乱を起こした寧王朱宸濠の仲間たち――がまだ各地に潜んでいるのです。
このため、朝廷――つまり国を治める政府――は、正徳帝という皇帝を自ら前線に送る親征、つまり直接戦いに出ることを計画しました。
皇帝が戦場に行けば、その強い力で残党を一気に叩けるかもしれません。でも、それには大きな問題がありました。
その頃、明の国は北西の国境で、異民族――知らない他の国の人たち――がいつも攻めてきそうに待ち構えていました。皇帝が北京を留守にすれば、その隙を狙われる危険があったのです。
そこで、王陽明は朝廷に建白というお願いを出しました。建白とは、正式に自分の意見を伝えることです。
王陽明は言いました。「皇帝が前線に行くのはやめてください。もし皇帝が長く北京を離れると、北の敵が攻めてくるかもしれません。しかも、皇帝を守るためにたくさんの兵士やお金が必要になり、国の人々に大きな負担がかかってしまいます。」
これはただの意見ではありませんでした。王陽明は優れた軍事指揮官であるだけでなく、国家全体のことを考えられる戦略家でもあったのです。
この考え方は、国の未来を見据え、長い目で大切なことを判断する力を示しています。
朝廷の人々も、王陽明の言葉に納得し、皇帝の親征は中止になりました。王陽明のこの活躍は、ただ戦いに強いだけでなく、国の政治を考える立派な人物であることを証明しました。
そのため、正徳16年(1521年)10月、王陽明は「新建伯」という地位に任命されました。伯とは、国からもらう称号で、特別な地位のことです。
この頃の王陽明は、軍事指揮官としての腕前はもちろん、国家の未来を考え、無駄を省く知恵も持っていたのです。
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王陽明は、ただ戦うだけの武将ではなく、深い思考と冷静な判断で国を支える重要な役割を果たしました。
このことは、今でも多くの人に語り継がれ、王陽明の偉大さを示す出来事として知られています。
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このように、王陽明は戦場だけでなく、政治の場でも優れた知恵を発揮し、国を守るために尽力した人物でした。未来を見通す力と勇気を持つ彼の生き様は、今を生きる私たちにも大切な教えを与えてくれます。
◯王陽明が広西へ向かう日
嘉靖6年、西暦1527年のことでした。中国の広西という遠い地方で、突然、反乱が起きたという知らせが届きました。
反乱というのは、国の決まりやルールに背いて、武力で政府に立ち向かうことをいいます。広西の反乱は、たくさんの人が不安になり、国の大問題となっていました。
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王陽明にかかった大きな役目
朝廷――つまり国のトップの人たちから、王陽明に「この反乱を討伐せよ」という命令が届きました。
王陽明は、ただの学者ではありません。彼は戦の経験も豊富で、指揮官として軍隊をまとめる才能がありました。
でも、ここで大きな問題がありました。王陽明は肺を悪くする病気、結核にかかっていて、とても体が弱っていたのです。
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辞退したい王陽明
「体の調子がよくないので、戦いに行くことはできません」と王陽明は朝廷に伝えました。これは「辞退」と言って、自分から断ることです。
「病気の自分が行っても、うまく指揮できないのではないか」と心配していました。彼は自分の体を大切に考えたのです。
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それでも許されなかった辞退
けれども、朝廷は王陽明の辞退を許しませんでした。なぜなら、彼がいちばん信頼できる指揮官だからです。
「王陽明こそ、広西の反乱を収めるのにふさわしい」と考えました。王陽明の能力と人望は、他の誰よりもずっと高かったのです。
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決意を新にする王陽明
王陽明は悩みましたが、結局、朝廷の命令を受けることにしました。病気でつらい体でしたが、「自分が行かなければ、もっと多くの人が苦しむ」と考えたのです。
「国のため、そして民のために、私は行く」と心に誓いました。
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出発の朝
広西へ向かう日、王陽明は病に耐えながらも、まっすぐな目で遠くの山々(やまやま)を見つめていました。
部下たちは心配しつつも、王陽明の決意に力をもらいました。
「王陽明先生が行かれるなら、私たちも負けてはいられません」と気持ちを引き締めました。
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これから始まる戦い
こうして、王陽明は病を押して広西の反乱討伐へ向かいました。
病気の体での長旅は大変でしたが、彼は覚悟を決めていました。
「国と民の平和を守るため、全力を尽くそう」と。
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このように、王陽明が広西の反乱を鎮めるために向かうまでの道のりは、病気と戦いながらも、強い責任感と覚悟をもって進んでいったのでした。