闘う聖人君子:王陽明⑧
◯『王陽明と江西、福建の治安――心で紡ぐ平和』
時は、永正十七年(1520年)のこと。
王陽明先生は、中国の南のほう、江西と福建という二つの地方で、大きな役割を果たしていました。
この二つの地域は、広い山々(やまやま)と川が多く、昔から土地の支配がむずかしい場所でした。
役人たちの力が届きにくく、盗賊や悪い人たちがはびこりやすい、そんな土地だったのです。
王陽明は、ここで「巡撫」という仕事を命じられました。
「巡撫」とは、治める地域をまわって、悪いことを防ぎ、平和を守るための大切な役目です。
王陽明は、ただ武で戦うだけではありません。
彼は、民衆と話し合い、どんな困りごとがあるのかを聞きました。
「みなさん、何が困っていますか?私に話してください」
そう言って、王陽明は村や町を歩き回りました。
農民たちの生活はとても大変で、盗賊や匪賊――つまり山に隠れて悪いことをするグループ――が村をおそい、作物を奪っていくのです。
王陽明は、商船という商のための船を借りて、川や海を使って素早く動きました。
兵士だけでなく、村の人々(ひとびと)から民兵を組織し、みんなで力を合わせて盗賊たちを追い払いました。
戦いは厳しいものでしたが、王陽明はただ武力に頼るのではありません。
村人たちの話をよく聞き、彼らが安心して暮らせるように、法律やルールを正しました。
さらに、水路を使った交通や、治水――つまり川の流れをコントロールする工事も進めました。
そうすることで、洪水や干ばつ(かんばつ)を防ぎ、農業がうまくいくように助けました。
このように、王陽明は軍事だけでなく、民政――つまり民衆の生活をよくする仕事――にも手腕を発揮しました。
人々(ひとびと)の心をつかみ、信頼を得て、地域を安定させていったのです。
「力だけでは、平和は守れない。
人の心を動かしてこそ、本当の治まりがある」
そう考える王陽明のやり方は、後の時代にも大きな影響を与えました。
江西や福建の人々は、今もこの時代の話を語り継いでいます。
「王陽明は、ただの武将ではなかった。
彼は心で戦い、心で治めた偉大な人物だ」と。
そして王陽明はまた、新しい時代を見据え、これからも人々のために知恵を絞り続ける決意を固めていました。
◯『寧王の乱――明正徳十四年(1519年)の動乱』
時は中国の明という王朝、正徳十四年(1519年)。この年、ひとりの王族が大きな事件をおこしました。その名は寧王朱宸濠です。
朱宸濠は、明のはじめに王朝をつくった洪武帝の子孫でした。洪武帝は、明の初代皇帝であり、朱宸濠はその遠いひ孫にあたります。
朱宸濠は、帝の位を奪い、自分の子どもを次の皇帝にしようと考えていました。彼はそのために、さまざまな悪いことをしました。
まず、太監という皇帝のそばで働く男性に賄賂を渡し、たくさんの護衛兵を集めました。護衛兵は、王様や皇帝を守る兵士たちのことです。
さらに、朱宸濠は自分のために死をいとわない死士という兵士を育てました。彼らは命をかけて戦います。また、地方の役人や罪のない人々(ひとびと)を勝手に処罰し、恐ろしい行動を続けていました。
正徳十二年(1517年)には、秘密で「仏郎機銃」という火器を作りはじめました。火器とは、鉄砲のような新しい武器のことで、戦で大変強力です。
しかし、朱宸濠の悪事を見ていた太監の張忠と御史の蕭淮が、皇帝にそのことを報告しました。御史とは、役人たちの行動を監視し、悪いことを取り締まる役割を持つ人のことです。
この知らせを受けた正徳帝は、護衛兵を解散させ、朱宸濠が奪った土地を返すよう命令しました。
しかし、これがきっかけとなり、朱宸濠は怒り、正徳十四年(1519年)六月十四日に南昌で十万人の兵を集めて反乱を起こしました。
彼は江西という地方の高い役職にいた孫燧と許逵という役人を殺し、朝廷を非難しました。
そして、正徳という元号を自分で変え、新しい名前を付けて、自分が正しい皇帝だと主張したのです。
さらに、朱宸濠は各地に檄文を送り、多くの人々に自分の味方になるよう呼びかけました。
この乱は、明の国を大きく揺るがす事件となりました。多くの人が戦に巻き込まれ、苦しみました。
当時の人々は、この動乱によって国の未来がどうなるのか、大きな不安を感じていました。
寧王朱宸濠の乱は、その後も明の歴史に大きな影響を与えましたが、この事件を通して、人々は正しい政治や平和の大切さを改めて考えるようになりました。
◯王陽明と寧王の乱
1519年、中国の明という国で、寧王朱宸濠という王族が反乱を起こしました。反乱というのは、国のルールや決まりを破って、自分が王様になろうとする大きな事件のことです。
王陽明は、実は別の名前で王守仁とも呼ばれます。彼は学者であり、軍人でもありました。つまり、知識を持ちながら戦うこともできる、とてもすごい人です。
反乱のニュースが届いたとき、王陽明はすぐに行動を始めました。まだ朝廷、つまり国の中心から「反乱をやっつけろ」という正式な命令が出ていなかったのに、彼は軍をもとの場所に戻し、吉安府というところで「義兵」を組織しました。
義兵というのは、国や人を守るために自発的に集まった兵士たちのことです。つまり、王陽明はみんなの力を集めて、反乱に立ち向かおうとしたのです。
しかし、その義兵は普通の軍隊とは違いました。軍隊は普段から訓練をしていて、戦い方をよく知っています。でも王陽明が集めた義兵は、ちゃんと訓練をしていない人たちの集まりでした。まるでバラバラの烏合の衆、つまりまとまりのない集団のようでした。
それでも、王陽明はあきらめませんでした。彼はこの烏合の衆をまとめ上げ、反乱をおさえるための準備を始めたのです。
どうして王陽明はそんなことができたのでしょうか?それは、彼がただの戦士ではなく、「人の心」をよく理解していたからです。王陽明は学問を通じて、「心の力こそが一番大事」だと考えていました。だから、訓練されていなくても、心を一つにできれば強い力になると信じていたのです。
そのため、彼は義兵に対しても熱心に話しかけ、一人ひとりの心に火をつけました。どんなに弱そうに見えても、みんなが力を合わせれば必ず強くなれる――そんな思いを伝えたのです。
王陽明の姿を見て、義兵たちはだんだんと心を合わせていきました。自分たちのためだけではなく、国や人々を守るために戦おうという強い決意が生まれたのです。
こうして、王陽明は未だ正式な命令が出ていないのに、自ら進んで反乱に立ち向かう準備を進めました。
この勇気と決断は、王陽明がただの学者や武将ではなく、人の心を動かす力を持つ特別な人物であることを示しています。
寧王の乱は、その後も明の国を大きく揺るがしましたが、王陽明のこうした行動が、やがて国の安定に向かうきっかけとなっていくのです。