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闘う聖人君子:王陽明⑦

王陽明おう・ようめいの帰還


ながい長いよるが、ようやくけようとしていました。


みやこそら朝日あさひしこみ、りひびく太鼓たいこの音が、あたらしい一日いちにちのはじまりをげます。


その日、朝廷ちょうていは、おおきくうごいていました。


劉瑾りゅう・きんが、ついに……!」


ある役人やくにんのひそひそごえが、宮中きゅうちゅうひろがりました。


劉瑾りゅう・きんとは、宦官かんがんとよばれる人です。宦官とは、むかし中国ちゅうごく皇帝こうていにつかえた特別とくべつな役人のこと。なかでも劉瑾は、正徳帝せいとくていというわかい皇帝にられ、ながいあいだ権力けんりょくをふるってきました。


けれど、そのちからはだんだんとわる方向ほうこうへとかっていきます。自分じぶんさからものばっし、金銀財宝きんぎんざいほうあつめ、人民じんみんくるしめました。


王陽明おう・ようめい――

本名ほんみょう王守仁おう・しゅじん


彼はかつて、この劉瑾りゅう・きんいかりにふれ、都からとおくはなれた貴州龍場きしゅう・りゅうじょうという山奥やまおく左遷させんされました。けれど、その地でこころ修行しゅぎょうかさね、「陽明学ようめいがく」というあたらしい学問がくもんいだしたのです。


そんなある日、正徳帝せいとくていがふと、心をえました。


「なぜ、たみは苦しんでおるのだ? 本当ほんとうあくは、そばにいるではないか!」


皇帝はついに、劉瑾りゅう・きん悪事あくじり、激怒げきどします。


命令めいれいがくだされ、劉瑾りゅう・きんはすぐにらえられました。彼の屋敷やしき調しらべてみると、そこにはしんじられないほどの財宝があったといいます。


黄金おうごんで1200万両りょうぎんで2億5000万両。これは当時とうじ政府せいふが10じゅうねんかけてやっと集められるほどの大金たいきんでした。


人々は見開みひらき、言葉ことばません。


「なんと……こんなにも、わしらの金が……!」


劉瑾りゅう・きん重罪人じゅうざいにんとして、特別とくべつおもけい――

凌遅刑りょうちけいしょせられました。


これは、きたままからだすこしずつられていくという、昔の中国でもっともおそろしい刑罰けいばつです。記録きろくによると、劉瑾は三日間みっかかんかけて4700かかしょを切られたとつたえられています。


けれど、それは人々がどれだけいかっていたか、そして劉瑾がどれだけわるかったかをあらわ数字すうじでもあります。


そして――そののち


王陽明おう・ようめいは、ふたたび都へもどされました。


王守仁おう・しゅじんよ、お前のような人材じんざいこそ、くにささえるはしらとなるべきである」


皇帝の言葉をけて、王陽明はたかくらいをあたえられます。


けれど、王陽明おう・ようめいかれたりはしませんでした。


かんの位とは、心のしゅめにぎぬ。大切たいせつなのは、こころざしおこないである」


かつて山奥で、だれにも知られず従者じゅうしゃ看病かんびょうしていたあの気持きもちを、彼はずっとわすれずにいたのです。


正義せいぎは、やがてただしくとおる。

そうおしえてくれたのは、苦難くなんえても、心をげなかった王陽明おう・ようめいそのひとでした。



◯『川をのぼる軍師ぐんし――王陽明おう・ようめいみなみをゆく』


ときみん時代じだい、年は西暦せいれき1516年。

中国ちゅうごくの南、江西省こうせいしょう福建省ふっけんしょうやまあいで、人びとのらしは不安ふあんにつつまれていました。


「また、農民のうみん反乱はんらんか……」

匪賊ひぞくどもが、むらをおそっているらしい」


匪賊ひぞくとは、山賊さんぞくのように、人々(ひとびと)をおそってものをうばう悪者わるものたちのこと。

このあたりでは、政府せいふ役人やくにんちから発揮はっきできず、ほう秩序ちつじょまもられていなかったのです。


「このしずめられるのは――陽明ようめい先生せんせいしかおらぬ!」


そうばれた人物じんぶつがいました。

名は王守仁おう・しゅじん。人々からは「陽明ようめい先生」とうやまわれる学者がくしゃであり、同時どうじたたかいの知恵ちえもそなえた軍師ぐんしでした。


王陽明おう・ようめいはすぐに支度したくをととのえると、部下ぶかたちにこう言いました。


りくではなく、みずをつたってすすむぞ」


なんと、彼は商人しょうにん使つかう船――商船しょうせん徴用ちょうようし、川をつたって村から村へと進軍しんぐんする計画けいかくを立てたのです。


「この地は山深やまぶかく、みちもぬかるんでおる。だがかわは、まっすぐながれておる」


水路すいろをつかえば、はやうごけるだけでなく、てき予想よそうもしにくくなる――

それはまるで、みずそのもののように自由じゆうで、しなやかな作戦さくせんでした。


船団せんだんしずかに川をのぼり、村々へとちかづいていきます。

途中とちゅう反乱軍はんらんぐんや匪賊たちがちかまえていても、王陽明はあわてず、すぐに民兵みんぺい組織そしきしました。


民兵みんぺいとは、ふつうの村人むらびとたちが、自分じぶんたちの手で村をまもるためにつくった兵隊へいたいのことです。


「おまえたちのふるさとは、おまえたち自身じしんの手で守るのだ」


武器ぶきち方、れつのくみ方、たたかいのこころ――

王陽明おう・ようめいは一つひとつていねいにおしえました。


やがて、反乱軍はひとつ、またひとつと鎮圧ちんあつされていきました。

いくさだけでなく、村に安心あんしんをとりもどすために、王陽明おう・ようめい夜遅よるおそくまで村人のこえきました。


こまっていることはないか」

「道がこわれて、物がとどかぬのです……」

「ならばなおそう。役人には、すぐ知らせよう」


そうして陽明先生は、戦場せんじょう指揮しきをとりながら、同時どうじ民政みんせい――つまり人々のらしをよくする政治せいじも、着実ちゃくじつおこなっていったのです。


五年ごねんというなが月日つきひ

あめの日もかぜの日も、王陽明おう・ようめいは川をくだり、またのぼり、山あいの村をひとつひとつたずねました。


そして最後さいごの村をしずめたとき――

たみたちは、けんではなく言葉ことばと心で平和へいわをもたらしたこの人物を、ふかく敬いました。


「先生のおかげで、わたしたちはいえを守ることができました」


王陽明おう・ようめいは、にっこりわらってこたえました。


「人のこころに正しさがあれば、くにもまた正しくなるのだよ」


その言葉は、川のおとといっしょに、とおく遠くへとながれていきました――。



◯『はるかぜえたともしび――徐愛じょ・あいのこと』


王陽明おう・ようめい先生が、こころをこめておしえていたわか弟子でしがいました。

徐愛じょ・あい。まだ三十さんじゅうをすこしこえたばかりの青年せいねんでした。


曰仁えつじんは、もん顔回がん・かいである」


王陽明おう・ようめい先生は、こうかたりました。

顔回がん・かいとは、むかし中国ちゅうごく大先生だいせんせい孔子こうし一番いちばん弟子でしとして知られる人物じんぶつです。

まじめで、礼儀れいぎただしく、まなぶことをあいし、わかくしてくなったために、孔子がふかかなしんだとつたえられています。


「その顔回と、わたしの徐愛は、おなじである」

――王陽明おう・ようめい先生がそううほどに、徐愛はすばらしい心をもった人物だったのです。


ところが――

永正えいせい十四年(1517年)のはるやまい突然とつぜんに、かれおそいました。


医者いしゃをつくしました。くすりためしました。

けれど、わかいのちは、かぼそく、あまりにもはかなく、かぜのように、ひかりのように、しずかにえていったのです。


享年きょうねん三十一さんじゅういち

それは、まなもんをのぼったばかりの、未来みらいかってあるきはじめたばかりの年齢ねんれいでした。


知らせをいた王陽明は、ただちつくしておられました。

やがて、こえしぼるように、こういました。


「私は、てんいたい。なぜ、徐愛じょあいを、あのようなものを、こんなにもはやうばっていったのだ」


陽明先生は、べ物もくちにせず、ねむることもできぬ日々(ひび)をすごしました。

弟子をうしなったかなしみは、心のおくから消えません。


彼は、徐愛じょあいのために追悼文ついとうぶんきました。


「あなたの言葉ことばは、私のみみにあります。

 あなたのかおは、私のにあります。

 そして――あなたのこころざしは、私のこころなかにあります」


それは、ともとして、として、ちちのようでもあり、あにのようでもある――そんな深いなさけにあふれた言葉でした。


弟子のなかにはくずれる者もいました。

けれど、王陽明おうようめいは、ふらつくあしをふみしめながら、しずかにいました。


かなしみはむねにしまおう。徐愛のこころざしを、我々(われわれ)がけついでゆくのだ」


春風しゅんぷうは、やさしく木々(きぎ)をなで、草花くさばなをゆらしました。

まるで、徐愛じゅあいたましいが、師のまわりを見守みまもるかのように。


ひとは、きているあいだなにをなすかが大事だいじなのだ」


王陽明おうようめいは、とおくを見つめていました。

そのまなざしの中には、亡き弟子と、ともにあゆんだ日々(ひび)と、これからも彼の志と生きていこうという決意けついが、しっかりと宿やどっていたのです。


――春の風に、なみだは静かにいました。

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