闘う聖人君子:王陽明⑥
◯王陽明の受難
あの王陽明――本名は王守仁――が、大きな困難に立ち向かったのは、三十三歳のころのことでした。
時は明という王朝の弘治十八年、西暦でいえば一五〇五年。
この年、長年にわたり国を治めてきた弘治帝が亡くなり、その子どもである正徳帝が皇帝となったのです。
しかし、新しい皇帝が若く、まだ国のことをよく知らなかったために、かわりに力をふるう者たちが現れました。
それが「宦官」と呼ばれる人々(ひとびと)でした。
宦官とは、もともとは宮中で皇帝の身のまわりの世話をする役人でしたが、時代がたつにつれ、力を持ちすぎて、国の政治までも動かすようになってしまったのです。
王守仁は、こうした宦官の不正を見て、胸を痛めました。
「正しくないことには、正しい心で立ち向かわねばならぬ」
そう信じていた王守仁は、同じ思いを持つ若き官僚たちと力を合わせて、宦官の横暴に立ち向かったのです。
ですが――。
「よけいなことをするな!」
そう怒った宦官たちは、王守仁たちを次々(つぎつぎ)に牢に入れ、処罰を加えていきました。
王守仁も、その標的となります。
罪もないのに、「逆心あり」とされ、牢屋に押しこまれました。
そして、なんと「鞭打ち四十」――
背中をむちで四十回も打たれるという、あまりにむごい罰を受けたのです。
体は血に染まり、意識も遠くなりました。
「……せ、先生……!」
牢の外で弟子たちが泣き叫んでも、役人たちは見向きもしません。
けれど――王守仁は、死にませんでした。
それどころか、血まみれになりながら、目を見開き、歯を食いしばり、心の中で叫びました。
「――わしの心は、誰にも傷つけられぬ。行いが正しければ、どれほど苦しくても、道を曲げてはならぬのだ!」
そう思うと、不思議なことに、痛みは少しだけ軽くなったように感じられました。
それからのち、王守仁は、ますます「心の学」に深く向き合うようになります。
人の心を正しく保つことが、どれほど大切か――。
そして、苦しみや試練を乗りこえてなお、明るい光を見出すことができるのは、「良知」――
つまり、人の心に生まれつきそなわる正しさのおかげだと、確信するのです。
このあと、王守仁はついに「陽明」と名乗り、ただの学者ではなく、「心で世を治める」聖人の道を歩んでいくことになるのです。
◯都の空はもう見えない――。
王陽明は、小さな馬に揺られながら、ひたすら山道を進んでいました。目指す先は「龍場」という場所。今の中国の地図でいえば、貴州省貴陽市修文県というところです。
「ここが……左遷先か」
王陽明がこの地に来ることになったのは、ただ仕方のないことではありませんでした。
当時、明の国では、皇帝に仕える「宦官」とよばれる役人たちが、大きな力を握っていました。中でも劉瑾という人物は、まるで皇帝そのもののようにふるまい、多くの正直者を遠ざけていたのです。
王陽明もその一人でした。まっすぐな心で国を思い、劉瑾の悪事を正そうとしましたが、その結果、鞭打ち四十の刑罰を受け、そして遠く貴州の地に追いやられることになったのです。
龍場という土地は、都から見るとまさに「辺境」とよばれる場所。人も風習も言葉も、まったく異なります。
このあたりには「彝族」とよばれる少数民族が多く住んでいました。彼らは独自の言葉を使い、木や土を使って家を建て、色とりどりの布で体を飾る文化をもっていたのです。
王陽明が到着したころ、ちょうど雨期に入っていました。空はどんより曇り、ぬかるんだ道を進むにも、馬の足がとられて転びそうになります。湿気が多く、山からは冷たい風がふきおろしてきます。
「こんなところで……」
思わず口に出した言葉を、王陽明は途中で飲みこみました。
「……だからこそ、わしがやるのだ」
この地には、学校も先生もいません。学ぶことを知らない子どもたちが、畑で働き、親のまねをして暮らしていました。
王陽明は、そんな子どもたちをひとり、またひとりと呼び集め、木陰で読み書きや礼儀を教えるようになります。
「学ぶことは、どこにいてもできる。心を正し、己をみがくことこそ、本当の道なのだ」
厳しい気候、ちがう文化、遠ざけられた身分――それでも、王陽明は少しもくじけませんでした。
やがて、彼の教えを聞いた人々(ひとびと)は、次第に集まりはじめ、龍場は小さな学問所となってゆきます。
王陽明にとって、龍場はただの左遷先ではありませんでした。
それは、「逆境の中こそ、本当の学びが生まれる」――そう教えてくれる場所となったのです。
◯あの山を越え、川を渡って、また山――
貴州龍場は、それほどまでに遠く、深い山奥にありました。
王陽明、本名を王守仁といいます。かつては都で官として仕えていましたが、権力者である宦官・劉瑾ににらまれ、鞭で打たれた上に、この龍場という辺境の地へと左遷されてしまったのです。
都での夢、志、すべてが失われたかに見えた王陽明でしたが、この地に来てからも、ただ落ち込むだけの男ではありませんでした。
「聖人とは、ただ本を読むだけではなれぬ。行いの中に、真の道がある」
ある朝、そんな考えを胸に、王陽明は薪を割り、水を汲み、掃除をして、わずかな畑を耕していました。身分ある学者が、まるで百姓のように汗を流していたのです。
そんなある日、都から共に旅してきた三人の従者が、ひとり、またひとりと病に倒れました。
山深い龍場では、医者も薬も手に入りません。
「よいか、お前たちは寝ておれ。わしがやる」
王陽明は、火を起こし、薪を割り、水を汲み、やわらかい粥を煮て、従者たちに口へ運びました。
夜には、詩を読み、歌をうたい、遠く離れた故郷・餘姚の民謡を口ずさみました。
「ほうら、餘姚の風はこんなふうに吹くのだぞ」
従者たちは弱った体を起こし、すこしずつ笑顔を取りもどしていきました。
ある夜のこと――
空に星がひとつ、ちらりとまたたいたその時、王陽明は、ふと我を忘れていたことに気づきました。
生きるか、死ぬか。
都へ戻れるのか、戻れぬのか。
自分は失敗者なのか、それとも……
「……いや、今、この瞬間こそが大事なのだ」
彼は心の中で、こんな問いかけをしました。
――もし、ここに聖人がいたならば、どう振る舞うだろうか?
そして、こう答えました。
――きっと、わしと同じように動き、歌い、助けるだろう。
「ならば、わしのしていることは、まさに聖人の行いである。
わしは、まさに聖人と同じ境地にあるのだ」
その瞬間、王陽明の中に、これまでの学問では得られなかった、まっすぐな光が差し込んだのです。
「物事の理を外に求めるのではない。己の心の中にこそ、すべての答えがある」
これを、後に「陽明学」と人々(ひとびと)は呼ぶようになります。
その学びは、「知ること」と「行うこと」が一つになること。
つまり――わかっているなら、すぐにそれを実行せよ、という教えです。
暗く、寂しい左遷地の山奥で、王陽明はただ一人、しかし確かに、偉大な哲学を生み出したのでした。