闘う聖人君子:王陽明⑤
◯王守仁は濬県で役目を務めていた頃、寝る時間を惜しんで夜遅くまで書物を読み漁り、勉学に励みました。
「勉学」というのは、一生懸命に学び、知識や考えを深めることです。守仁は自分を高めるために、どんなに疲れていても、書物から目を離さず勉強を続けました。
しかし、その無理がたたったのか、守仁は肺病を患ってしまいます。肺病とは、肺に関する病気のことで、息が苦しくなったり、咳が止まらなかったりするものです。
病状は日に日に悪化し、守仁は仕事を続けることができなくなりました。そこで、やむなく職を辞めて、故郷に帰ることにしたのです。
故郷に戻った守仁は、まず「養生」に努めました。養生とは、健康を守るために体を休めたり、食事や生活を気をつけたりすることです。
この時期、守仁は病気を治すため、道教や仏道に強く興味を持ちました。
道教とは、中国で古くから信じられてきた宗教で、自然や長生きを願う考え方を大切にしています。仏道は、仏教の教えのことで、心の平和や救済を目指します。
この時の守仁の様子は、「陽明の五溺」と呼ばれています。「溺れる」という言葉は、「夢中になる」「とても好きになる」という意味です。
「陽明の五溺」とは、守仁が人生の中で五回も夢中になったものがあったということです。
はじめは「任侠」の習いに溺れました。任侠とは、人を助けたり、正義を守ったりする心意気を言います。守仁は若い頃、そんな勇ましい考えに夢中でした。
次に騎射の習いに溺れました。騎射とは、馬に乗って弓矢を使う武術です。守仁は辺境の問題を解決するには、戦の力も必要だと考え、熱心に学びました。
その次は辞章の習いです。辞章とは、文章や言葉を上手に使う技術です。儒学の勉強もこの頃に熱中しました。儒学とは、中国の古代から続く学問で、人として正しく生きることを教えています。
四番目は神仙の習いです。神仙とは、道教で言う仙人のことで、不老長寿を願う考え方です。守仁は病気を治したい気持ちから、この考えに惹かれました。
最後は仏教の習いに溺れました。仏教は、苦しみから逃れる道を教えてくれます。守仁は心の平安を求めて、この教えに深く惹かれていったのです。
こうして、守仁は体と心の病を治すために、いろいろな学びに没頭しました。これが「陽明の五溺」と呼ばれる理由です。
やがて病を克服し、守仁は再び自分の道を探し始めるのでした。
◯弘治十七年――いまから五百年以上も前の中国でのこと。
王守仁、三十三歳。
かつては肺の病で床に伏していた彼も、長い養生の末に、ようやく元気を取り戻していた。
「……もう一度、世に出て、人を導こう」
そう心に決めた守仁は、今度は山東という土地で、郷試の試験官となった。郷試とは、地方の優秀な人たちが都での大試験を目指すための、最初の関門だった。
守仁の目は鋭く、しかし温かかった。
ただ文章が上手なだけの者には首を横に振り、志が高く、世の人の役に立ちたいと願う者を見抜いて、そっと合格の印をつけた。
そんな守仁の評判は、やがて都にも届いた。
「王守仁――あの人は、ただの学者ではない。心を見抜く賢者だ」
彼はその後、兵部主事という役職につき、ふたたび都に呼び戻された。兵部とは、いまでいう国防省のようなもので、兵士や武器に関することを司るところだ。
主事とは、書類をあつかいながら、物事を正しく進めるための実務担当者のこと。
つまり、守仁は軍事の中枢でも頼りにされる人材となっていたのだ。
けれど、彼のすごさは、それだけではなかった。
都に戻ってからというもの、「教えを乞いたい」と言って、若い学徒たちが、ひとり、またひとりと、彼のもとを訪ねてくるようになった。
「王先生! どうか、わたしに道を教えてください!」
「先生は、どんな本よりも深い知恵をお持ちだと、皆申しております」
王守仁は微笑んで首を振る。
「わたしが教えるのではない。君の心の中に、すでに道はある。それに気づく手助けを、わたしがするだけじゃ」
この言葉に感動し、目を潤ませる者もいた。
それからというもの、彼の門下には、老若男女を問わず、人が集まりはじめた。
その学びの場は、いつも和やかだった。
誰もが自由に思いを述べ、互いに語り合い、そして王先生の一言で、深い気づきを得る。
「学びとは、知識を集めることではない。
己の心を磨くことなのだ」
その教えは、都中に広がり、四十歳になるまでのあいだに、王守仁の門弟は数知れぬほどに膨らんでいった。
学問とは、人の心を明らかにすること。
ただの文字や計算だけではなく、どう生きるかを見つめ直すものなのだと。
人びとは、彼の教えを「心学」と呼び始めた。
それは、やがて時代を超え、国を超え、人々(ひとびと)の生き方そのものに影響を与える大きなうねりとなってゆく――その始まりであった。
◯王守仁――のちに「王陽明」と名乗ることになる男は、このころすでに、たくさんの門弟に囲まれていた。
門弟とは、先生に学ぶ弟子のこと。
そのなかでも、とくに心がまっすぐで、才知にすぐれた若者がいた。名を、徐愛という。
徐愛は、まだ若かったが、王先生の教えに深く感動していた。
毎日、先生の話を一言も聞きもらすまいと、目を輝かせてノートを取り、心にしっかり刻んでいた。
ある日、王先生は静かに弟子たちに語った。
「学ぶということは、ただ本を読み、知識をつけることではない。
もっと大事なのは、自分の心を明るくすることじゃ。心を知り、心を正しく持つこと――それが、わしの道だ」
徐愛は、それを聞いて深くうなずいた。
「先生、それは“知行合一”ということですね」
知行合一とは、知ることと、行うことを一つにするという意味だ。
頭でわかっただけでは意味がない。正しいと知ったことは、すぐに行動で示すべきだ、という教えだった。
「そのとおりじゃ、徐愛。おぬしは、よく学んでおる」
王先生はにこりと笑い、徐愛の肩に手を置いた。
その日、弟子たちは皆、心がぽかぽかと温かくなったような気がした。
ところで、王守仁という名は、もともと彼の本名である。
しかし、彼はあるときから、「陽明」と名乗るようになった。
これは「号」といって、自分の考えや生き方をあらわすための特別な名まえだ。
王守仁は、陽明洞という山にこもり、長い間ひとりで考えつづけたことがある。
その時の体験が、彼にとってとても大切だったので、「陽明」と号したのだ。
「わしの学問は、ただ知識を集めるためではない。
人の心を明るくし、世を正しくするためのものじゃ」
そう語る王陽明に、弟子たちはまるで陽だまりのようなあたたかさを感じていた。
とくに徐愛は、王陽明にのそばで学ぶことを何よりの誇りとしていた。
書物よりも、日々(ひび)の行いから、正しい生き方を学ぼうとした。
「心が正しければ、行いも正しくなる。たとえ一人であっても、道をはずれてはならない」
それが王陽明の教えだった。
徐愛は、その言葉を胸に刻み、やがて自分自身も多くの人々(ひとびと)を導く人物となってゆく。
王陽明という一人の師と、それに心から応えた弟子・徐愛。
その絆は、やがて国を越え、時代を越えて、多くの人に受け継がれてゆくこととなる――。
◯その日は、王陽明――本名を王守仁という――の家に、ひときわあたたかな風が吹いていました。
「兄さま、ありがとうございます!」
そう声をかけたのは、妹でした。年は十八。気立てもよく、村でも評判の娘でした。
そしてその隣には、すこし緊張した顔をした若い男が立っていました。
名を徐愛といいます。王陽明の教えを学ぶ若者で、その熱心な姿勢に、王陽明も大いに目をかけていました。
「今日より、わたくしは先生の義理の弟となります。どうか今後とも、よろしくお願い申し上げます」
そう言って深く頭を下げる徐愛に、王陽明はにこりと笑って言いました。
「愛、妹を頼むぞ。お前のように志ある者になら、安心して任せられる」
この日、二人はめでたく夫婦となり、王陽明は徐愛を義弟として迎えることになったのです。
ところで、このころの紹興府餘姚県――王陽明の生まれ故郷では、結婚の風習もなかなかに面白いものでした。
まず、結婚が決まると「六礼」という六つの儀式を行います。
はじめは「納采」といって、男の家が女の家に結婚の申しこみをします。
次に「問名」。これは、お互いの生年月日を調べて、相性が良いかを占う儀式です。
そのあとも「納吉」「納徵」と続き、いよいよ最後は「親迎」。これは花嫁を男の家に迎え入れる式です。
この「親迎」の日はとてもにぎやかで、村じゅうの人が花嫁道中を見物し、太鼓や笛が鳴りひびきます。
そして花嫁が到着すると、家族みんながそろってお祝い(いわ)いの膳を囲みます。紹興酒――米でつくられた香り高いお酒もふるまわれました。
けれども、王陽明の家の婚礼は、質素でありながらも、心のこもったものだったと言われています。
「身を飾るより、心を磨け」
そう教える王陽明にとって、大切なのは形ではなく、まごころでした。
その日の夜、静かになった屋敷の庭にて、王陽明はふと天を仰ぎました。
「これで、わしの教えを継ぐ者が、また一人増えた」
徐愛は、ただの弟子ではなく、血よりも濃い信じあえる仲間となったのです。
その日から、王陽明と徐愛の絆は、家族として、そして学問を共に歩む同志として、さらに深まっていくのでした。