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闘う聖人君子:王陽明④

王守仁おう・しゅじん学問がくもんつか武術ぶじゅつ兵法へいほう挑戦ちょうせん


わかき日の王守仁おう・しゅじんは、学校がっこうでの勉強べんきょうつかれてしまいました。

当時とうじの勉強は、まったやり方で、ただ暗記あんきしたり、ルールに忠実ちゅうじつしたがうことがおもんじられていました。

この「杓子定規しゃくしじょうぎ」という言葉は、ものごとをこまかくめられたとおりにやることを意味いみします。

守仁しゅじんはそんな勉強にきてしまい、自分じぶんが本当に好きなことに取りみたくなりました。


そこでかれ武術ぶじゅつ、つまりからだ使つかったたたかいの技術ぎじゅつ熱中ねっちゅうはじめました。

武術は剣術けんじゅつ弓術きゅうじゅつなど、人がてきたたかうためのわざを学ぶことです。

守仁はとく騎射きしゃ――うまりながらゆみる技術――にすぐれ、だれにもけない腕前うでまえ目指めざしました。


同時どうじに、守仁は辺境へんきょう、つまり中国ちゅうごくの国のはしのあたりでこる問題もんだい関心かんしんを持ちました。

そこではよく、外国がいこくとのあらそいや反乱はんらんがありました。

守仁は、ただつよいだけではなく、いくさつためには「軍略ぐんりゃく」が必要ひつようだとかんがえました。


軍略とは、戦争せんそう計画けいかくし、てきつためのいくさ方法ほうほう知恵ちえのことです。

そのため守仁は、自ら兵法へいほうまなはじめました。

兵法とは、戦いかたをまとめた学問がくもんで、中国ではふるくからたくさんの兵法書へいほうしょかれてきました。


有名ゆうめいな兵法書に『孫子そんし兵法へいほう』があります。

孫子そんしいくさ達人たつじんで、どのように戦うべきか、どう相手あいてを知るか、どう勝つかをのこしました。

この兵法は、ただつよたたかうのではなく、知恵ちえ工夫くふういくさ有利ゆうりすすめることをおしえています。


一方いっぽう、守仁は儒学じゅがくこころざしました。

儒学とは、孔子こうしというむかし学者がくしゃいた「ただしく生きること」や「社会しゃかい秩序ちつじょ」を大切たいせつにする学問です。

この学問は、人としてまもるべきみちや、どう人と仲良なかよらすかをおしえています。


守仁は兵法の実践じっせんと、儒学の人としての生き方を同時どうじに学び、両方りょうほう大切たいせつだと感じていました。

武力ぶりょくだけにたよるのではなく、こころ知恵ちえつこと。

それが本当ほんとうつよ人間にんげんになるみちだと思ったのです。


このように王守仁は、わかくして学問と武術の両方にち込み、将来しょうらいかならくにのために役立やくだとうと決意けついしました。

彼の熱意ねつい努力どりょくは、やがて大きな成果せいかとなり、多くの人々(ひとびと)に影響えいきょうあたえることになります。



◯聖人君子。進士となる


弘治十二年こうじじゅうにねん王守仁おう・しゅじんは三年に一度さんねんにいちどの大きな試験しけん会試かいし合格ごうかくしました。

会試かいしとは、全国ぜんこくからあつまったすぐれた学者がくしゃきそう、とてもたいせつな試験です。

この会試かいしに合格すると、さらにもっとむずかしい試験、殿試でんしけることができます。殿試でんし皇帝こうてい直接ちょくせつ問題もんだいし、優秀ゆうしゅうな人をえら特別とくべつな試験です。


ちなみに、殿試でんしは、合格か不合格かを決める試験ではありません。会試かいしに合格した人はみな科挙かきょに合格した事になります。

殿試でんしは、さらに、会試かいしに合格した人に順位を付ける試験なのです。


守仁しゅじん会試かいしに受かって、すぐに殿試でんし準備じゅんびに入りました。

殿試では、学問がくもんはもちろんですが、人間にんげんとしての礼儀れいぎや考えかんがえかたわれます。守仁はそのことをよくっていたので、真剣しんけん勉強べんきょうし、気持きもちをととのえました。


そしてついに、その殿試でんしに合格し、「進士しんし」という称号しょうごうました。

進士しんしとは、皇帝からみとめられた、すぐれた学者のことです。この称号は、その後の官僚かんりょうとしてのみちすすむための大切な資格しかくとなります。


合格の知らせは、守仁のちちである王華おう・かにすぐに届きました。

父はなみだながして喜び、家族かぞくみんなも大変たいへんうれしそうでした。

父のかおほこらしげにかがやいていて、守仁の努力どりょくがどれほど大切たいせつだったかを物語っていました。


その日、守仁の家はお祝いの準備じゅんびでにぎやかになりました。

おとうと王守文おう・しゅぶんも、そのよろこびをむねいだきながらあにはなしかけました。


にいさん、ついにやりましたね!本当にすごいです!ぼくけないように頑張がんばります。」


守仁はやさしくわらってこたえました。

守文しゅぶん、ありがとう。おまえかなら自分じぶんみちつけられるよ。一緒いっしょにがんばろう。」


兄弟きょうだいはおたがいにはげましい、これからの未来みらいむねちかいました。

守仁にとって、この進士の称号はあたらしい人生じんせいはじまりでした。

彼はこれから、学問がくもんふかめ、くにのためにはたらくことを決意けついしました。


こうして王守仁おうしゅじんは、つらい試験をえ、家族かぞくともに喜びをかちったのでした。

その日から、彼の人生じんせいは大きくうごしました。



弘治こうじ年間のある時、王守仁おう・しゅじん濬県じゅんけんという地で、大きな役目やくめまかされました。それは、むかしから名将めいしょうとして知られる王越おう・えつという武将ぶしょう墳墓ふんぼきずくことでした。


まず、「名将めいしょう」とは、いくさ非常ひじょうにすぐれた軍人ぐんじんのことをいます。王越おう・えつもその一人で、くにのためにいさましくたたかった人物じんぶつでした。彼のはかをしっかりとてることは、地域ちいきの人々(ひとびと)にとっても大切なことでした。


守仁しゅじんはその役職やくしょくくと、まず計画けいかくてました。はかうつくしく、そして長持ながもちするように建てるため、こまかいところまでくばりました。いし運搬うんぱん工事こうじすす具合ぐあいを、丁寧ていねい指揮しきしました。


指揮しきとは、みんなに仕事しごと分担ぶんたんして、ただしいやりかたすすめるようにみちびくことです。守仁は自分じぶん仕事しごとだけでなく、現場げんばはたらく人たちともよくはなし、みんながちからを合わせて作業さぎょうできるようにしました。


そんないそがしい毎日まいにちなか、守仁は時間じかんしみました。よるになってもあかりをすことなく、書物しょもつを読みよみあさり、勉強べんきょうはげんだのです。


勉強べんきょう」とは、あたらしいことをって、自分じぶん知識ちしきかんがかたふかめることを言います。守仁はたん仕事しごとだけをするのではなく、自分じぶんたかめることも大切たいせつに考えていました。


よるおそくまでほんむことで、守仁は知識ちしきやし、これからの仕事しごと人生じんせい役立やくだてようとしていたのです。


彼の姿すがたは、まわりの人たちにとっても尊敬そんけいされるものでした。努力どりょくしまないその姿勢しせいは、わかいながらも大人おとなたちをおどろかせるほどでした。


こうして、守仁は名将めいしょう王越おう・えつ墳墓ふんぼ見事みごときずきあげるとともに、自分じぶんまなびもふかめていったのです。


この経験けいけんは、のちの守仁の人生じんせいに大きな影響えいきょうあたえました。指揮しきをとるちから努力どりょくつづけるつよ意志いし、そして何事なにごとにも真剣しんけんかうこころ。これらはすべて、守仁がのちに「王陽明おうようめい」として有名ゆうめいになるための土台どだいとなったのです。

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