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闘う聖人君子:王陽明③

◯王守仁、会試にいどむも失敗しっぱい詩社ししゃ結成けっせいする


弘治六年こうち ろくねん西暦せいれきで一四九三年のこと。

二十一歳にじゅういっさい王守仁おう・しゅじんは、大事だいじ試験しけん再挑戦さいちょうせんした。


それは「会試かいし」という試験だった。


会試かいしとは何か?

簡単かんたんうと、科挙かきょという官吏かんりを選ぶ試験の真んまんなか段階だんかいだ。

この会試は全国ぜんこくから郷試きょうし合格ごうかくしたひとあつまってける、もっとむずかしい試験だ。


王守仁おうしゅじんはこの会試で合格できず、故郷こきょう餘姚よようという土地とちもどった。

餘姚は浙江省せっこうしょうにある、風光明媚ふうこうめいび歴史れきしあるまちだ。


だが、失敗しっぱいしたからといって、守仁しゅじんの学びがまったわけではなかった。


故郷に戻った彼は「詩社ししゃ」というあつまりをつくったのだ。


詩社ししゃとは?


詩社とは、を書くひとたちがあつまって、作品さくひんったり、意見いけん交換こうかんしたりするグループのことだ。


むかし中国ちゅうごくでは、詩を書くことがとても重要じゅうよう文化ぶんかだった。

詩はたんうつくしい言葉ことばならべるだけでなく、こころ気持きもちやかんがえを表現ひょうげんする手段しゅだんでもあった。


詩社ししゃとでは、参加者さんかしゃ同士どうしたがいの詩を読みよみあい、いところやなおすべきところをおしえ合った。

これにより、みな自分じぶん文章ぶんしょうりょくたかめることができたのだ。


また、詩社ししゃとは仲間なかま同士の交流こうりゅうでもあり、知識ちしきや考えかんがえかた共有きょうゆうすることもあった。

そうして、こころとおわせる友人ゆうじんたちとともに、学問がくもんみちすすめていった。


詩社ししゃとでの守仁の姿すがた


守仁しゅじんもこの詩社の中心ちゅうしんにいた。

かれ仲間なかま一緒いっしょに詩をみ、議論ぎろんし、たがいに切磋琢磨せっさたくましていった。


詩社での時間じかんは、ただ試験しけんのためだけの勉強べんきょうではない。

もっと自由じゆうに、自分じぶんこころ表現ひょうげんし、ふかく学ぶだった。


この時期じき経験けいけんが、のち王陽明おう・ようめい哲学てつがく思想しそうかたちづくる大切たいせつ土台どだいになっていく。


未来みらいへの決意けつい


守仁しゅじんは会試での失敗をむねきざみつつも、詩社での学びをつうじて、あたらしいちからにつけていった。


彼のは、もっととおおおきな未来みらい見据みすえていた。

「まだまだ自分は成長せいちょうできる。かなら立派りっぱ学者がくしゃになる」


こうして王守仁は、挫折ざせつをバネに、さらにまえへとすすんでいったのだった。



◯王守仁、北京にて兵法を学び 心は国事と永遠えいえんに馳せる


二十六歳にじゅうろくさいになった王守仁おう・しゅじんは、大都会だいとかい北京ぺきんにいた。

そこは「京師けいし」ともばれ、政治せいじ中心地ちゅうしんちだった。


守仁しゅじんはここで二年余にねんあまり兵法へいほうまなんだ。

兵法とは、いくさをどうたたかうかをおしえる知識ちしきで、軍人ぐんじん武将ぶしょうにとって大切たいせつ学問がくもんだった。


守仁は時代じだいながれをつつ、自分じぶんくにのためにちからくしたいとつよおもっていた。

これは「挺身ていしん国事こくじ」という気持きもちで、自分じぶんくにやくてたいという決意けついのことだ。


さらに守仁は武芸ぶげいにも熱中ねっちゅうした。

武芸とは、剣術けんじゅつゆみうまってたたか騎射きしゃなどの技術ぎじゅつのこと。


守仁は騎射にとくすぐれていて、だれにもけない自信じしんがあった。

その情熱じょうねつえさかるほのおのようだった。


また、守仁は詩歌しが風流ふうりゅうこのんだ。

詩歌はうたうた、風流とは自然しぜんうつくしいものを楽し(たの)むこころのことだ。

かれはこうした文化ぶんかれてこころ満足まんぞくていた。


しかし守仁のこころは、そうした日常にちじょうよろこびだけではなかった。

かれは「永遠えいえん」というものにつよかれていた。


永遠とは、ずっとわらずにつづ時間じかん存在そんざいのことだ。

その神秘しんぴこころせ、神仙しんせんという、長生ちょうせいきや不老不死ふろうふし目指めざ存在そんざいあこがれていたのだ。


だが、守仁のからだはやくからよわっていた。

健康けんこうがいし、やまいたたか切実せつじつ問題もんだいかかえていたのだ。


それでも彼はけなかった。

こころつよく、くにのために、そして永遠のなぞくためにまなつづけた。


王守仁というわか青年せいねんは、京師のまちで、武芸と学問がくもんはげみながら、自分じぶん未来みらいしずかに、しかしたしかにきざんでいったのだった。



王守仁おう・しゅじん朱子学しゅしがく傾倒けいとう養生ようじょうかた


――こころからだまも大切たいせつみち


二十六歳にじゅうろくさいから二十八歳にじゅうはっさいごろの王守仁おう・しゅじんは、中国ちゅうごくむかしからつたわる朱子学しゅしがく夢中むちゅうになっていました。


朱子学しゅしがくとは、南宋時代なんそうじだい活躍かつやくした朱熹しゅきという学者がくしゃがまとめた儒学じゅがくの教えの一つです。

儒学とは、人がただしく生き、社会しゃかいでうまくやっていくためのルールや考え方を教える学問がくもんです。

朱子学はとくに「」という宇宙うちゅうまりや法則ほうそく大切たいせつにし、人のこころただして、より人間にんげんになることを目指めざしています。


守仁しゅじんはこの教えを熱心ねっしんに学び、何度なんどかんがえをめぐらせました。

しかし、どんなに努力どりょくしても心のまよいやくるしみはえず、満足まんぞくできませんでした。

なぜなら、学問がくもんだけでは、自分じぶんが本当にもとめているこたえにたどりけなかったからです。


そんなとき、守仁は「養生ようじょう」についてはなはじめました。

養生とは、こころからだ大切たいせつにして、元気げんき長生ながいきするための方法ほうほうや考え方です。

たとえば、よくべて、よくねむり、運動うんどうをして、心をおだやかにすることも養生の一つです。


朱子学しゅしがくだけでなく、守仁は老荘ろうそうという考え方にも興味きょうみを持ちました。

老荘とは、古代中国の哲学者てつがくしゃである老子ろうし荘子そうしの教えのことです。

彼らは「自然しぜんさからわず、自然しぜんながれにまかせること」が大切たいせつだときました。

この教えは、あらそいや苦労くろうつかれたこころいやすものとして、守仁の心にひびきました。


さらに守仁は、仏教ぶっきょうにも関心かんしんせました。

仏教はインドで生まれた宗教しゅうきょうで、人がくるしみからのがれ、しあわせになるための教えです。

心の平安へいあんを得るために、瞑想めいそう修行しゅぎょうおこなうことが特徴とくちょうです。


そんな守仁は、時には世のよのなか喧騒けんそうからはなれて、やまろうというかんがえも持ちました。

山にこもることは、俗世間ぞくせけんのわずらわしさやあらそいごとからげて、しずかにらすことを意味いみします。

それは心をけて、自分自身じぶんじしんうための時間じかんを持つということでした。


しかし守仁は、ただかくれて暮らすのではなく、もっと社会しゃかい役立やくだ人間にんげんになりたいというつよおもいを持っていました。

だからこそ、心と体をととのえ、自分の力をみがくための「養生」を重視じゅうしし、学び続けたのです。


この経験けいけんは、のちに彼の考え方や行動こうどうに大きな影響えいきょうあたえました。

王守仁おうしゅじんは、自分の心をふかく見つめ、さまざまな教えを学ぶことで、やがて自分だけの「陽明学ようめいがく」を生み出していきます。

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