闘う聖人君子:王陽明⑪
◯王陽明死後の苦難と弟子たちの努力
王陽明の本当の名前は王守仁といいます。彼は明という時代に大きな仕事を成し遂げた偉い官僚であり、学問の先生でもありました。
________________________________
病に倒れながらも使命を全うした
嘉靖6年(1527年)、王守仁は広西で起きた反乱を鎮圧しました。彼は結核というつらい病気を抱えながらも、使命を果たし、多くの人々(ひとびと)から尊敬されました。
しかし、彼は凱旋(がいせん。戦いに勝って帰ること)の途中に病が悪化し、57歳で亡くなりました。
________________________________
本来ならば受けるはずの栄誉
王守仁ほどの大きな官、つまり、おおやけの役職になると、また大きな仕事を成し遂げて帰ってきた場合、お国から「諡」という特別な名前をもらい、たくさんの恩典(おんてん。特別な待遇)を受けるのが普通でした。
しかし、このときは違いました。
________________________________
大学士桂萼の批判
当時、大学士という偉い役職にあった桂萼が、王守仁が正式な許可を待たずに勝手に帰ろうとしたことを非難しました。
このため、王守仁には本来贈られるはずだった諡は贈られず、伯位(はくい。貴族の位)の世襲(せしゅう。親から子へ受け継ぐこと)も停止されました。
さらに、追賞(ついしょう。死後に与えられる称賛や褒美)も一切なくなり、彼の学問は偽学(ぎがく。うそだと決めつけられること)であると宣告されたのです。
________________________________
弟子たちのたたかい
ですが、王陽明の門人(もんじん。弟子のこと)や有志(ゆうし。応援する人たち)は、利害(りがい。自分の得や損)を考えず、どこに行っても師匠を祀り、遺教(いきょう。師匠の教え)を講じました。
祠堂(してい。神様や偉い人を祀る建物)の数は数百にも達しました。
________________________________
後世の評価回復
そして時代が流れ、隆慶元年(りゅうけいがんねん、1567年)になると、新たに伯の位が追贈され、諡も「文成」という素晴らしい名前が与えられました。
また、王守仁の子である王正億には伯位の世襲が許されました。
さらに、彼を祀る書院(しょいん。学問を学ぶ学校)は七十以上も建てられ、多くの人々(ひとびと)に慕われ続けたのです。
________________________________
王陽明の教えは生き続く
王陽明の人生は苦難に満ちていましたが、その教え(おしえ)は弟子たちの努力で守られ、多くの人の心を照らし続けました。
彼が命をかけて伝えた「心を明るくし、正しいことを行う」大切さは、今もなお、私たちの生き方の教科書になっているのです。
◯王陽明とその家族
王陽明は、ただの偉い学者や官僚だけではありません。彼には大切な家族もいました。今日は、その家族についてお話ししましょう。
________________________________
王陽明の子どもたち
まず、王陽明の子どもである王正億についてです。王正億は、王陽明の一番大切な息子でした。息子とは、親から見て自分の男の子どもを言います。
王正億は父である王陽明の教え(おしえ)を受け継がれ、父の考えを広めるために努力しました。
________________________________
王陽明の孫
次に、王陽明の孫たちのことです。孫とは、自分の子どもの子ども、つまり、孫はおじいさんやおばあさんから見て孫にあたります。
王陽明の孫には、王承勛、王承学、そして王承恩という三人がいました。
彼らもまた、それぞれが学問や社会で活躍しました。おじいさんの教えは、孫たちの胸にも深く根づいていたのです。
________________________________
曾孫たち
曾孫とは、孫の子どものことをいいます。つまり、王陽明にとっては、曾孫はひ孫です。
王陽明の曾孫には、王先進と王先通がいます。
王先進は、王承勛の子どもであり、王先通は王承恩の子どもでした。こうして王陽明の家系はしっかりと続いていったのです。
________________________________
養子もいた
また、王陽明には「養子」もいました。
養子とは、自分の実の子ではないけれど、家族として迎えて育てる子どものことです。
王陽明の養子は、王正憲という人で、彼は王陽明の叔父である王袞の孫でした。
つまり、血縁は近いけれど、直接の子どもではありません。でも、家族の大切な一員として迎えられたのです。
________________________________
家族の絆と王陽明の教え
王陽明は、自分の学問を大切にしましたが、それだけではありません。
彼は家族とも深い絆を持ちました。家族は、ただ一緒にいるだけではなく、心を通わせ、助け合うものだと考えたのです。
彼の子どもたちや孫たち、そして養子も、そんな父や祖父の思いをしっかり受け止め、家族として生きていきました。
________________________________
王陽明の教えは家族とともに
「知行合一」という言葉があります。これは「知ること」と「行うこと」は一つである、という意味です。
つまり、学んだことを行動に移すことが大切だという考えです。
この考えは、王陽明の家族も大事にしていました。だからこそ、彼の子や孫たちはただ学ぶだけでなく、実際に社会で役に立つことを心がけました。
◯心を信じよ――王陽明という人
「先生、どうしてあの人は、そんなに強かったんですか?」
南の国の学問所で、一人の少年が手を挙げた。先生はゆっくりとうなずき、机の上に一冊の古い本を置いた。
「それはね、王陽明――本名を王守仁という人が、学問も戦も、すべて心で乗りこえたからだよ」
時は明という国のころ。都の学者たちは、朱子学という教えを大切にしていた。これは朱熹という人が作った学問で、「格物致知」――つまり、いろんな物や本を調べて知恵を身につけよう、という教えだった。
でも、王陽明はそれに疑問をもった。
「理は外にあるんじゃない。自分の心の中に、すでにあるものだ」
そう考えた王陽明は、山の中にこもり、自分自身の心と向き合った。そしてある夜、大きな気づきを得た。
「知ることと、行うことは、もともと一つだ」
これを「知行合一」といい、これがのちに「陽明学」と呼ばれる学問の出発点になった。
でも、王陽明は学者であるだけでなく、武将――つまり、軍隊を指揮する人でもあったのだ。
その証が「三征」とよばれる三つの戦いだ。
一つ目は、南の村々で起きた乱れた世の中をおさめたこと。このとき、王陽明は商人の船を借りて川を下り、村人たちに武器をわけて守る力を育てた。暴れる集団を静かにせめていき、五年かけて平和をとりもどした。
二つ目は、「寧王」という王さまの反乱。王陽明は、この知らせを聞いてすぐに自分の判断で出陣し、まだ国の命令も出ていないうちに、すでに兵を集めて動き出していた。そしてわずか二か月で、寧王をとらえ、反乱をしずめてしまったのだ。
三つ目は、広西という地での戦い。このとき王陽明は病気だった。でも、それでも軍の指揮をまかされた。命をけずってまで戦いをおさめたのち、自分のふるさとへと向かう船の上で、静かに息を引きとった。
そのとき、王陽明が言ったとされる言葉がある。
「わが心、光明なり。――もう、言うことはない」
心の中にある光。その光こそが、正しいことを見わける力になる。王陽明の一生は、それを証明したようなものだった。
「つまりね」と先生は、黒板に「致良知」という文字を書いた。
「それが、陽明先生のいちばん大切にした教え。自分の心にある『良知』――正しいことを知る心を、大事に生きることなんだよ」
少年はその言葉をノートに書きとめると、そっと胸に手を当ててみた。
自分の中にも、何かが光っている気がした。