闘う聖人君子:王陽明⑩
◯王陽明の広西反乱討伐
嘉靖6年、西暦1527年のことです。広西つまり、中国の南西部にある地域で大きな反乱が起きました。反乱とは、国の決まりごとやルールに逆らって武力で政府に立ち向かうことです。
この反乱は広西の多くの人々を巻き込み、治めることが急務となっていました。そこで、朝廷――つまり国の上の偉い人たち――は王陽明に討伐を命じました。
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病をおしての出発
しかし王陽明は、この時すでに結核という肺の病気に苦しんでいました。結核は、呼吸が苦しくなり、体力が落ちる病気です。
それでも王陽明は「国のため、そして民のために、自分が行かなければならない」と覚悟を決めました。病気で体は弱っていましたが、その強い意志は揺らぐことはありません。
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討伐と平定
広西に着くと、王陽明はすぐに討伐軍の指揮をとり、反乱を起こした勢力を打ち負かしていきました。
「平定」とは、乱れた場所や状態を落ち着かせることです。王陽明は武力だけでなく、人々の心をおさめることも重視しました。
反乱のリーダーたちを捕えたり、暴れていた兵を説得したりして、だんだんと広西の状況は安定していきました。
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事後処理に力を注ぐ
戦いが終わったあとも、王陽明は反乱によって困っている人々のために事後処理を進めました。
事後処理とは、問題が起きたあとに、それを解決したり、元通りに戻したりすることです。
王陽明は税を軽くしたり、住む場所を直したり、生活を助ける政策を行いました。
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独断での帰郷
しかし、広西での仕事は長引き、朝廷からはまだ正式な帰還命令が出ていませんでした。
王陽明は、体が病気で弱っていることもあり、「もう帰らなければならない」と判断しました。正式な命令がなくても、自分の責任で帰ることを決めたのです。
このように、王陽明は広西での任務をやり遂げたあと、自らの判断で故郷に戻る決断をしました。
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王陽明の強い責任感
病気をおして命がけで戦い、平和を取り戻した王陽明。彼の行動は、ただの学者ではなく、真のリーダーであることを示していました。
困難な状況でも自分の信念を持ち、国と人々のために尽力する王陽明の姿は、今もなお多くの人の心に響いています。
◯王陽明の最後の旅
嘉靖6年(1527年)、広西で起きた反乱を鎮圧した王陽明。しかし、その功績に対して、正式な帰還命令はまだ下りませんでした。
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独断での帰郷
王陽明は、ずっと苦しんでいた結核という病気がだんだん重くなっていることを感じていました。結核は肺に影響する病気で、呼吸が苦しくなり、体力がどんどん落ちていく病気です。
「もう、これ以上は持たないかもしれない……」そう思った王陽明は、命令がなくても自分の判断で帰る決意を固めました。国のために尽くした自分の体は、もう限界に近づいていたのです。
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南安府大庾県での最期
帰り道、王陽明は江西省贛州市にある大余県青龍鎮の南安府大庾県という場所に差しかかりました。
ここで彼は船に乗って休むことにしましたが、病状はさらに悪化してしまいます。体はだんだん弱り、ついに57歳でこの世を去ったのです。
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最後の言葉
伝えられるところによると、王陽明の最後の言葉はこうでした。
「わが心光明なり、また何をか言わん。」
「わたしの心は明るく澄んでいる。だからもう、何も言うことはない」という意味です。
この言葉は、王陽明が最後まで自分の心の中が真を見失わず、平和であったことを表しています。
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王陽明の遺志
王陽明は、生涯を通じて「心の明るさ」を大切にしました。それは、正しいことを知り、行動する力に繋がります。
彼の教え(おしえ)は多くの人に影響を与えました。病に苦しみながらも、国や人々のために戦い続けたその姿は、今も多くの人の心に生きています。
◯王陽明の最期の旅路
嘉靖6年(1527年)、広西での反乱を鎮圧した後、王陽明、本名は王守仁は、病と闘いながら帰郷を目指しました。しかし、道中で体調は悪化し、南安府大庾県(なんあんふ・だいゆけん。現在の江西省贛州市大余県青龍鎮(こうせいしょう・かんしゅうし・たいよけん・せいりゅうちん))の船の上で57歳で亡くなりました。
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遺骸の旅
亡くなった後、王陽明の遺骸は広西の地から越城へ運ばれました。越城は当時の広西の重要な都市でした。
しかし、遺骸は越城からさらに三十里(約十二キロメートル)離れた場所に移されました。そこは蘭亭と呼ばれる地域で、さらに蘭亭から五里(約二キロメートル)進んだところでした。
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洪渓の墳墓
王陽明は生前、自分の墓をどこにするか、自ら選んでいました。それが洪渓という地です。洪渓は自然が豊かで、静かで落ち着ける場所でした。
その洪渓の墳墓に、王陽明の遺骸は安置されました。ここで彼は、長い人生を終え、永遠の眠りについたのです。
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墓に込められた思い
王陽明は「陽明学」という教えを生み出しました。これは「心の明るさ」を大切にし、正しいことを知り、それを行うことの大切さを説いた学問です。
自分の最期の場所を選んだときも、彼は自然と心の調和を重視しました。洪渓は静かで清らかな空気が流れ、まるで彼の教え(おしえ)そのもののような場所だったのです。
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王陽明の遺産
彼が亡くなってからも、その教え(おしえ)は多くの人々(ひとびと)に受け継がれ、時代を超えて影響を与え続けています。
遺骸が葬られた洪渓の墳墓は、彼の精神が永遠に息づく場所として、大切に守られてきました。