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闘う聖人君子:王陽明①

◯「うんという名のあかご」


むかし、中国の南のほうに、紹興府しょうこうふ餘姚県よようけんという町がありました。あたりには川が流れ、山がつらなり、村人たちはおだやかに暮らしていました。


その町に、王華おう・かという立派な学者がいました。王華は、国のお役人としてまじめに働き、字を読むのが得意なだけでなく、人の話をよく聞く、やさしい人でした。


ある年の春、王華の家に、ひとりの男の子が生まれました。

産声があがったとき、家の庭ではちょうど桃の花が咲きはじめ、空には白い雲がゆっくりと流れていたそうです。


「この子には、『うん』という名をつけよう」


王華はそう言いました。

空にただよう雲のように、しなやかで、大きく育ってほしいという思いがこめられていました。


うんの家は、琅邪ろうや王氏おうしという、古くからの名家でした。

とても昔の話になりますが、東晋とうしんという時代に生きた王導おう・どうという人物が一族の先祖だと言われています。王導は、世の中が乱れていたときに国を立てなおすために努力した、知恵と勇気のある人でした。


その王導から数えて、雲は三十七代目の子孫にあたるのです。

とはいえ、赤ん坊の雲には、そんなことはまだわかりません。


このころの中国では、「良い家に生まれた子は、勉強してえらくなるべきだ」と考えられていました。でも、雲は小さなころ、外で遊ぶのがだいすきな、ふつうの男の子でした。


本をひらいても、すぐに眠たくなります。

それでも、父の王華はあわてたり、怒ったりはしませんでした。


「勉強というのは、字を読むだけじゃない。心で感じたことを、大切にするのも、立派な学びなのだよ」


そうやさしく教えてくれました。


ある日、雲は家の裏山に登り、そこからまちを見おろしました。川はきらきらと光り、人びとが行きかうのが見えました。空を見あげると、白い雲が風にのって流れていきます。


「どうして、ぼくの名前は雲なんだろう」


ふとそう思ったとき、父の声が思い出されました。


「雲は、空をながれて、自由に形を変える。でも、どんなときも太陽をかくさないように、やさしくあってほしい」


それからの雲は、ゆっくりとですが、本を読む時間がふえていきました。遊ぶのも好きでしたが、人の話を聞いたり、自分の気持ちを考えたりすることが、すこしずつ楽しくなっていったのです。


やがて彼は、自分の中にひとつの思いを見つけます。


「人は、だれの中にも正しい心がある。ぼくはそれを信じて、まっすぐに生きたい」


この思いは、大人になってからの彼の考え方につながっていきます。


のちに、雲は自分の名前を変えました。

心にあかるい光を持つようにと、自らを陽明ようめいと名のったのです。


それは、ただの名前ではありませんでした。

生まれたときに見たあの白い雲のように、そして、そこからのぞく太陽のように、世の中を照らす存在になりたい。そう願った少年の、はじまりの名でした。


こうして、王陽明という人物の物語が、ゆっくりとはじまったのです。



◯【守仁しゅじんばれし


とある夏の夕暮ゆうぐれ。

小さな町、餘姚よようおう家の庭に、ひとりの少年が座っていた。


その子の名は王雲おう・うん

まだ五つになったばかりだが、言葉をひとことも話したことがなかった。


「この子は、まるで空にただよう雲のようじゃ……」


祖父の王倫おう・りんは、そうつぶやきながらも、孫をいとおしげに見つめていた。


雲は、王家の中でもとくべつな子だった。

というのも、父の王華おう・かは、たいへんな秀才しゅうさいで、成化せいか十七年――今から何十年も前、中国でいちばんむずかしい試験である科挙かきょ合格ごうかくし、そのときの一番の成績、つまり「状元じょうげん」になったのだ。


その後、王華はみやこのひとつである南京なんきんで、吏部尚書りぶしょうしょという大事なお役目についた。これは、人をえらぶことや役人の仕事をまとめる、とてもえらい役だ。

人びとは王華のことを、学問と人柄のすばらしさをたたえて、「龍山先生りゅうざんせんせい」とよんでいた。


そんな立派りっぱな父を持つ王雲。

しかし、どれだけ呼びかけても、どれだけ話しかけても、声を出すことはなかった。


祖父の王倫はそれでもあきらめなかった。

「この子には、何か理由りゆうがあるのじゃろう……」


ある日、家にひとりの僧侶そうりょたずねてきた。

長い旅の途中らしく、ひとめ見るなり、雲をじっと見つめてこう言った。


「この子の名、『うん』は空にただようもの。さだまらぬが、口をとざしておる。名を変えなされ」


その言葉に、王倫も王華も、はっとした。

しばしの話し合いのあと、王雲は「王守仁おう・しゅじん」と名をあらためることになった。


じん」とは、人を思いやる心。

「守仁」とは、その思いやりの心を大切に守る人、という意味だ。


それから数日後のこと。

朝の光の中で、祖父が畑の手入れをしていると、ふいに背中から声がした。


「おじいさま……」


それは、たしかに守仁の声だった。


ふり返った王倫は、声も出せずに、ただ孫を強く抱きしめた。


その日から、守仁はまるで水を得たさかなのように、元気にしゃべり、笑い、学びはじめた。

田舍町の餘姚では、鳥のさえずりや川の音、山の風にふかれながら、のびのびと育っていった。


「どうして月は夜に光るの?」


「川の水は、どこへ流れていくの?」


そんな疑問ぎもんをかかえながら、野山をかけめぐる少年だった。


父の王華は都での仕事がいそがしく、家に帰ることは少なかったが、たまに帰ってきたときには、守仁にやさしく語りかけた。


「おまえが見ている世界は、すべて学びのたねだ。人を思い、自然に耳をすませば、そこに答えはあるのだぞ」


その言葉は、まだ小さな守仁の胸の中に、ゆっくりと、しかししっかりと根を下ろしていった。


十歳になるころ、守仁の目には、もう知恵ちえ慈愛じあいがあふれていた。

鳥の鳴き声にも意味があり、町の人びとの笑い声にも深い心があると感じとれるようになっていたのだ。


ある日のこと、守仁は父のつくえの上に置かれていた筆を手に取ると、そっとこう書いた。


「心をあきらかにし、人の心も明るくする」


その言葉は、後に多くの人々の生き方を変える「陽明学ようめいがく」のもととなる。

このとき、まだだれも、未来のその姿を知らなかった――



◯【祖父そふかた郷土きょうどのこと】


なつの光が、にわかきをゆらしていた。


祖父・王倫おう・りんは、たけ椅子いすにゆったりこしかけて、茶碗ちゃわんかたむけている。

そのそばで、十歳じゅっさい王守仁おう・しゅじんは、紙と筆をかかえながら、じっと祖父を見つめていた。


「じいさま、この餘姚よようって、どんなところなの?」


守仁がそう聞くと、王倫はにこりと笑った。


「ほう、それを聞くか。では今宵こよいは、わしの知っておることを話そうかのう」


祖父の声は、まるでたににひびく風のようにおだやかだった。


「この餘姚よよう県はの、紹興府しょうこうふぞくする静かな町じゃ。やまかわも近く、土はえて、水もんでおる。とくに田んぼと竹林ちくりんが広がっておるのが自慢じまんじゃ」


「竹林……?」


「そうじゃ。風がふくと、竹がこすれ合って、しゃらん、しゃらん……と音がする。それを聞きながら昼寝ひるねするのが、なんとも気持ちよいのじゃ」


守仁は目を細めて、風の音を想像そうぞうしてみた。


「じゃあ、おいしいものもあるの?」


「もちろんじゃとも。餘姚よようで有名なのは、梅干うめぼしじゃな。香り高い『餘姚梅よようばい』は、っぱくもあってあまくもあって、夏の食卓しょくたくにはかかせん」


「梅干し、ぼく好きだよ!」


「ほかにも、川魚かわうおの料理、たとえば『づけのこい』などは、みやこから来た客人きゃくじんよろこんで食うたもんじゃ。うちの台所だいどころでも、母上がよう作っておられたな」


祖父は、むかしの味を思い出すように、ほほえんだ。


「じゃあ、この町から出たすごい人っているの?」


守仁の質問に、王倫は、ふむとあごをなでた。


「おるとも。餘姚よようの者には、学問がくもん礼儀れいぎを大切にする者が多いのじゃ」


「たとえば……?」


「たとえばのう――『虞舜ぐ・しゅん』という伝説でんせつ帝王ていおうがおってな、なんと餘姚よよう出身しゅっしんとされておる。じんとくをもって国をおさめ、人々にあいされたお方じゃ」


「うそ!? そんなすごい人が……」


「ふむ、もちろん昔話の部分もあるが、わしらの土地にはそのたましいが受けがれておる。ほかにも、三国志さんごくしに出てくる『虞翻ぐ・はん』という人物も餘姚よようの出身じゃ。学問にすぐれ、孫権そん・けんつかえていた」


「すごいなぁ……。餘姚って、小さな町だけど、たくさんの知恵ちえと人の心がつまってるんだね」


「そのとおり。守仁よ、おまえもこの地の空気と水をのんで育った者じゃ。心を澄まし、まっすぐに生きるのじゃぞ」


守仁は、うなずいた。


その日から、彼の書くや文には、土地のかおりと、祖父の言葉がにじみ出るようになった。

風にゆれる竹の音が、彼の心に、やさしく鳴りつづけていた。

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