追放されたはずの令嬢ですが、辺境で公爵様に拾われて溺愛されています
その知らせは、朝食の席に届いた。
「リリス=エスペリオ嬢。あなたとの婚約を、正式に破棄させていただきたい」
目の前に置かれた皿の温かさがまだ残っているというのに、そう言い放ったのは、わたしの婚約者である第二王子、レオン=フリーデン殿下だった。
「理由を伺っても?」
「君の性格が冷たく、貴族らしさに欠けると周囲から苦情が来ていてね。民のことより規律や伝統ばかりを重んじる君とは、未来を共にできそうにないと判断した」
淡々としたその物言いに、わたしは静かに眉をひそめた。
王家の婚約に、感情は無用。わたしはそのつもりで数年間、公務に従事してきた。慈善事業の管理、税制改革の提案、辺境の調査も行ってきた。だが、彼の理想は違ったらしい。
「殿下、それは……」
「もう決まったことだ。君は明日正午までに、王都から立ち去るように」
「……了解しました」
立ち上がり、一礼した。
嗚呼、やはりこうなるのか。そう思った。
レオン殿下の隣には、先日辺境から転入してきた平民出身の女官、メリッサが控えている。彼女がこの数ヶ月、どれほど巧みに宮廷内の人間関係を操っていたかは、火を見るより明らかだった。
わたしはすぐに部屋へ戻り、荷物をまとめた。もとより、愛されていると思ったことは一度もない。貴族としての務めを果たせば、それでいいと思っていた。
だが、その代償は思いのほかあっけなく切り捨てられた。
「リリスお嬢様、お手伝いを……」
「いえ、ひとりで十分です。あなたたちは明日から、殿下の新しい婚約者にお仕えするのでしょう?」
侍女たちのうつむく姿を横目に、わたしは荷を背に王宮をあとにした。
肌を刺すような冬の風が、頬に冷たかった。
この王都に未練はない。だが、五年間尽くしてきた努力が、無に帰したと思うと、胸の奥がずしりと重たくなる。
「……追放令嬢、か」
誰にも見られていないことを確認し、わたしは初めて小さくつぶやいた。
今や私の身分は、没落貴族。家名も爵位もすべて剥奪された。王族の信用を裏切った者として、追放処分を受けたのだ。
それが、いかに不条理であっても。
向かう先は、辺境オルディナ領。
五年前にたった一度だけ訪れた、雪深い山岳地帯の要衝だ。あの時、わたしの提案で領地改革が行われ、今はそれなりに生活が安定していると聞いていた。
頼れる者はいない。だが、あの土地には少なくとも、わたしの働きを忘れていない人がひとりだけいる。
「……公爵様、お元気かしら」
オルディナ公爵。あの頃はまだ若く、軍務の途中で負傷し療養中だった。
わたしが資料と共に視察に訪れた際、公爵は雪の中、兵たちとともに村の除雪作業を行っていた。その姿はとても、王都にいる高位貴族たちと同じとは思えなかった。
立場ではなく、人としての誠実さ。
彼の瞳に宿っていたのは、弱き者を見捨てないという、純粋な信念だった。
あの時、わたしの手が差し伸べた提案に真剣に耳を傾けてくれたのは、公爵だけだった。
だから――
わたしは彼に、もう一度会いたかったのかもしれない。
雪道を進み、寒さに指を震わせながら、わたしは前を向く。
過去を悔やむ暇があるなら、未来を作るために動こう。
たとえ世界が背を向けても、自分だけは自分を見捨てない。それが、貴族として、そして人として生きるわたしの矜持だ。
次に誰かと並ぶ日が来るならば、今度こそ心から笑っていたい。
その時隣にいる人が、誠実なひとであることを願いながら、わたしはただ歩き続けた。
オルディナ領に辿り着いたのは、出発から十日後の夜だった。
宿場町として栄えているはずの中心街は、雪に閉ざされて静まり返っている。凍てついた道を踏みしめるたび、ブーツの底が軋んだ音を立てた。
「ここまで寒かったかしら……」
白い息を吐きながら、わたしは公爵邸の門前に立った。
門番がいる気配はない。だが、灯りはついている。表札の重厚な金属板には、確かに「オルディナ」の文字が刻まれていた。
意を決して門扉の鈴を鳴らすと、中から出てきたのは、見覚えのある老執事だった。
「……まさか、お嬢様……リリス様でいらっしゃいますか?」
「久しぶりですね、アベルさん。突然押しかけてしまって申し訳ありません」
「いえ、なんと。こんな夜分に……お寒かったでしょう。さあ、お入りください」
案内されて玄関へ入ると、暖かさと共にふわりと心がほどけるようだった。身を切る寒さの中を長く旅してきたことが、ようやく報われた気がした。
案内された応接間には、暖炉の火がぱちぱちと心地よく鳴っていた。
「公爵様には、私からお伝えいたします。……その、リリス様、殿下との件は……」
「すでに破棄され、王都から追放されました。爵位も家名も、すべて失いました」
「……ご無念でしたね」
アベルは深々と頭を下げたが、そこに憐れみの色はなかった。あるのは、ただ誠実な礼節と、長年の信頼の証だけ。
それが、どれほど嬉しかったか。
「公爵様は、少々お忙しくされておりますが……すぐにお時間を作られるでしょう」
「わたしは客人ではありません。しばらく厄介になりますから、それなりの覚悟はしてきたつもりです」
そう伝えると、アベルは満足げに微笑んだ。
「では、以前と同じく……執務補佐という形で、お手伝いをお願いしても?」
「もちろんです」
こうして、追放された令嬢の新しい暮らしが始まった。
雪に閉ざされた辺境。けれど、そこには暖炉の火のような温もりがあった。
翌朝、簡素な執務室に案内されたわたしは、戸を開けて目を見張った。
そこにいたのは、かつての記憶よりもずっと精悍で、威厳に満ちた青年だった。
「……これは驚いた。まさか君が、この地に来るとは」
「ご無沙汰しております、オルディナ公爵様」
彼の名は、レイヴン=オルディナ。
冷徹と噂される若き公爵でありながら、その実、誰よりも現実と向き合い、領民を守る覚悟をもった人物だ。
「聞いたぞ。王都で、ずいぶんな目に遭ったそうだな」
「……すでに過去のことです。お気遣いには感謝いたします」
「君は、あの時と変わらないな。芯が通っている」
淡々とした声だったが、その奥には確かな温もりがあった。
わたしの記憶に残る彼は、無口で不器用で、けれど正義感の塊のような人だった。
「今更だが、ようこそ、オルディナ領へ」
「ご縁があって、戻ってくることができました」
「……君が望むなら、ここでの立場を用意することもできる。だが、それは一時の情けではなく、領のために必要とあらば、だ。わかっているな?」
「はい。わたしもそのつもりです」
会話は、あくまで形式的だった。
けれど、それがかえって安心させた。
今のわたしには、誰かの憐れみにすがるつもりなどない。ただ、必要とされる場所で、役に立ちたいと思うだけ。
あの追放の朝、自分に誓ったことを、今度こそ叶えたい。
初日は、古文書の整理と財務帳簿の精査から始まった。
暖房設備のない書庫は息が白くなるほど冷え込んでいたが、そんなことは気にならなかった。
「昔から、こういう作業がお好きでしたね」
ふいに現れたレイヴンが、手元を覗き込みながら言う。
「整理されていない情報を見ると、順序立てたくなるんです。たぶん、性分なのでしょう」
「だが君のその癖は、無駄を嫌うこの領地にとっては貴重な能力だ」
「ありがとうございます」
静かに、しかし確かに――わたしの存在は、この地で意味を持ち始めていた。
そして、その視線を受け止めるたびに、胸の奥にぽつりと熱が灯るのを感じていた。
気がつけば、冬は深まり、雪が音もなく降り積もっていた。
吹雪の夜、執務室にふたりきり。
「……寒くないか?」
「いえ、大丈夫です」
レイヴンがふと、毛布を差し出してきた。
彼は昔よりもずっと、優しくなっていた。
オルディナ領に来てから三週間。
毎日が目まぐるしく過ぎていった。事務仕事、報告書の精査、村の要望取りまとめ、そして領内視察。わたしは自分が“ただの追放令嬢”だったことを、日々の忙しさの中で忘れかけていた。
「リリス様、今朝の報告書ですが――」
「それはもう確認しました。すでに必要な修正も入れております」
「さすがです……! やはりいてくださると助かります!」
若い文官が、目を輝かせて帰っていく。彼はもともと王都出身で、雪に閉ざされたこの地の厳しさに音を上げかけていたが、少しずつ顔つきが変わってきていた。
誰かの支えになること。それが、どれほど自分自身の心を救うのかを、ようやく理解し始めていた。
「少し、休憩を取ったらどうだ?」
背後からかけられた声に振り返ると、そこにはレイヴン様がいた。
黒髪に雪の粒が乗っている。昼過ぎから降り始めた雪の中、彼はまた視察に出ていたのだろう。
「大丈夫です。わたしはまだ仕事が残っていますので」
「頑張りすぎると続かないぞ」
そう言って、彼は机の上に温かい飲み物を置いてくれた。陶器のカップの縁には、細かく砕いたドライフルーツが飾られている。領内で採れる貴重な果物を干したものだと、前に話していたっけ。
「……ありがとうございます」
「甘いものでも食べながら、少し肩の力を抜いてくれ。今の君は、追い詰められていた頃の俺に似ている」
彼がこんなふうに自分のことを話すのは、珍しかった。
「公爵様が……?」
「ああ。若い頃は、全てを自分で抱え込もうとしていた。信じられる人間がいなかったからな。今思えば、愚かだった」
「でも、だからこそ、この領地はここまで安定したのでは?」
「君が、そう言ってくれるなら……報われるな」
窓の外では、風に揺れる雪が白い波紋のように踊っている。静かで、それでいて確かに今この瞬間だけが過ぎているのだと感じさせる空間だった。
彼の声はいつも低く落ち着いていて、けれどなぜだか、時折耳に残る。
わたしは今、彼のそばにいる。
補佐官として。
けれど、ふとした瞬間に思ってしまう。彼の隣が、ずっとこんなふうに心地良いものだとしたら、わたしはどうなるのだろうかと。
「リリス。これは、私用の話になるのだが……明日の夕方、少し時間を取れないか?」
「はい?」
「領内の小さな村が、今年は収穫を祝う祭を開くことになった。君にも、同行してほしい」
祭。王都では、婚約者として招かれることも多かったが、辺境の祭は一度しか見たことがない。
「……わたしなどが行ってよろしいのでしょうか」
「君は今や、立派なこの領地の一員だ。誰が文句を言う?」
そう言って、彼は軽く笑った。とても稀なことだ。口元が綻んだその表情を、見逃すまいと目を凝らしてしまったくらいには。
「わかりました。支障のない範囲で、同行いたします」
「よし。では、防寒具の準備も頼む。あのあたりは夜になると、冷えるからな」
「はい」
小さなやり取りだった。
けれど、心にぽつりと温かい灯が灯るようだった。
翌日。
公爵様と共に馬車で移動する時間は、思いのほか静かだった。
最初のうちは、何か話さねばと焦っていたけれど、彼の隣では無理に言葉を探す必要がないと知って、少しだけ心がほぐれていた。
村に着いたとき、子どもたちが雪玉を投げ合いながら駆け回っていた。
その中のひとりが、レイヴン様の足にぶつかってしまい、ぱっと顔を青ざめさせる。
「ご、ごめんなさいっ!」
慌てて頭を下げる少年に、レイヴン様は膝をついて目線を合わせた。
「謝れるのは偉いな。次はもう少し、狙いを定めるんだ」
いたずらっぽく笑って、彼は小さな雪玉をその手に載せて少年に返した。
その光景を見ていたわたしは、思わず胸が熱くなる。
このひとは、どこまでも誠実で、優しくて、そして――強い。
だから、誰もが彼を信じるのだ。
祭は、領民たちの手作りの料理や、素朴な演奏で始まった。
踊りが始まり、わたしも何人かの子どもたちに手を引かれて輪の中に入った。気がつけば、笑っていた。久しぶりに、心から。
ふと、視線を上げると、レイヴン様がわたしを見ていた。
やわらかな眼差しだった。冷徹と噂されるその顔に、ほんの僅か、微笑が浮かんでいた。
わたしの鼓動が、ひときわ強く跳ねた。
その理由を、まだこの時のわたしは、はっきりと理解していなかった。
祭から数日が経った。
日常は再び静かに流れはじめ、わたしは相変わらず朝から晩まで執務室と書庫を行き来する生活を送っていた。だが、以前と違うのは、その合間に時折誰かが話しかけてくれること。執務官たちが冗談を言い、厨房の女中が差し入れを渡してくれる。わたしは今、ここで“存在している”と実感していた。
そしてその中心には、やはり彼――オルディナ公爵レイヴン様の姿がある。
ある朝のことだった。
「……どうかされましたか?」
「少し、散歩に付き合ってくれないか」
書類の山に囲まれたわたしに、レイヴン様が声をかけてきた。
こんな誘いは初めてだった。理由を聞く間もなく、彼はすでに外套を手にしていた。
急ぎ身支度を整えて外へ出ると、昼前とはいえ空気は冷たく、雪の匂いがした。
「どちらへ向かうのですか?」
「少し、見せたい場所がある」
そう言って彼は、わたしを連れて屋敷の裏手へと足を運んだ。
そこには、小高い丘と、その上に建つ古びた東屋があった。
「この丘は、父が生前好んでいた場所だ」
「お父上が……?」
「ああ。領の全景が見えるからな。問題が起きたときは、必ずここで考えるのが習わしだった」
そう言って彼は、静かに東屋の椅子に腰を下ろした。わたしも、少し距離を置いて隣に座る。
「この場所を、君に見せたかった」
「わたしに、ですか?」
「君が王都で何を失ったか、詳しくは聞いていない。だが、ここでなら――いや、君となら、この地をもっと良くできると思った」
「……」
あの朝、王都を追われたわたしに、こんな言葉をかけてくれる人がいるとは思っていなかった。
「君が隣にいてくれると、仕事が捗る。判断にも迷いがなくなる。……そのことに最近、ようやく気づいた」
凍える風が頬をかすめる中、彼の声だけが胸の奥にしみこんでいく。
これは――期待?
それとも、錯覚?
「公爵様。わたしはもう、エスペリオの令嬢ではありません。ただの追放者です」
「知っている」
「王都での婚約破棄は、噂にもなったはずです。貴族の間で、わたしに再び手を差し伸べる者など、いないでしょう」
「それでも、私は手を伸ばす。君がこの地で生きることを望むなら」
心臓が、強く跳ねた。
彼の目には、何の迷いもない。わたしの傷も、過去も、すべてを受け入れた上で、それでもなお――ここにいてくれと願ってくれている。
どうしてそんなふうに、わたしを信じてくれるのだろう。
「……ありがとうございます。けれど、わたしにはまだ覚悟が足りません。あなたの隣に立つには、まだ弱すぎる」
「そう思うなら、鍛えればいい。私は、待てる」
たった一言で、わたしの心に小さな火が灯る。
ああ、どうしてこんなにも、まっすぐなのだろう。
冷たくて、凛としていて、誰よりも温かい人。
「では……もうしばらく、お傍にいさせてください」
「もちろんだ。むしろ、もう離れてもらっては困る」
わたしはそっと笑った。
丘の上の東屋から見下ろす雪の平原。その遥か遠くに、薄く陽光が差していた。
その夜。
わたしは久しぶりに夢を見た。
王都での日々ではない。
雪の中を歩くわたしの隣には、誰かがいた。
見えないけれど、確かに手を握ってくれている感覚があった。
たぶん、それは――
希望と呼ばれるもの。
冬の終わりが見えはじめたある日、公爵邸に一本の報せが届いた。
「王都から、使者が来るそうです」
「……誰が?」
「第二王子レオン殿下と、その婚約者メリッサ嬢だそうです」
報告を受けた瞬間、わたしの背筋は思わず強張った。
あのふたりが、今さら何の用で? わたしを追い出したその当人たちが、わざわざ辺境のこの地に来る理由が見当たらない。
「彼らは、正式な使節団として訪問する予定です。目的は“辺境との交流の再強化”とされていますが……」
公爵様――レイヴンは、報告書を睨むように見つめている。
「この時期に? それは偶然とは思えんな」
「……申し訳ありません。もし私がここにいるせいで、領地が不利益を被るようなことがあるのなら、私は――」
「君のせいではない。むしろ、君がここにいることが彼らにとって都合が悪いのだろう」
静かな声でそう言った彼の瞳には、淡い怒りが宿っていた。
「彼らの来訪に備えて、記録を精査しておこう。……何があっても、君を矢面に立たせることはしない」
そう言ってくれたその一言が、どれほど心強かったか。
わたしは無言で頭を下げ、席を立った。
そして当日。
予定時刻ぴったりに、王都の華やかな馬車が門をくぐった。
正装に身を包んだレオン殿下とメリッサ嬢が、雪解けの石畳を踏みしめて降り立つ。
ふたりの姿は、まるで祝福を受けたように華やかで――そして、薄っぺらい光沢だけが目立った。
「久しいな、レイヴン公爵。これが我が妃となるメリッサだ」
「遠路ご苦労だったな。歓迎しよう」
そのやり取りは形式通りのものだった。だが、レオン殿下の視線は、ずっとわたしの方に向けられていた。
まるで、過去を引きずるように。
「リリス。……いや、元エスペリオ令嬢だったか。ずいぶんとやつれたように見えるな」
「お気遣い痛み入ります。ですが、こちらでの暮らしは心穏やかでございます」
「……そうか。それなら良い」
どうして、そんな目をするの?
彼がわたしを捨てたのではなかったのか。わたしを無能と決めつけ、価値がないと見限ったのではなかったか。
なのに、今さらなぜ、そんな悔やむような顔をするのか。
「あなたの婚約者でいられたこと、後悔はしておりません。過去があるからこそ、今の私があります。……それだけはお伝えしておきます」
そう告げると、殿下は口を開きかけ――だが、その言葉はついに出なかった。
滞在は三日間。
最初のうちは丁寧に振る舞っていた王都組だったが、次第に素の顔をのぞかせ始めた。
中でも特に厄介だったのは、メリッサ嬢だった。
「まあ。辺境って言うから、もっと荒れているかと思っていたのに……意外と整ってるのね」
「そうですね。皆さまが日々努力されている結果かと」
「努力? あら、まあ。リリスさんが“ここ”で努力ねえ……あの王都では何もできなかったのに」
「私が何を成したかなど、歴史が決めることです」
にこやかに、しかし一言も引かずに返すと、メリッサ嬢は明らかに不快そうな顔をした。
あの頃は、彼女の思い通りに事が運んでいた。だが、ここでは違う。王都での権力や派閥も、この雪深い辺境には通用しない。
彼女の苛立ちは、日に日に増していた。
三日目の夜。
帰り支度を整えたレオン殿下が、そっとわたしに声をかけてきた。
「リリス。……本当に、あれで良かったのか?」
「ええ、もちろんです」
「お前が王都に戻る道がないわけではない。今なら……」
「それは“今の私”を見ての申し出ですか? それとも“自分の決断の失敗”に気づいたからですか?」
言葉を遮るようにして、問い返す。
レオン殿下は黙ったまま、しばらくわたしを見つめていた。
そして、ぽつりと呟く。
「……あのとき、お前の目を見なかった。それが、すべてだったのかもしれないな」
わたしはそれに、何も答えなかった。
もう終わった話なのだ。
彼らの馬車が門を出るのを、わたしは屋敷の影から見送っていた。
「気になるか?」
「……いえ。もう大丈夫です」
気配に振り向くと、レイヴン様が隣にいた。
彼の声は、ただ静かにわたしの胸の奥を撫でるようだった。
「君があそこに戻らない限り、私は何があっても君を守る」
「……心強いです」
ほんの少しだけ、肩が軽くなった気がした。
今はまだ、隣に立つには遠いかもしれない。
けれど、わたしは確かに、前へ進んでいる。
春の匂いが、かすかに風に混ざっていた。
雪が解け始めた春先、オルディナ領にもようやく柔らかな風が吹き始めた。
それは、この数ヶ月で心に積もっていた冷たいものを、少しずつ溶かしてくれるような暖かさだった。
「リリス様、今年の春祭りの準備が始まります。企画書の確認をお願いできますか?」
「はい、すぐに」
文官から手渡された書類には、昨年の祭りの反省点と、今年の新たな試みがきちんと整理されていた。地域ごとの担当者名や物資の調達リストも抜かりなく、地道な努力が伝わってくる。
――ここに来た頃は、皆どこかよそよそしかったのに。
今では、気がつけばわたしも“内側”の人間として数えられるようになっていた。
「それにしても、この『手作り飾り』の件……数がかなり多いですね」
「子どもたちも手伝うそうですよ。領内の学校を挙げて、今年は皆で作ることにしたんです」
「素敵ですね。では、わたしも少しだけ作ってみようかしら」
そう呟いたときだった。
「では、私にも教えてくれ」
背後からふいにかけられた声に、思わず肩を跳ねさせた。
「公爵様! ……こんなところで立ち聞きとは」
「立ち聞きのつもりはなかった。ただ、通りかかっただけだ」
苦笑交じりにそう言いながら、レイヴン様がそっと机の端に腰かけた。
「春祭りの準備か」
「はい。子どもたちも参加すると聞いています。なので、飾り付けをもう少し可愛らしくしてみようかと」
「君は、こういう地道なことに楽しみを見出せるのだな」
「……そう見えますか?」
「見える。いや、実際そうなのだろう。君のそういうところは、王都では評価されなかったかもしれないが、この領では価値がある」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
「では、教えましょうか? この飾りの作り方」
「ぜひ」
わたしたちは、書類を脇に寄せ、小さな色紙と紐を取り出した。
レイヴン様がこんな些細な作業を共にするとは思っていなかったけれど、彼は不器用ながらも真面目に取り組んでいた。
「……これは、どうする?」
「その角を折って、三角にしてから糸を通すんです。あ、そこは逆側ですよ」
「……なるほど。手先の細かい作業は不得意でな」
「意外です。剣の扱いはあんなに上手なのに」
「剣と違って、紙は折り直しがきかないからな」
そう言って、少し照れたように笑う彼を見て、思わず吹き出してしまった。
「公爵様、そんな表情もされるのですね」
「……君の前だからだ」
一瞬、息が止まりそうになった。
けれど、彼はすぐに顔をそらして黙り込んでしまう。
その頬が、ほんのり赤く染まっていたのを、わたしは見逃さなかった。
午後の日差しが窓辺に差し込み、わたしたちは並んで飾りを折り続けた。
言葉は少なく、ただ時折指先が触れるたびに、心臓の鼓動が高鳴るのを感じていた。
日が傾く頃、ひとつの飾りが仕上がった。
「できました。これで、ひとまず見本にはなりそうですね」
「君のおかげだ」
わたしが仕上げた花形の飾りを見て、レイヴン様は小さく頷いた。
そして、不意に手を伸ばして、ひとつの飾りをわたしの耳元にあてがった。
「これがあれば、花飾りの代わりになるか?」
「え……?」
「その……似合っていると思った」
穏やかで、それでいてどこか不器用なその仕草に、胸が締めつけられた。
「……ありがとうございます」
ようやく言葉を返したわたしの声は、かすかに震えていた。
その夜。
春祭りの打ち合わせが終わり、ひとり寝室へ戻る途中。
ふと、窓の外に目をやると、薄紅の花がひとつだけ、雪の残る地面に咲いていた。
「……春、ですね」
呟いた言葉が、宙に溶けていく。
今ならわかる。
あのとき手を差し伸べてくれたぬくもりが、ただの情けや義務ではないと。
わたしは少しずつ、確かに彼に惹かれている。
ただの感謝ではなく――もっと深く、もっと温かい感情へと。
春祭りを数日後に控えたある朝、一通の手紙がわたし宛に届いた。
差出人は――王都の元侍女、マリアンヌ。
彼女はわたしが王宮にいた頃、唯一対等に話してくれた存在で、出自や地位に関係なく気さくに接してくれた、数少ない味方だった。
淡い藤色の封筒を開くと、中には丁寧な筆致で綴られた文章と共に、一枚の絵葉書が同封されていた。
『リリス様、ご無事でお過ごしでしょうか。王都では、最近になってようやく例の騒動の真相が知られるようになってまいりました』
『殿下とメリッサ嬢の言動については、各方面から非難の声が上がっており、政務の進行にも影響が出ているとか。今さらながら、エスペリオ家を失ったことがいかに痛手だったか、気づき始めたのでしょうね』
『けれど、それでも彼らは“決して間違っていなかった”という態度を崩しません。まるで、過去の選択を認めさせることで自分を守ろうとしているようです』
手紙は、穏やかな言葉で綴られていたが、その裏には皮肉と怒り、そして心配がにじんでいた。
わたしがかつていた場所は、そうした“自分を守るための嘘”でできた場所だったのだ。
だけど――今は違う。
ここには誤魔化さず、真正面から言葉を交わせる人がいる。
「……あの頃、何を守っていたんだろう」
窓から外を見れば、春祭りの準備に子どもたちが駆け回っている。色とりどりの飾りが風に揺れ、少しだけ浮足立った明るさが領内を包んでいた。
その中心に、レイヴン様の姿が見えた。
民と同じ高さで話し、笑い、時に苦言を呈しながらも、誰もが彼を信じて従っている。
王都では見たことのない、真の“支配者”の姿。
わたしが何もかも失ったと思ったときに、ただ一人、手を差し伸べてくれた人。
夜。
公爵様の執務室に、届け物を運んだ帰り際だった。
「リリス、少し話せるか」
「はい」
「……王都から、ある通達が届いた。君の爵位回復についてだ」
「……!」
「条件付きだ。“一定期間の辺境奉仕を経て、更なる功績があれば、爵位回復の道を検討する”とのことだ」
まるで、恩赦のような言い回しだった。
だが、その実態は“貢献を証明しなければ、回復の余地もない”ということ。
「彼らは、自らの誤りを認める気がない。だが、外面は保ちたいらしい」
「……戻れと言われたら、わたしが戻ると思っているのですね」
「それを拒めるのが、今の君だ」
レイヴン様は、静かにそう言った。
わたしが黙っていると、彼は続ける。
「君が爵位を望むのなら、止めはしない。だが、私は……君がこの地で過ごしてくれることを、何よりも望んでいる」
それは、まるで告白のようで。
でも、あくまで丁寧に、強要のない言葉だった。
自分の気持ちを押しつけるのではなく、選択肢を提示し、最終的な決断をわたしに委ねてくれている。
あの頃、誰にも与えられなかった“自由な意思”。
「ありがとうございます。でも、今の私には、王都に戻る理由が見当たりません。爵位よりも、この地での暮らしのほうが、ずっと価値があります」
「そうか」
わずかに目を伏せ、彼は息を吐いた。
「それが、私にとって何よりの報せだ」
淡い春の空気が、窓から流れ込んでくる。
この場所で、わたしはようやく“自分の居場所”を見つけたのだ。
その夜、ひとりで読んだマリアンヌからの手紙の最後には、こう記されていた。
『リリス様のことを、私たちは忘れません。そして、どうか願わくば、あなたが今を幸福に感じておられますように』
わたしは筆を取り、返事を書いた。
『わたしは今、かつてないほど満たされています。失ったものは確かにありましたが、それよりも――得たもののほうが、はるかに大きいと実感しています』
差出人欄に“リリス”とだけ書いた封筒を閉じたとき、不思議と涙がにじんだ。
それは、悲しみではなかった。
ようやく本当に、過去に区切りをつけられた気がしたのだ。
春祭り当日。
朝から町には人の流れができ、色とりどりの装飾が風に揺れていた。屋台の香ばしい匂いが漂い、子どもたちの笑い声があちこちに響く。
わたしは祭の運営補佐として、朝から会場を回っていたが、それだけではなかった。
「……どうでしょうか、この装い」
「とても似合っている」
レイヴン様が選んでくれた春色のドレス。わたしは普段、淡い青や灰色の実用的な衣服しか着ないけれど、今日だけは、彼の提案に従ってみた。
「皆からも褒められました。領主自らが配慮してくださるなんて、贅沢ですね」
「君に見合う装いが、今までなかっただけだ。君がここにいる理由を、皆に見せたかった」
そう言われて、胸の奥がじんと熱くなる。
追放され、すべてを失ったわたしを、一度も値踏みすることなく受け入れてくれた人。
その人が今、堂々と“この令嬢は私の傍にいるべき存在だ”と示してくれている。
午後になると、祭りはさらに賑わいを見せ始めた。
ダンスの時間になり、中央の広場で人々が輪になって踊り始める。
わたしも視察の合間に、こっそりと子どもたちに混ざっていた。だが、不意に一人の男の子に手を引かれた。
「ねえリリス様、公爵様と踊らないの? あんなに見てるよ?」
「えっ?」
慌てて視線を向けると、確かにレイヴン様がこちらをじっと見つめていた。
目が合ったその瞬間、彼はゆっくりと歩み寄ってきた。
「踊ってくれないか?」
「わたしでよろしいのですか?」
「わたしが望んでいるのは、君だけだ」
手を差し出されて、断る理由なんてなかった。
気がつけば、わたしは彼の胸元で小さく息を吸っていた。音楽が流れ、人々の歓声が遠くに霞んでいく。
彼の腕の中にいるだけで、世界が変わる気がした。
「リリス」
「はい」
「この祭りが終わったら、私から正式に申し出るつもりだ」
「……申し出?」
「結婚の、だ」
耳元で囁かれた言葉に、思わず足が止まりそうになった。
「君を補佐官としてではなく、人生の伴侶として迎えたい。君がよければ、これから先も――」
答えは、もう決まっていた。
「はい。わたしでよければ、どうか末永く……」
笑顔が自然に浮かぶのを、止められなかった。
王都の婚約破棄も、冷たい視線も、もう思い出でしかない。
今のわたしは、公爵レイヴン=オルディナの隣で、胸を張って立っている。
祭りの最後、丘の上の東屋から灯が放たれた。
それは、この地に春が訪れたことを告げる合図。
人々が一斉に空を見上げる中、レイヴン様がそっとわたしの手を握った。
「君と過ごす毎日が、これからの私の“始まり”だ」
その言葉に、心の奥で何かが柔らかくほどけた。
わたしはようやく、本当に幸福を手に入れたのだ。
過去のわたしが想像もできなかった、確かな未来を。
春風に乗って、花弁がひとひら舞い落ちる。
その花をすくい取った彼の手の温もりは、ずっと消えずに残っていた。
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