5.アマルティア
少女の純粋に透き通った瞳が、言い知れない罪悪感をローリスに与える。
「……ああ、もうっ! 分かったよ!」
数秒の沈黙の後、痺れを切らしたローリスは少女の元へ歩み寄ると、腕を取った。
そして、ボロボロのアパートの前から少女を引っ張っていく。
「ど、どうしたの?」
少女は引っ張られながら聞く。
「とりあえず、俺の家に来いよ。持ち合わせも無いんじゃ困るだろ」
ローリスは立ち止まって、引っ張っていた腕を離した。
「で、あんたをなんて呼べば良い? いつまでも名無しだと話しにくいだろ」
ローリスは聞く。
「名前? 私が決めないとダメなの?」
「適当でいいなら、俺がつけてやるぞ」
ローリスは冗談のつもりで皮肉っぽく言った。
「うん」
と少女からの返答が聞こえた。
「は?」
ローリスは耳を疑う。
「あなたが、名前を決めて」
「本当に良いのか……? 初対面のやつに名前をつけさせるなんて」
「そんなに、大切なことなのね?」
少女は不思議そうな顔をした。
「当たり前だろ。名前は『人が生まれて一番最初に覚える魔法』って言われてるくらいだ。大事なものだよ」
名前は何かにつけて本人の目や耳に入って、善きにしろ悪きにしろ、暗示のように影響を与え続ける。それがまるで魔法のようであると言う。
この海底都市セレーネにはそんな諺がある。
「あ、でも、ただの記憶喪失なら、あんたには本当の名前があるか」
そう考えるとニックネームのようなものだ、と少し肩の荷が降りた気がした。
ローリスは、ふと少女の頭を見る。頭の上に戴いている飾りの尖った部分が、なんとなく角のように見える。
(角、角、角……。そうか)
ローリスは昔、妹が好きだった童話を思い出した。
「……アマルティア」
ローリスは言った。少女には彼の頭の中の脈絡は見えない。
首を傾げる頭の上には「?」が見える。
「あんたの名前だよ」
ローリスが少女を指差した。
昔、妹を寝かしつける時にローリスは、親から聞かされた唯一の童話をよく話してやった。その中に出てくる、角のある天使がアマルティアという。
彼女はその角からあらゆる飲み物を出して人々に与えたという。
話を聞き終えた少女の口元は、自然と笑みを浮かべていた。
一方、童話から名前を取るなんて、と我ながら考えていたローリスは少女の笑顔に、恥ずかしそうに顔を背けた。
「何だよ、不満なら別に……」
「ううん、それがいい」
少女、もといアマルティアの返答に、ローリスは背けた顔を戻す。
彼女の嬉しそうな顔がこちらを向いている。
「ありがとう。こんなに嬉しいのは、初めて」
アマルティアは胸に手を置いて顔をほころばせる。
「お、大袈裟なやつだな」
ローリスは照れ隠しに、先に歩き出す。
「腹減ったし、さっさと帰って飯にしようぜ。アマルティア」
向こうから声が飛んでくる。
「うん」
とローリスの背中に向かって笑顔を浮かべるとアマルティアは小走りで追いかけた。
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