56.「いつも通り」
「お兄ちゃん……何してるの?」
ニコラが寝起きの目をこすってこちらを見ていた。
ローリスは、いつもアマルティアが寝ている向かいの部屋の扉を開いていた。
「もう、女の子が寝てる部屋を勝手に開けちゃダメだよ!」
ニコラの説教も、ローリスはどこ吹く風のように立ち尽くしている。
「……お兄ちゃん?」
ニコラが不思議そうな顔でローリスの横顔を見る。
「……居ないんだ」
「えっ……?」
ニコラはローリスのところまで小走りで駆け寄ると、部屋の中を見た。
いつもならアマルティアがベッドの中で小さな寝息を立ていて、起きると眠そうな顔でこちらに笑顔を向けてくれる。
アマルティアはどんなに遅くなっても家に帰って来ないことはなかった。二人が寝た後に帰って来ても、次の日の朝には部屋に戻っていた。
「でも、きっと、すぐ帰ってくるよ。アマルティアお姉ちゃんのことだから、街で何かに夢中になっちゃって帰って来るのを忘れちゃったのかも」
ニコラは暗い表情のローリスを余所に冗談を言い、無邪気に笑顔を向けると
「朝ご飯、作るね」
と階段を降りて行った。
ニコラはすぐ帰ってくるものだろうと信じている。
しかし、事情を知るローリスはまだ立ち尽くしている。
「俺も一緒に行くよ」
セレーネの話を聞き、アマルティアが一人で水神教団の大聖堂へと行くと言い出した時、ローリスは言った。
アマルティアは首を横に振った。
「ここまで一緒にやって来たのに今さら何だよ。それとも俺じゃ、頼りないのか」
ローリスは言った。
言いながら、自身でも理解していた。
一緒に行ったからと言って何が出来ると言うのだろう。
アマルティアは視線を逸らして俯く。
「……もし、ローデリアが私の言葉を聞いてくれなかったら」
沈黙の後、アマルティアが口を開いた。
「教団と敵対してしまうかもしれない。そうなったら……」
アマルティアは家をゆっくりと見回した。
キッチンではいつもニコラが美味しい料理を作ってくれる。
食卓ではローリスとニコラの話す声がいつも気分を明るくしてくれる。
二階のニコラの貸してくれている部屋のベッドは暖かく、安らかな眠りを与えてくれる。
アマルティアの視線はしばらく家の中を漂った後、再びローリスに戻る。
「私にとっての大切な場所がなくなっちゃうかもしれない。でも、たとえ帰って来れなくても、この場所があるって思えるだけで私には十分。だから……」
ローリスは俯いて耳を傾けたまま沈黙している。
「もし、私が戻らなくても悲しまないで」
結局、そのままローリスは何も言えなかった。
彼女のたっての願いが、自分がいつも通りの日常を送ることであるならば、もうどうしようもない。
「わかった……」
ようやくローリスが絞り出した言葉がそれだった。
アマルティアは立つ。その足でそのまま大聖堂へ向かうつもりらしかった。
ローリスはその背中を見送るために家のドアの前に立っていた。
アマルティアは一度振り返った。
「さよならはナシで行こうぜ」
ローリスは腕組みしたまま、いつもの笑顔を見せる。
「うん、そうだね」
アマルティアもつられて笑う。
「それに、まだローデリア様が素直に聞いてくれないと決まったわけでもないしさ。全部終わったら帰って来てくれるんだろ?」
「うん、きっと」
アマルティアは嬉しそうにはにかむ。
「でも……しばらく会えないかも知れないから言うね」
「ああ、それなら聞くよ」
ローリスは笑いながら言った。
「ローリスはニコラと一緒に私をこの家に迎えてくれた。この世界に私の居場所をくれた。何者でもない私に名前をくれた。だから……」
アマルティアは言葉に詰まった。胸の中に万感、渦巻いている感情を表す言葉がすぐに出て来なかった。
「……ありがとう」
ローリスは部屋の前に立ち尽くしたまま、その時のアマルティアの顔を思い出していた。
階下からドタドタと音がする。
ニコラが何か慌てて階段を駆け上がって来ているらしい。
「……お兄ちゃん!」
階段を上がって来たニコラは手に薄い石板を持っていた。
それは情報盤と呼ばれるもので、ラピスラズリを薄く加工し、表面を研磨して作られた情報受信用の端末だ。青く光沢のある盤面には海底都市の日々のニュースが発信される。
ニコラはそれをローリスに見せた。
(水神教団の神官、ローデリアが襲撃される……)
ローリスは記事のタイトルを読んだ。
(ローデリア氏の証言のもと、治安軍は襲撃者の身元を確認した。襲撃者は……)
その隣に画像が表示されている。見覚えのある画像だった。
ローリスは突然、声を出して笑い始めた。
「お、お兄ちゃん……!?」
ニコラは驚いて目が点になっている。
画像は、彼女がこの都市に来た時に撮ったものだった。
ラピスラズリが発する光に顔を歪め、人相が悪くなっている。
目にした時に思わずローリスが笑ってしいまい、ゼノンに注意されたアレだ。
「はははっ! もっとまともな画像無かったのかよ!」
ローリスはそれがこんな重々しいニュースの記事に使われているのが可笑しくて仕方がなかったらしい。
そうしてくだらないことで笑っていると、自分がらしくもなく深く悩み込んでいたことに気がついた。
ローリスはニコラの頭を力強く撫で回す。
「おっ……お兄ちゃん、どうしたの!?」
脈絡が見えないニコラは終始困惑している。
「こんなふうに悩んでるなんて、俺の『いつも通り』じゃない」
妹の頭を髪が乱れるまで撫でると
「迎えに行って来る」
と笑顔で言い残して、ローリスは階段を駆け降りて言った。
ニコラは髪がボサボサになった頭で、呆気に取られたままその場に取り残された。
やがて、何かを思い出す。
「あっ……スープ、火にかけたままだった」
慌てて階下に戻ると、ニコラはいつも通り朝食を作った。




