50.信仰者
神官ローデリア。
忽然と現れ教団の奇跡となった彼女は、水神教団の象徴的存在として海底都市に知らないものは居ない。
彼女は生まれながらにして、「ディアボロ・フィリ」と呼ばれる難病を患っていた。
地上に人類が存在した頃で百万人に一人の確率と言われたこの病は、進行するにつれて体が徐々に不随となり、全身に広がっていくというものだった。
原因不明かつ圧倒的に発症例の少ないこともあり、あらゆる魔術的療法、外科的療法において治療法が確立されていない。
海底都市の現在の総人口は約二十万人と言われており、その症例の少なさも想像に遠くない。
「身体が動く状態で二十歳を迎えられれば奇跡だろう」
と治癒士や医者は口々にローデリアの両親に告げた。
少女は物心がついた頃から地べたを這っていた。病気によって、既に下半身は自由に動かなくなっていた。
また、病気のせいか他の子供と違い、魔術を習得しようとしても初級の魔術すら使うこともままならなかった。
幼ながらに少女は、このまま自分の体が弱っていくだけであることを薄々感じていた。
周囲の子供が元気に遊んでいるのを家の窓から眺めているだけの少女が、自らの人生に絶望するのにさほどの時間は掛からなかった。
「ローデリア、お父さんもお母さんも諦めないよ」
父は絶望に打ちひしがれた少女を懸命に励まして治療方法を探し続けた。
しかし、病状は回復するどころか徐々に進行するばかりだった。
失望を覚えたローデリアの両親を見つめる目は、いつの間にか冷ややかになっていた。そして、この頃から、少女の瞳に希望の光が消えた。
「もし身体が動かなくなっても、私たちがいつも一緒に居るから」
「だから、信じておくれ」
彼女の耳には、両親の励ましの言葉もどこかよそよそしく聞こえた。所詮、この苦しみを本当に知っているわけではない。
(どうして、わたしだけがこんな目に遭うの?)
胸の中には絶望と怒りが入り混じって渦巻いている。
少女が七つの歳を迎えた時、藁にもすがる想いで、当時小さな教団に過ぎなかった水神教団の教会へ連れていって欲しいと両親に頼んだ。
教会に着くと、少女は父親が押す車椅子から転がり落ちるように降りた。
この頃には左腕もほとんど動かなくなっていた少女は、祭壇の前に片手だけで体を引きずって行った。
そして、両親に支えられて何とか体を起こした。
「神さま、たすけて……。おねがいします、たすけてください」
少女はぼろぼろと涙を流しながら、まだ動く右手だけを握って胸に当て、何度も祈りを捧げたという。
数日後、家で食事をしている時、少女はテーブルの上にある飲み物を取ろうとしてある変化に気がついた。
「あ……」
動かなかった筈の左手がコップに向かって伸びていた。
驚いてその手を何度か握って開いて、と繰り返してみる。
指先の感覚まで確かに感じられた。
そして、少女の目の奥に光が戻った。
それから、少女は毎日のように教会に通い続けた。
来るたびに少女の体は動くようになり、ついには車椅子さえ必要なくなった。
治癒士や医者はおろか、家族ですら驚きを隠せなかった。
眼前でそれを目の当たりにしていた教団関係者は「ついに水神様が奇跡を現された」と口々に言った。
水神教団は彼女を奇跡の証拠として教団へと迎え、人々の前で水神教団の奇跡を喧伝した。
水神教団は急速に人心を集め、瞬く間に都市中に広がっていった。
少女は十四歳を迎え、体が完全に動くようになる。
さらには術式を習ってもいないのに魔術を習得し、手足のごとく扱うことができるようになった。その魔術の威力は熟練の魔術師にも勝るほどだったという。
それから、十年の時が経とうとしている。
「……ローデリア様、よろしいですかな?」
不意に声が掛かり、何か思考していたローデリアは、はっと顔を上げた。
水神教団の本元、大聖堂の会議室。
中央に置かれた長テーブルには各アクアリウムの教会をとりまとめる司祭たちが向かい合って座している。
ローデリアはその末席に座っていた。
テーブルに座した面々の視線がこちらに集中している。
ちょうど、先日のポリテイアの事件で破損した教会の再建について司祭たちの間で議論を交わしていた。
「ええ、被害のあった教会の修繕費用の捻出は運営資金の内部留保からお願いします。一刻も早く取り掛かりましょう。信者の皆様は心の拠り所を失ってしまいます」
ローデリアは答えた。
「決まりですな」
一番奥、上席には教皇が座している。
「それでは、解散としましょう。皆、水神様のご加護がありますように」
「水神様のご加護を」
一同繰り返して解散となった。




