蔡琴箭、曹孟徳をみおくること
あの、おそらくは自分にとって人生最大となるであろう冀州への旅がおわってしばらく、琴箭は月塊にあうことはなかった。
まったく妖の時の感覚というものはいい加減なもので、ちょっと顔をみせたと思ったら、その後は音沙汰なし。気がつけば数年がたっているという塩梅だ。
今回もまたたく間に二年が過ぎていた。
もっとも、それはなにも月塊のせいだけというわけでもない。琴箭には琴箭の歩みがあり、それらに付随する流れというものは、ときとして本人の考えのそとにあったことをつきつけてくるものだ。
琴箭は現在、とある理由から父の下をはなれ、ひとり洛陽へと移っていた。
父、伯昭が官吏時代住んでいた屋敷はそのままになっており、かれが投獄され朔北へながされたあとも、母と使用人がひっそりと守っていた。
伯昭はひとり、赦されたあとも屋敷にもどることなく呉へと難を避けた。そのとき、唯一の後継ぎであった彼女も、使用人に護られながら、父とともに呉へとついていったのである。
「あらお嬢さん、どちらへお出かけですか?」
こっそりと庭をすすんでいた琴箭の動きは、普段から目を光らせている女中にあっさりと見つかった。
びくんとして立ち止まった琴箭は、あきらめたように肩をおとすと、つくり笑いをうかべてふり返る。
齢は十五となり、あれからかなり背も伸びた。
幼かった顔にはすこし大人の兆しがみえはじめている。顔立ちはいよいよ凛として、優美な眉に、愛嬌のある目元はながい睫毛にふちどられ、桃色の唇には生気が満ちあふれている。
纏う衣は素朴ながら上品であり、清涼感を感じさせる。もう昔のようにその裾から褲がみえていることもない。どこからどうみても大人のいでたちである。
ただ、黒鉄のように美しい艶の髪は、右横にくくって垂らすといういささか奇抜なもので、そのへんに彼女らしさが残されていた。
「ちょっとねぇ。散歩よ、散歩。すこし根を詰めちゃったから」
「いけません」女中は掃除の手を休めるとにべもなくいう。
「いま御身は大事なときなのですよ? ただでさえ黄巾の連中のせいでなにかと物騒なのですから」
「平気よ。べつに郊外まで出ようってわけじゃないんだから」
じゃあ、と話をきって門を出ようとする琴箭のまえに、その忠実な女中は待ったをかけて立ちふさがる。
「駄目です。以前もそう仰られて煙にまいたじゃありませんの。奥様からもきつく言われているんですからねっ」
なによ、いやに頑張るわねぇ。
琴箭はむーっと頬を膨らませて女中を睨んだが、どうやら効果はなさそうなので、最終手段をとることにした。
「しょーがない。······桃霞!」
琴箭のひと声に応えたかのように、わっと一時に風が巻きあがった。
女中が砂埃をふせいだ袖をどけると、ふたりの間にいつの間にか、ひとりの童女が割り込んでいた。
その面はどことなく、幼かった頃の琴箭に似ている。ただ、おなじくはっきりとした顔立ちを彩るところはずいぶんと違った。
眉はふとく、愛くるしい目は情熱的で、それでいてどこか野性の光を宿している。
口元は口角があがり、どこかいつも笑んでいるような感があった。下女ながら、琴箭みずからが選んだ相応に可愛らしい衣に身をつつんで、おしゃまに袖をあわせている。
「なに、姐御。よんだか?」
ちょっと舌足らずな口調で、目にわくわくを宿しながら、桃霞と呼ばれた娘は琴箭を見上げた。
「おねがい♡」
一瞬ののち。ふたりが姿を消したあとの中庭には、縄で木にぐるぐる巻きにされた女中の、救援をもとめる声だけが響いていた。
はい。
いきなりサブタイに超有名人きました。
もちろん私なんぞが扱うには重すぎるビックネーム。
ですが、もしこの先もこのお話が続いていった場合、どうしてもご登場願わねばなりませんので。
あと、新童女(?)、桃霞でました。
表記を修正。「褲」はズボンのことです。




