月琴、養春山を後にすること②
さすがに刻も刻だ。今夜は養春山にかえって、もうひと晩だけお世話になることにした。
もとの、槽と別れた林のあたりまで戻ったふたりは、暗がりの中おっかなびっくりと潜んでいた槽と無事再開すると、養春山へと帰った。
とにかく疲れていた。庵の戸をあけた琴箭は、板の間にあがったところで力尽き、気絶するように眠りに落ちていった。
翌日。すこし痛い身体をおこし、琴箭はまずまずの朝を迎えた。
たいしたもので、昨夜は目立った傷の痛みもなにもかもが、一気に薄らいでいた。もう歩くのにもなんの支障もない。護符の木鈴は太賢良師がいなくなっても力を失ってはおらず、また、養春山の刻の檻も健在であるようだ。
朝の日を浴びた琴箭は、大きく伸びをする。
左手に巻いた木鈴がかわいた音をたてた。それに誘われて目線をあげた琴箭は、ふいに寂しさにおそわれた。離に目をやり、ついで庵へとふり返った。
昨夜はそんな余裕もなかったが、いまははっきりと感じられる。その庵が、もう誰も帰ってくるもののいない場である、という事実を。
離の扉を開けても、滝の淵へ行っても、もうここには誰もいないんだ。良師様も、小賢さんも······
と、厩からでてきた月塊と目があった。どうやら寝過ごした自分にかわり、槽の面倒を見てくれていたらしい。
「おう。目が覚めたならちゃきちゃき準備しろよ」
「準備?」
「きまってんだろ、帰るんだよ」
「······そっか。うん、そうね!」
元気を取り戻した琴箭は、簡単な食事をすませるべく、庵へと入っていった。
用意がすっかり済んだふたりと一頭は、居ずまいを正すようにして、庵の門口へたった。
「いよいよお別れか。ありがとね」
庵や果樹や小川や、それらすべてをひっくるめたこの山に、琴箭は礼をしめして深々と頭を下げる。
「アンタの奥さん、お別れにはこなかったわね」
あの女のコらしき虎。あのコにもなんだかんだ世話になった気がするので、きちんとお礼とお別れがしておきたかったのだが。
「そーだな」驚いたことに、琴箭の軽口に月塊も便乗して、
「世話になったし、礼くらい言っといてもよかったぜ」
と、やや名残惜しそうな仕草を見せた。
「このあと、ここはどうなっていくのかな」
「さーな。作者はまだ生きてんだし、案外このままなんじゃねーの? 時折旅人やら狩人やらがわけも判らず捕まっちまうことはあっても」
そうなれば、ちょっと怖い領域があらたに生まれることになる。誤って迷いこむ人が長居せぬよう祈るばかりである。
······いつまでもこうしてはいられない。ここでの生活はおわったんだ。
槽にまたがった琴箭は、具合をたしかめると、もう一度だけ振り向いてから、「出立」と号した。
いざ、なつかしき我が家へ。
ヨタヨタと、すっかり疲れ果てた様子の足どりで、ひとりの老爺があばら家の門口に立った。髪は真っ白で長い髭を風に遊ばせ、その右目は白く濁っている。
老爺は強い風に渋面をつくりながら、まるで自分のものといわんばかりに扉をあけて中へと上がりこむ。なかは暗かったが、ただ一点、ひとりむさくるしい男がうずくまっている辺りには、燭台に赤々と炎が灯してあった。
男は熱心に膨大な竹帛の山を読み漁っている。于吉は床に放りだしてひと巻をとりあげてみた。
太平要術 写し 巻の三
なにやらブツブツとつぶやきながら憑かれたように文をおう男をみやった于吉は、ニヤリと笑み、黙ってその場をあとにした。
約二年後。
人々の口にある名がのぼり始める。
「仙術によって病を除く、張角という御仁が鉅鹿にあり。太賢良師を号し、その信者は数十万を数え、みな口々にさけぶ。『蒼天すでに死す、天に替わって道を行わん』と」
そして中平元(一八四)年、春。
洛陽へ忍ばせた弟子の密告をきっかけに、ながき乱世の到来をつげる黄巾党の乱が幕をあげる。
ありがとうございました。
次回、第二章最終部となります。




