月琴、養春山を後にすること
「ん、ン〜っ」
ぺちぺちと頬をたたかれ、琴箭は目を覚ました。目を開けると、視界いっぱいに月塊ののぞきこむ顔がうつった。
「こんなとこで居眠りたぁ、ちと肝が座りすぎじゃねえか」
「······月塊?」瞼をこすりながら身を起こす。
「よかった、アンタやっと戻れたのね。? なんでそんなボロボロなの?」
呑気に寝ぼけている童女に、月は呆れて脱力した。
欠伸をしながら辺りを見回す。
木々にかこまれた野原のような場所で、どうやら山の頂上あたりの風景にみえた。すくなくとも小高い丘程度ではない。さっきの光景が夢幻ではなかったという証にはならないかもしれないが、自分の寝ていたすぐそばには、あの古ぼけた祠がひっそりとたたずんでいる。
もう空は茜色に染まりかける頃合いらしく、肌が思い出したかのように寒気をつたえ、琴箭はぶるっと身震いした。意識を失っているあいだ、ずっとぽかぽかしていたのは、あの祠が守ってくれていたのではないか。そんなふうに思った。
「太平要術は」
「······うん、ちゃんとお還ししたよ」
柔らかく笑む琴箭の顔をみ、月塊もフッと息をついた。
「帰るか」
「うん」
できるだけ楽な道をよりながら、ふたりは山を後にした。後から人に聞いたところによると、五台山という所らしい。そんなところまで来ていたのかと、琴箭自身も口をあんぐりとさせた。
山道を、月を先頭にすえながらくだる最中も、琴箭はしゃべり続けた。緊張からの解放と、ひさしぶりの月塊との会話がそうさせたのかもしれない。
「しいて心残りがあるとすれば、太平要術の秘密をすべて解き明かせなかったことね」
「あん? あらぁたんなる医書だっててめえが言ってたじゃねえか」
「そうね。私にはそうだった。けど、小賢さんや、その于吉って方士からするとそうではなかったのかも」
考えてみて? と琴箭は続ける。
「あのとき、なんで良師さまはアンタにだけ、見せようとしなかったのか。はじめは意地悪とか、罰だとか考えてたけど、その後のことを鑑みると、まだ何かあるような気がするの。そもそもただの医書を、于吉がああも必死に奪いにくるって変でしょ」
「何か······って、なんだよ」
「うん。もしかすると特別な──そう、仙道を修養した人がふかく読むと、奥義のようなものが読みとれるのかもしれない。それこそ、嵐を呼び、幻を操るような術のね」
そんなモノなくとも于吉は充分強かったが。まあ、小賢に読ませるため、だとすれば呑み込めぬでもない。
「一回アンタに読ませてみたかったわ」
「······俺は後免だね。答えの盗み見みなんざ面白くもねえ」
そのとき、ぴょこぴょことびっこをひいていた琴箭が、とうとう足を滑らせた。
「ひやっ」
尻餅をついてしまった。幸い、岩場ではなかったのでまだマシではあるが、足と一緒になって痛むのはかなり滅入る。
月塊はふり返ってその様を眺めていたが、嘆息するとくるりと背を向けてかがみ込んだ。
「ホレ」
「え······?」
「傷めてんだろ、足。さっさとしろ。日が暮れるし、槽の奴だって元の場所につないできてんだ。ボヤボヤしてると獣にやられちまうぞ」
琴箭は、その背中をじっと見下ろした。
以前みたときよりは、すこし大きくは感じなくなった背中。だが、その頼もしさはすこしも変わってはいない。
「じゃあ、ちょっと失礼します······」
なぜかみょうに緊張した。
琴箭がおぶさると、月塊はその両の足を抱え込み、何事もなくスイスイ山を下っていく。
はじめてのその背中は、ちょっと硬くて、ちょっとひんやりして。でも、それがなんだか少し落ち着いたのだった。
やってしまった···
ごめんなさい、ミスです。一日はやく出てしまいました。




