月塊、于吉とおおいに腕をくらべ、琴箭、太平要術を天に還すこと④
于吉はつかんでいた槽の手綱を放した。
驢馬が茂みの中をおっかなびっくり確かめるのを尻目に、視線は月塊から離さない。
「ようも抜けてきたもんじゃ。あのまま調伏出来るとさえ思っとったんじゃが」
「そいつは嘗められたもんだな。足止めにゃ上出来だったって程度だぜ?」
于吉は口許を緩めぬまま嗤った。
「······で、主は何とする」
「殺す──と言いたいとこだが、お互い事情があるだろ。ケツを蹴飛ばすくらいで勘弁してやるよ」
「言っておくが、儂を恨んでも無駄なことじゃぞ。儂は天に替わって事を成したに過ぎぬ」
「じゃかましいッ!」
突如月塊が吠えた。
「なんでもかんでも天になすくりつけてんじゃねえぜ! やらかしたのはテメェだ! 太賢良師や小賢なんざどうでもいい! だがテメェは無力な奴を利用しやがった! それだけは捨て置けねェッ!」
ほん、なんとも狭い見解よな、と于吉はつぶやく。
「主も太賢良師と変わらぬ。個のために天意を見誤る手合いよ」
もう何事も語らず、月塊は一、二歩下がって身構えた。チョイチョイと、挑発的に人指し指を動かしてみせる。
「能書きはすんだろ? ほら、来いよ。何十年かぶりに年長者が拳固で説教してやる」
「抜かしおる······」
于吉もやはりニ、三歩さがって拳を構える。まるで二人の間に集約されるように、場の空気が一変した。
「シッ!」
月塊が口火を切る。ほんの一歩で間を詰めると、左拳を于吉の顔面に見舞う。
于吉はそれを袖で払うと、くるりと体を入れ替え、あたかも華麗な舞踊を舞うがごとく月塊の背後をとると、右足を狙う。
彼の足は岩の硬さであるが払う程度には造作もない。わずかに浮いたその隙間に袖がすべリ込み、なんとか踏ん張ろうとしたところを絡げとる。
月塊は体勢を崩され宙できりりと回転したものの、うまく合わせて地に四つん這いになり、反撃とばかり、相手の足元に蹴りを見舞う。
やや後方に飛び退くようにして于吉はそれを躱す。最小の動きでかわしたさいの追撃を警戒してのことだったのだが、月塊は空を切った左足を軸にして勢いを押しとどめると急反転しながら追い、回し蹴りで相手の首筋を切る。
于吉たまらずこれを左手で受けた。
「!」
月の右足を摑んだまま、間髪入れず反攻に転じる。空いた右手を左の袖に突っ込むと、何やら盛大に白いものを撒き散らした。それは吹雪のごとく月塊の目や口に貼り付く。
「なもっ!」
月塊がそれをひっ剥がそうとする隙に、おおきく気を吸い込むと、「むんッ」とばかり両の掌底を同時に叩き込む。
それほどの効果は上がらなかったものの、それで月塊をおおきく後ずらせた。
「ペッ」
ようやく月が顔についた紙をはがすと、そこにはさらに紙吹雪が舞いちっていた。
「!」
于吉の両袖のなかから伸びた紙の鎖が宙に構えているのは、まぎれもない大双刀ではないか。
いったいいくらの護符の紙片を合わせたものか見当もつかないが、その重みは──実物があってたとしても只人では持ち上がらぬだろうが──真剣となんら変わるまい。
本来力勝負では勝る月塊を、今度は于吉が押す形となった。硬めた紙の刃を舞うように操り、薙ぎ払っては斬りおろす。
「ご······の······ッ!」
月塊は腕をかすめた刃の威力に目を見張りながらそれを必死に躱し、後方宙返りを決める。
それはまさに瞬時のこと。だが、于吉の目はそれを見落とすようなヘマはしない。月塊の足裏にあらわれた妖火の円陣をみておっと息を呑む。
ズダン、と両足で踏みつけるように着地した月の足元から、刃をうえにした戟が逆立つように出現し、そのままくるくると宙を舞う。
月塊はそれを受けると、やらじと飛んできた大双刀を真っ向から受けた。
盛大な地鳴りがおびただしい土煙を舞いたせる。だが、陽を照り返すその黒い柄は折れず曲がらず、双刀を押し止めている。
「む、むぅ······!」
まただ。
痛む身体をひきずるように歩み続けていた琴箭は、とうとう足を止めた。さっきから感じるこの違和感はどういうことか。
初めはとうとう感覚がおかしくなったのかとも思ったが、むしろおかしくなったのは、周囲の方だという気がしてきた。肌が、またかという応えを伝えてくる。
あの感覚。刻を、距離を超越する人の世の理を無視した空間のそれ。
「ひょっとしてこれ、貴方がやってるの?」
懐に抱える太平要術に問いかける。だがやはり書がクチをきくなどということはなかった。
全方位をあやしげな濃霧に隠されながら、琴箭はそれでも歩みだす。ただ真っすぐに。それしかなかった。
ほどなく、なにやら行く手に影が見えてきた。生き物のようだが、座り込んでいるにしても人には見えぬ。
虎だ。
虎? あの女のコの? でもなんだか色が······
その毛並みは、霧の中でぼうと、切り抜きのように淡く光っている。
「······月塊?」




