月塊、于吉とおおいに腕をくらべ、琴箭、太平要術を天に還すこと③
方角も定まらぬままに、槽はしゃにむに駆け続けた。
ついに本気をだす機会に恵まれてしまった愛驢馬にふり落とされぬよう、琴箭はその手綱をまいてつかみ、ぽんぽん浮きあがる身体をなんとか抑えようと、両の足で槽の横腹をはさみこむ。
一方于吉は、まったく若返ってしまった疲れ知らずの肉体を操り、人間業を超越した走りをつづけた。
実際、追いつこうと思えば追いつけるのではないかとさえ思えるほどで、そうしないのは、自身の全盛の肉体に酔っているのかもしれぬ。そんなちょっと直視できぬ表情である。
「もうもう! なんなのよあの変態男はぁ!」
琴箭がもう一度振り向いて顔を戻したときだった。
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ぶわっ、となにやら見えない幕を突っきった感触がした。
そう、ちょうど養春山の内側へ入ったときのような、盤の旦那の術域にはいったときのような。周囲の動きが緩慢になり、色彩までも失われていく。
時に及んで切り替えも肝心。
何気に頭に残っていたのは、あのとき栗鼠だった月塊の背を見送ったさいに思い返したゆえか。
「──兵法だわ······」
そう、あの文言は、兵法書に書かれていたとしてもおかしくない一語で。
「まさか、太平要術って······」
はっと我に返ると、前方に林が見え始めていた。
迷ってる暇はない。ええい、ままよっ!
「槽ッ!」
彼女の合図に、槽はさらに速度を高める。琴箭は上衣をはだけると、狙いをつけてえいっとばかり後ろに飛ばした。狙いは誤らず、上衣は拡がって視界を奪うように于吉の顔面に迫る。
「小癪!」
顔に貼りつかせてなるものかと于吉はそれをはたき落とす。
──と。眼前から突如として童女と驢馬が消えた。
「!」
さすがの于吉も刹那、面食らったが、前方にみえた林がそれを助けたのだとすぐに思いいたる。
あの林を回り込む間をつくるために衣を放ったのだ、と。
ザザァッと、横滑りになりながら林をまわり込んだ于吉は、前方をゆく驢馬の影をとらえた。
「カッ!」
すぐさま疾走を開始する。その間がだんだんと詰まっていく。
「······ったいよぉ······」
はずみで藪のなかまで転がり込んでしまった琴箭は、泣きべそをかきながら上半身を起こした。
どうも腰を打ってしまったらしい。ちょっとすぐにはたち上がれそうにない。まだまだ嫁入り前の身であるのに、これじゃお婆ちゃんみたいじゃないの、と琴箭はおもった。
槽からとび降りたときなんとか頭は守ったが、他はあちこち傷だらけだ。衣は破れて血はでるし、慣れぬ身でそんなことをすれば、足首のひとつも捻ろうというものだ。
さしもの琴箭も、しばし痛みに涙する時がつづいた。
「······ぐすっ。うん、もう大丈夫······」
まだ全身痛い。でも立てないわけじゃない。
上手くいったのは、すべてがピタリと合わさったからだ。まさに天の賜物。その時を無駄にするわけにはいかない。
琴箭は太平要術の包を抱えて、よろよろと前へ進む。
盛大に息を切らせている槽の手綱を抑えながら、于吉もまた、息を整えた。いまいましげに、ビクついている驢馬を睨む。
まったく迂闊だった。ある程度近づけば気づけただろう。その背に琴箭が乗っていないのには。
だが琴箭は、ちゃっかりと帰り支度の荷まで槽の背に積んでいた。ゆえに走力が落ちてしまったのだともいえるが、その代わり、荷はちょうど琴箭の身代りをつとめる格好となったのだ。あるいは、目が片目しか見えていなかったことが、彼の誤算だったといっても良いかもしれない。
······小童め、やりおるわ。
「だが逃しはせぬぞ。なにしろ主は世にも稀な仙郷で暮らしたのだからの。その気配、隠せると思うな」
「同感だぜ──」
意図せぬ賛同が宙より聞こえたと思った瞬間、ほんとうに何やら重いものが于吉のまえに落下した。
片手で土埃から顔をかばう于吉の視界には、ゆらめく不吉な影か映っている。
「まったく助かった。こんなにプンプン臭うとはよぉ······!」
妖・月塊が恨みをたっぷりこめた瞳を輝かせ、彼の前に再び立つ。




