月塊、于吉とおおいに腕をくらべ、琴箭、太平要術を天に還すこと②
于吉の罠を破った月塊は、すぐさま滝の淵にとって返した。そこにはもう、于吉はおろか、琴箭も、小賢も太賢良師もいない。
最悪な流れが頭をよぎった。が、よくよくみれば足止めされていたのは自分だけではない。
奴が良師をたたき落としてからここに戻るまでには多少の時間差がある。悪賢い琴箭のことだ。どうにかしてふたりをひっぱり上げ、意識の戻った両人とともに身を隠していることだってあり得るだろう。
「チッ! フラフラ勝手にどこ行きやがった」
いつ後ろから、あの浮遊男や小賢の声がするかと冷々しながら、琴箭は可能なかぎりのはやさで驢馬の槽とともに山を下った。
大胆にもいつもの道をつかったのは、やはり速いから、ということにつきる。もちろん、槽に乗っているからとか、まったくの獣道に不慣れだからということもあるが。
いちばん怖いのは横合いからの待ち伏せだが、槽が本気をだせばあの男はともかく、小賢なら間違いなくふり切れる。そもそも、いま自分が太平要術を運んでいるという事実を、あのふたりは知らない。
なんとか無事に山の麓までおりた琴箭はしかし、途方に暮れた。いったいどっちに進めばいいのだろう。西か、東か。
「ちょっと、ねぇ、アナタたち。いったいどこに帰りたいの? 教えてよ」
とりあえず駒を進めながら、背中の書に話しかける。仙書ならば己の行き先くらい示してくれたりしないものかと期待したが、書は当たり前のように口をきくことはない。
琴箭がため息をついたその時、
「なるほど? 見当たらんかったのは主が持ち逃げしておったからか」
肝を冷やすように声がかかった。
琴箭がザワリと肌をあわだてて振り向くと、そこには槽の歩調に合わせるように、あの男が袂に手をつっこみながら歩いていた。
「! ──アンタ、いったい何者よ」
「そういえば主には名乗っておらなんだの。儂は于吉。あのとき主が明察したとおり、太賢良師の師じゃよ」
于吉は槽の横につけると、前をむいたままで応える。
「じゃあ······まさかアンタが夢で私に指図を」
于吉は一瞬目をまるくし、カカカと嗤った。
「夢じゃと? 主、そんな曖昧なものでこんな難事に首を突っ込んだのかえ。呆れたの」
逃げたいとはやる槽をなだめつつ、琴箭はじっと于吉の動きをうかがった。目は合わせない。
合えばそのまま呑まれてしまう気がした。
「自覚しておらぬようじゃが」于吉は顎をなでた。
「それは大変な運命を背負った書じゃ。それを誰が手にするかで、後の世の流れが決まってしまうと言ってよい。そんな重責、小娘の分際で負いきれるはずなかろう」
────
沈黙。
だが琴箭の口許に浮かんだのは、悔しさによる緊張でも、驚きによる弛緩でもなかった。
笑み。
「なぁんだ、良かった。アンタがあの方ならどうしよとか思ったわ。でも違うのね。なら」
真剣な面持ちとなる。
「まだ私には縋れるものがある」
ゾワリゾワリ。
隣からくる圧迫感に、全身を氷漬けにされたように感じる。
視ている、視られている。カッとみひらかれた闇のようにまっ昏な片眼で。
合わせなくともわかる! 琴箭は手綱を解き放った。
「槽ッ!」
待ってましたとばかり、槽が死物狂いで駆けだす。
いきなり頂点にまで昇りつめるような走りをされては、いかな驢馬といえど、そうたやすくは追いつけない。
見る間に距離が開く。だが。
「カ・カ・カァーッッ!」
于吉が大笑しながら駆けだした。とても人間業ではない。若返った四肢は目に映らぬほどの回転をみせ、ふたりを追う。これほど奇態な追跡があろうか。
振り向いた琴箭は心底ゾッとした。
「いやぁぁぁッ!」




