太賢良師去りて、後事を託すこと②
そこには、いまだ意識の戻っていない様子の太賢良師が、うつ伏せで横たわっている。だかもう髪も髭もこれまでのような黒ではなく、堅牢だった身体も、あきらかに老人の、筋ばった細いそれに変じてしまっていた。
背の辺りから、小賢にもみられた得体のしれない白い靄が、風に舞う塵砂のように空中へと消えていく。
「良師様っ」
とりすがる。その弱々しい手応えに、琴箭でさえ、力を入れると折れてしまうんじゃないかと感じた。
太賢良師は小賢なぞよりもはるかに永く、この山で修練を積んできた。その膨大な刻の徴収をあの護符の力で最小限にとどめていたのだ。それが失われた今、これまで逃れていた分一気の消耗は尋常ではあるまい。
琴箭は肝をすえて、自らの左腕にまいた木鈴へと手を伸ばした。
「い、いかん······」
「良師様っ?」
意識をとり戻した良師ば、なんとか上半身を持ち上げる。琴箭は手をさし伸べた。
良師は白くなった長髪のむこうから、消えいく光を宿した眼で彼女をとらえ、その手をとってひき寄せる。
「それ、よりも。頼まれてく、れ。太平要術を······あの書を、小賢に渡してはならぬ! なんとしてもっ······奴より先に、あの書を。儂に代わって、天へとお返ししてほしい······」
「──わかりました」
力強くうなずいた琴箭に満足したのか、良師は微かに笑んだが、苦しいのか、すぐに顔を歪める。
「良師様!」
「もう······行ってくれ。そして、二度と戻ってくるな。儂はただ、独りで大地へと還りたい」
そんなことを言われても踏み出せるわけがない。いま生涯を終えんとする人が、それも命の恩人が、そこに弱々しい姿でうち伏しているのだ。とても放っていけるはずがない。琴箭がそれでも離れずにいると、
「去れ、童よ。主に出来ることはもうない」
頭の上から声がした。
ふり仰ぐ。見慣れぬまだ若い男が、あろうことか中空に浮いてこちらを見おろしていた。
「っ」
固まる琴箭とはちがい、良師はその男がこの場にいることにいささかの驚きも感じていないようだった。
「さあ、ゆけ。儂とあの男、ふたりきりにしてくれ······」
その弱々しい声に、琴箭はぐっと後ろめたさを覚えつつも、背を向けて駆け出した。姿が木立のなかへ消えたのを見守ったあと、良師はやっと言った。
「······お久しゅうござった、お師匠」
「太賢よ······」
于吉は変わらず冷ややかな態度を崩さない。
「無念であろう。それが主の業の果てとは」
「······な、あに。それほど悔やまれるものでもなかったですぞ。これでも」
良師はいまや、于吉よりもはるかに老いたその身に鞭をうって起こし、胡座をくんだ。
「おおく、人を救った自負も······満足もありまする。アンタの命のままに、していたら、味わえなかった、でしょう」
「······それが天意を蔑ろにして得たものか。罪深いことよ。上辺をすくって除いた真似で皆をあざむくとは」
「なんの······。天下を騒乱に巻きこむよりは、よほどにマシというもの」
于吉はここで、短くなった髭をいじって笑んだ。
「まったく、仙道を究めるものはどうにも我儘でいかん。まわりの幸福よりも個として熟すことしか考えよらん」
「ですな······」
良師ものこり少なくなった歯をみせて笑う。
「唯一の、心残りは。小賢の奴を護ってやれなかったこと······」
于吉の手から、とは彼は言わない。知っているからだ。小賢を駆りたてたのは、己が師よりもたかい所にいる誰か、そしてその仕組みなのだと。
「太賢良師は求められておる。天下に必要なのだ」
「······哀れな男だ。なまじ仙への才があったばかり、に。儂に会ってしまった、ばっか、りに··················」
続く言葉はなかった。
于吉は、白い靄となって消えた弟子に静かに目礼すると、ふわりと背を向けた。
隔日投稿にお付き合いくださった皆様、ありがとうございました。
今回分でいったん早回しを中断し、もとのペースに戻らせていただきます。
ということで、次回更新は今週土曜日となります。
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誤字を修正いたしました。




