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【完結】月琴伝  作者: 雲野 蜻蛉
太平要術論
81/403

于吉再来し、小賢、墜ちること②


 太賢良師はかさねてあった山の葉の裏に、薬硯(やげん)ですった薬を塗り、うつ伏せにさせた小賢の肩や背中に貼った。


「それを用いて何とする。あんなものでは民の苦しみは癒されはせぬ」

「······だが無知なものの横暴は正せます」


「正してなんとする」良師の声には、若干焦れた感が混じった。

「いったい主は何がしたいのだ? 民を救いたいのだろう。ならば、左様なことは忘れよ。励むのだ、嵐を起こす術よりも慈雨を与うることに専念するのだ。それが主を仙へと近づける」


 小賢は押し黙った。あれほど慕い、敬っていた師匠の言葉が、なにやら誤魔化しのようにきこえる。

 使えるのなら使えばよいではないか。(はら)って、そして護ればよい。みずからの羽根の下にきたる者らを護るのに、なんの躊躇があろう。


 ······やはり、師匠は俺の才に見切りをつけている。ていのよい分身としかみておらぬ。


 治療をおえて良師がさり、暗くなった天井を、小賢はいつまでも睨みつけていた。





 ドン、っとなにか弾かれるような衝撃があって、老人は二の足を踏んだ。

「む。あやつめ、勝手にいじくりおったな。相変わらず用心ぶかいことだ」


 (たもと)から一枚の紙片を取りだすと、そのなにもないであろう宙にぺたりとそれを貼りつけ、なにやら口内でモゴモゴいった。

 少々の気を入れてその紙片を指先ではじくと、紙片はまるで夜明けの光に溶けるように、大気へ滲んできえる。


 紫髭をなびかせ、于吉はニヤリと嗤う。

 ふたたびその空間に手を突っ込むと、こんどは拒まれることなく、その右手は透明な穴のなかに消えた。

 と、わずかながらその透明な幕がゆれたかとみれば、まるで呑まれるように于吉の腕に集約していく。怪しげな燐光が彼の全身を満たしていく。


 長く伸びていた眉毛は縮んでいき、よりその鋭い眼光を際立たせる。白い髭はグッ、グッと巻戻るように短く、艶めいた黒さをとり戻していき、曲がった腰はいつしかすっくとのびた。痩せ細った身体には肉がもどり、在りし日の壮健さをみごとに再臨させる。



「さあて、世にも稀な見物。とくと興じようぞ」




 養春山はいつも決まった頃に日が昇る。

 それもそのはず、季節はつねに春であり、おなじ春の中でも一応の時節の変化はあるものの、春が終わらんとすれば、またつぎの春がやってくる。


 そんな朝日のもとを、まだ暗いうちから小賢の様子をみにいっていた琴箭が、転がるように駆けてくる。

 離の扉をはげしく叩くは、なにやら尋常ではない様子。たまたまいた太賢良師が何事かと扉を押し開くと、勢いのついた琴箭が胸のなかに飛びこんできた。


「どうしたどうした。いったい何をそんなに──」

「大変なの!」


 琴箭はひと息に吐きだすと、おおきく息を吸いこんで言った。

「小賢さんが、滝の上にッ!」


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