奇人、庵の門戸をたたき、子鹿、戦慄すること
ドンドンと扉をたたく音と、なにやら細くよばわる声に、琴箭は厩から顔をのぞかせた。
「お客? ってあるわけないよね······」
一瞬そうおもってしまったが、ありえないことである。
顔をあげた槽に苦笑してみせ、琴箭はそっと母屋の方をうかがった。あいかわらず音は続いている。
しかたないので行ってみることにするが、ふと、足元にあった薪入れのなかから一本、太いやつを抜きとってからゆく。例の虎騒動で、いかに仙郷といえど緊張感はもつべきだということを学んだ。
こっそり建物の裏から表をうかがうと、表戸のあたりで、一人の老人がゴンゴンと扉をたたいている。気のせいだろうか、日常になくはない光景であるにもかかわらず、どこか奇態なものにうつるのは。
老爺はみたところ、いったい何歳をこえているのか、ちょっと想像がつかない。上背はなく身もほそく、腰も曲がっているためにそこまで大きくは見えない。ながくのびた髪も髭も真っ白で、その境はうっすら紫色にさえみえる。紫髯というやつだろうか。
衣はいかにも里の爺さんが着るといった普通のもので、あちこちツギもあたっており、足は草鞋履きだった。
「あの〜、なにか御用ですか······?」
思いきって声をかけてみた。
老爺ははじめ、思わぬ方向から予想外の幼い声がかかって吃驚したように目を見開いていたが、そそくさと琴箭が歩み出ると、老人特有の、孫を愛でるような目を彼女むけた。よくみると、左目が白く濁っている。
「おうおう、これは。こんな可愛らしいお嬢ちゃんがいるとは思わなんだわい」
そこで、チラリと童女の手に握られたふとい薪に気づく。琴箭はあわててそれを後ろに隠した。
「ちょっと入らせてもらうよ」
「えっ? いや、ハイ······えと、どうだろう」
曖昧な返答をしてしまったが、それで了解をえたとばかり、老爺はごく慣れた感じで扉を開いて中にはいってしまった。
「うぉーい、おるかいな。······なんじゃ、おらんのか」
すこしおっかなびっくりと後につづくと、老爺は無遠慮にズカズカ上がりこみ、しきりに置いてあった包みやら、箱やらを開けだした。
「えっ? ちょっと何をっ」
だが琴箭の制止もきく耳もたずで、盗賊よろしく、あちこちひっくり返したあと、目的のものがみつからなかったのか、すたすたと彼女のわきを抜けて表にでていく。あわてて後を追うと、今度は離のほうへ行く様子。
たまらず琴箭は前にまわってその身を押し留めた。
「ちょっと待って! なんなんですか貴方。こんなことされたら私が良師様に叱られる──」
と、ここで彼女の天性がきらりと閃いた。
「あ、ひょっとして良師様のお師匠様?」
答えを求めるようにその顔を見上げ、琴箭はゾッとした。
老爺の身体が、いや存在そのものが、まるで虚ろな、生きていないもののように感じられた。にもかかわらす、その紫の瞳は鋭く澄み、こちらを見下してくる。
「なるほど。主ぁ、敏すぎる。まあいい、億劫になった、じかに訊くとしよう。主、例の書がどこに納まっておるか知らぬかよ」
それってまさか、太平要術──!
けっして口に出したわけではない。たが童女のとり繕いなど、齢百を超えていようかという人道の達人に通用するはずもなかった。
「······知っておるか。しかも主、読んだことがあるな? なるほど、あれが考えそうなことじゃ」
琴箭はとっさに離れようとしたが、かなわず、一瞬さきを読んだ老爺にさっと袖で顔をはらわれると、どうしたことか虚ろな眼となり、ゆらゆらとただ立ちつくに任せるのみとなってしまう。
「ここへ持ってくるのだ。一度さわったことのある者なら、奴の術なども関係すまい」
こくりとうなずき、琴箭が一歩、離の側へ足を踏みだした時、
ガサガサガサ!
ちかくで葉音がしたと思った途端、一頭のまばゆいほど純白な毛をもった子鹿と、それを追うようにして駆けてくる黄虎か飛び出してきた。
なかでも子鹿は勇敢にも、まだ生えていない角を振りかざすように老爺へむかって頭を下げると、盛んに蹄を蹴立てる真似事をしてみせる。
虎も老爺に気づくと若干脅えたように耳をふせながらも、太い鼻面に皺をよせ、牙をむき出しにして身を低くかまえ、唸りをあげた。
「──ほぅ、こいつは······なんとまた、厄介な留守番がいたもんじゃ。わかったわかった。今日のところはお暇しよう。歳のせいか少々気が急いてしもうたかの。あとは他に任せるとする」
そういって目の前でゆらゆらしている琴箭の額をそっと護符で撫でつけると、特になんともなく、悠々と山を下っていった。
子鹿はしばらく警戒の色をとかなかったが、奇妙な老人の姿が完全に消えると、やっと気をゆるめた。
虎がその臭跡をたどって地面をクンクンやっているのを見、まだゆらゆらしている琴箭の背後にまわると、お尻のあたりにかるく頭突きをいれた。
「にゃっ! ちょっともう何? あれ、なに貴方、どこから来たの? ん? ひよっとしてアンタ月塊? きゃー、なになに。今日は子鹿なの?」
可愛いーと首元にすがりついてくるのを、今ばかりは咎めもせず、子鹿は目を閉じて彼女の好きなようにさせている。
············なんだっけ。なにか大切なことがあったような気がするのに。よく思い出せないや。




