小賢、霊符水を修めること
さくさくと足裏の心地よい柔らかさを愉しみながらも、琴箭は思案に沈んでいた。
······いったいどういうことなの?
あたりは樹々がほどよく感覚をたもってならび陽当りもよく、おまけに滝がちかいこともあってか、どこか清々しい空気に包まれている。
頭のうえにいた白栗鼠がどうしたのだとばかり、ぺたぺたと彼女の額をたたく。
琴箭は手の甲に彼をとまらせると、その茶色い目を覗きこむように言った。
「太平要術なんだけどね。なんていうか······いい意味で期待はずれだったわ。雨や嵐をよんだり、土で兵士をこしらえたりとが、そういう危ない仙人の術みたいなのは、ひとつも記述になかったの。
ひと言でいえば、うーん······そう、医書! 日々を生きるにあたって、これをしたらもっと健康長寿に過ごせます、みたいな知恵がしこたま詰まってたわ。それはそれで、すっごく勉強になったんだけど······ね」
まさに太平要術。天下が、そして民が安寧を得るためには体の養生こそ要の大原則、ということらしい。
琴箭はこまったように月塊の反応をまったが、かれも腕にをくんで何事かかんがえてから、やっぱりわからんとばかり掌を上向けるしかないらしかった。その仕草がいちいち可愛らしくて、つい口許がゆるんでしまう。
「ま、憶測しててもしょうがないわ」
月塊を頭のうえに戻しながらいう。
「この旅もなにか意味がありそうだったけど、私自身は満足したし、このまま何もないにこしたことなんてないもんね」
さて、ひとまとめついたところで、早くこの手にさげた差し入れを、小賢に届けてあげねば。
そうして数歩歩んだときだった。
ガサガサ──
ふいに前方の笹薮がゆれて、一頭の堂々とした恰幅の虎が、まるでわるい冗談のようにぬっと姿を現した。大きな目玉がギョロリとこちらを射ぬく。
全身の血の気と毛が一気に逆立った。
(どッ、どどっ、どうしよ〜うッ! 虎? あれが虎? うわ〜、本物初めてみた〜。じゃなくて! わ、わたし、棒っきれ一本ももってないよぉ! そもそも虎になんて敵うわけ! そ、そうだ月塊! は············)
頭のうえで四本脚が踏んばる感触に、琴箭は愕然となった。
そんな············わ、私、こ、こんな所で虎に食べられ──ッ!!!
だが、のそりと身体をいれかえる虎に目を合わせるしかなかった琴箭は、その虎の視線がこちらというよりは、少し上を見ているのに気づいた。
何だ、私をみてない。も少しうえ······?
「ジュッ!?」
(俺ッ? まさかてめ、あん時の虎かッ?)
「ヴォォオオッ!」
地鳴りのような声をあげて、虎がこちらに駆けてくる。そのまま息を呑んですくみあがった琴箭のわきを、飛びおりた月塊リスを追って烈風のごとく過ぎた。
ヂューッ、ヴォォオオッというふたつの獣の声と盛大に藪をこぐ音が遠ざかってしばらくの後、ようやく琴箭はつまっていた息をぷはっと吐いた。そうして二匹の消えた木立の暗がりをみつめたが、いまの自分に出来ることは皆無である。
「──うん、自力でなんとかしてもらおう」
それに、あの天獣・麒麟の力でもその基は変えられなかったのだから、いくら仙人の術とはいえ、彼をただのリスにしてしまうことは難しいはずだ。
むしろ月塊を丸呑みした虎が、後で苦しむことのないよう祈りながら、琴箭は滝をめざした。
人生、ときに及んできり替えも肝心。そんな一文が太平要術にもあったなぁ。
月塊さんの禊ぎ、ということで······




