月下無常①
とおくに軍馬の嘶きと人の悲鳴をきいたような気がして、月塊はまぶたを上げた。
あれは夢の彼方のものか。それとも現のものであるのか。すぐに判断がつかない。
荒れていた天はすっかり快復し、秋の早朝の冷ややかな風が、無残な荒谷となってしまった新豊の地に吹いている。
左腕にわずかに巻きついた山海経の切れ端がゆれた。その大部分はすでに失われている。やはりそれだけに泰阿は厳しい相手だった。
「よっ」
さきほどから泰阿が最後におちたであろう地点を捜索しているのだが、なかなか見つからない。あちこちが陥没・隆起しているため、その陰となって難航していた。
ようやく、人の背丈ふたり分の高さをもつ崖の下に、それをみつけた。泰阿の剣はすっかりその輝きをうしなって、ただ荒野に柄をさらしている。
「追い討ちをかけるようで、あんま心持ちはよくねェが······」
月塊は赤金色をした剣を土を掘り、穴の中に寝かせて埋めた。またぞろ復活でもされては困る。しばらく寝入っていてもらおう。
「──さて、行かねェと。あとふたり、面倒っくせぇ奴が残ってらァ······」
涼州の兵はほとんどが騎馬だ。くわえて郭汜に注意をはらわなくてよくなった李傕軍の歩みは速かろう。とうに琴箭たちに追いついていてもおかしくはないのだ。
一帯は、戦場ともよべぬほどの、殺戮の場と化していた。
朝。日の出ととともに朝臣の陣を様子みた李傕が、そこに彼らの姿を見つけることはなかった。
これをもって返答とうけとった彼は、いっさいの容赦なく二万の兵をもって押しだした。
夜分に張済隊を蹴散らして意気あがる楊定軍であったが、野戦を数でこられては到底抗しきれず、囲まれぬようひたすら退くのが精一杯だった。
口惜しいが、いまとなっては天子を推戴することもいちど諦めなるほかないと観念した張済も、格好だけは李傕に協力する構えをみせる。
難なく楊定軍のわきを抜けてきた一隊が、とうとう黄河河畔にわだかまる朝臣軍に気づいた。
「防げェェイ!! 何としてもッッ! 刹那でもおおく時を稼ぐのだッッッ!!」
「陛下、どうか辛抱くだされッ!」
董承が槍を手に、わずかな兵を指揮してあたる。
その隙に楊彪は帝を、それを両側から支える皇后、貴人を車からつれだし、琴箭らの乗る馬の前へと押し上げる。后は自らがひきうけ、貴人はもはや頼れる者がおらず梅春がかって出た騎馬へのせ、わずかな希望に──いや幻にすがって東をめざす。
「ハッ! ハッ!」
背後からせまる大騒乱に追われるようにして、琴箭は乗騎をせかす。もはや胸の前でうすい呼吸をする陛下を気遣う余裕もない。
「追え! 陛下はあすこにおわすぞォッッッ!」
声が聞こえ、董承隊の敗北をしる。
「後免!」
それまで後ろに続いていた忠達隊の副将は馬を返すと、
「防げぇッ!! ここが親衛隊の本懐ぞッ!!」
琴箭にかわり兵を鼓舞して敵軍へ突っ込んでゆく。
剣戟の音と喚声がまたもや巻き起こり、矢が空を切る音が肉薄して聞こえたとおもったら、右肩に激痛がはしった。
「ぐッ!」
衝撃で兜がころげ落ち、みどりなす黒髪が舞う。
わずかな合間を縫うように、
〈琴箭っ、陛下をッ············陛下をたのんだぞォッッ······!〉
という楊彪の声がきこえた気がした。
「チッ! コイツは相当以上にやばい状況かぁッ!?」
月塊は駆ける。一歩で自身の背の三倍の距離を進むさまは、まさしく宙を駆けているようなものだ。
だがその走法をもってしても、何日分か先をいった李傕の軍の尻尾をすらつかむことは出来なかった。まこと、天下は恨めしいほどに広大だ。そして彼らに近づけば近づくほど、風にのってくる血の匂い。
「くっ······そッ! 絶対に間にあって······ッッ!!」
ぐんぐん弘農が近づく。と、なだらかな盆地に濛々と砂塵が舞っている様子をついにとらえる。
「よしッ!! 間にあっ······」
──シフォンッ
前触れすらなく。
自分の首があったところを鋭い一閃が薙ぐ。なんとか避けたものの、月塊は勢いそのまま荒れ地を尻ですべり込むことになった。
「············まさかお前なぞにあの泰阿が降されるとはな。思ってもみなかった」
ブン、と手刀をひと振して、赤霄がふり返る。
「チ。悠々とお出迎えかよ」
月塊も跳ね起きると、のこった大障害である男へと向きなおった。
「この先を案ずる必要なぞない。お前は俺が処理するからだ······!」
表現を一部修正。




