琴箭、殷秋史をよむこと
せっかくの書を前にしても、なぜか琴箭の心は曇ったままだった。本来なら小躍りして飛びつていただろうに、後ろめたさがその襟首を押さえつける。
でも、奥方様がああ仰るのなら、本当なのだろう。月塊は死んだのだ。だったら、ここで挫けていても仕方がない。
琴箭はその場にひざまづき、頭を下げて言った。
「治安官様にこれ以上のお願いをするのは、まことに身の程しらずということは重々承知です。でも、お願い申し上げます。どうかこの書物、我が父のために、写させてはいただけないでしょうか!」
奥方の衣の裾は、まったく動じなかった。ややあって、琴箭の小さな肩は優しく抱き起こされた。
「心配せずともよい。旦那様ははじめからそのおつもりよ。大学者であられるお父上のお役にたつなら喜んで、と仰っていた」
琴箭はもういちどふかく頭を下げて、さっと机のまえにつくと、背負った荷をおろして開けた。中からは筆、墨、小型の砥石、墨の詰まった小さな竹筒、竹簡をまとめたものが四巻きほどでてくる。
奥方はその用意周到さに、可笑しそうに笑った。
「まあ、準備のよいこと。ついでだ。足りなければ言うがよい、準備させよう」
礼をいって、琴箭は書にむき合った。ゆっくりと深呼吸する。傷めないように、恐る恐る手にとると、留めていた紐をしゅるりとゆるめ、ゆっくりと開いた。
その様子を見守ってから、奥方は静かに裾を返すと、扉を閉める。
「ゆるりとしていくがよい。幾晩かかっても構いませぬよ」
ギィ、と、開けるときはたいして軋みもしなかった戸が、かすかに音を立てた。
サブタイトルをあらためさせていただきました。




