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【完結】月琴伝  作者: 雲野 蜻蛉
桃園楼
113/403

琴箭、桃園楼に陽炎をみること②


 ゴトリと巻物が床におちた。

 桃霞は反射的に駆けよってそれに手を伸ばしたが、そのままの恰好でじっとしている。なにを思ったか、その木簡に見入っているようだ。


「? なに? どしたの?」


 こちらをふり向いて「ううん」と首をふると、それをとり上げる。が、言葉とは裏腹にまたもや木簡を見つめている。

 不思議におもった琴箭は、よってその掌中をのぞきこんだ。

「あらこれ······桃園楼(とうえんろう)じゃない」

 なんとも偶然、そして懐かしいものが出てきたものだ。


 桃園楼──あの()州への旅路をじつはともにしていた唯一の書であり、桃霞のいた仙郷にはいった唯一の書である。なんだろう、あの山の残り香でもついているのだろうか。

 だが当の桃霞の表情に、琴箭はハッとさせられた。


 どうして······なぜそんなにも······


 そう問いたいほどに、その表情は、童女の姿には不釣り合いに大人びたものだった。瞳は一点に、まるで書の中味のさらに奥を透かし見ようとしているかのようだ。


「······どしたの? ね、桃霞? なにか気になることがあるのなら言ってみて?」

 だが桃霞はやはり、「ううん、何でもない」とこちらを振り仰ぐのみであった。


「······そう?」


 杞憂であったのかもしれない。ついあの夜の若干迷惑な訪問が頭をかすめたからだと、琴箭はそう思うことにした。だってこちらをむいた桃霞の顔は、もうすっかり、いつもの天真爛漫な彼女にもどっていたのだから。


「そうだっ! 夕餉(ゆうげ)のしたく、手伝ういわれてた」

 そういって書を琴箭に「はい」と手渡すと、廊下をパタパタと(くりや)のほうへ走っていった。



 琴箭は手中の書に目をもどす。

「桃園楼ね······」

 この古詩を発掘し、父に報せてくれたのが、これから自分が嫁ごうとしている衛家だった。そう考えると、多分に仕組まれたものであるとはいいながらも、ヘンな情めいたものを感じないでもない。


 琴箭は留め木をはずして、カラリと木簡を紐解いた。

 例に漏れず、もちろんこの書にも目はとおした。主題からして、詩人が酒中に心地よく吟じた酔歌のようにもおもえるが、あにはからんや、読んでみると、まるで桃の花の香が匂ってくるほどに、情景をふかく感じさせてくれる名詞である。

 さらにふかく読むと、詩にしては珍しく、思慕の情を綴ったものであることがわかるのだが······


「?」


なんだろう、目の疲れだろうか。最近どうにも文章ばかり追っているから。

 琴箭は一回瞬きをし、目をこすってからじっと文字を睨んだ。


 ──見間違いじゃない。


 いくつかの文字が、墨字の際をなぞるように炎色の淡光で瞬いていた。どれもすべてほどなく消えたが、ただ一文字だけ、ほかの文字にくらべてながく留まったので、記憶にのこった。


(はつ)······」



かな遣いをなおしました。

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