琴箭、桃園楼に陽炎をみること
深夜の奇妙な訪問から数日。
桃霞はあいかわらずで、女中にいわれては力仕事をこなしたり、琴箭につきまとったりして楽しそうにしていた。
あの夜、どうして遅くなったのだと訊いたときは、
「憶えてない。でもなんかこう······ワクワク、止まらなくなったっ」
と眼をキラキラさせていた。
その意味するところはやはり、久々に本来の姿にもどって山谷に入ったために、発奮して訳がわからなくなったから──というところだろうか。
興奮して訳が判らなくなったといえば、あの夜の自分もそうだった。
桃霞を案じてモヤモヤしながら詩など綴っていたところに、あの夢幻のごとき会見だ。桃霞を厄介者のようにいわれてつい頭にき、田祖様に「ビクビクしちゃってさ」などと毒づいたりしてしまった。真鶏様に聞かれていないことを祈るしかない。
そんなこんなでちょっとだけ緊張感をとり戻しながら少したったある日、女中が厨で首を傾げているところを琴箭はみつけた。
「? どしたの?」
「あ、琴箭様。それが······とっておいたお客様用のお酒がなくなっているんです」
「お酒が?」
わびしい暮らしをしてはいるが、彼女の家にはときおり客が──れっきとした人間の客がくることがある。
おおくは昔の父の友人、知己などであり、その用向きは昔を懐かしんだり、ためこんだ書に知恵を求めてだったりした。
あいにく父はまだ呉にとどまっているので、その対応はすべて琴箭の仕事だ。もちろん、そのときでた噂や都の情勢なぞを書簡にして父のもとへ送るのもふくめだ。
「ふぅん。勘定ちがいではないの?」
「そんなことありませんよ。ほら、見てくださいましな」
そういって、女中はちいさな甕をもちあげてみせた。口にはまだしっかりと封がなされいる。にもかかわらず、持ってみるとそれは甕の重さしかないようだった。振ってみても、シャプシャプという音は聞こえない。
「······ヘンねぇ。たしかに封がされてるわよねえ」
「でしょう? あ、変わったことといえば、最近なんだか水甕の減りもはやいような······しょっちゅう汲みに参るのですよ、私。あのいたずらっ娘が飲んでしまったのではないですか?」
そりゃあ水のほうは桃霞だって入り用でもあろうが、酒の方はどうだろう。そういえばあの娘は、あれでこの家のどの人間よりも歳上だが、酒を好むかどうかはまた別だ。だいいち、いくら妖であろうが、呑むときは封くらいとるだろう。
「案外渇いてなくなっちゃったんじゃないの? ほら、最近ヘンに暖かいし」
「もう、琴箭様。私は真剣に申しておるのでございますよ? お酒はなくなり次第ちゃんと足しております」
厨を思案げな顔ででた琴箭は、自房にもどる廊下をあるきながら、ふと、うえを見上げた。
軒のさきにはどこかいつもと違う空が、屋根の直線的な造りに切りとられて見えている。
どこかいびつな、陽気をやどした空。呉の空とも似たその青さは、雪とはいわねども、氷の一枚はとっくに張りそうなこの中原の地の天の運行を、ジワジワとおし留めているように思えた。
首をふって自房の扉をあけた琴箭は、目を見開いた。
参考にするためあちこちに開いては置かれた書が綺麗に片付けられていた。それをしてくれたのは、お遣いが終わったのであろう、彼女づきのちいさな女中さんである。
「あ、姐御、みてみて。桃霞、片したの」
抱きついてくるその頭をよしよししながら、琴箭はすっかり綺麗になった自室をみまわしてため息をついた。
意外にもこの娘には、片付けや掃除が得意な、きれい好きな一面があった。だがため息の原因はそこではない。
······童女にできることができてない私ってどうなの。
こんなので嫁に行こうというのだから、我ながら呆れはてるばかりである。
そのとき、積みが甘かったのであろう、一枚の木簡が、ゴトリと床にころがって落ちた。
ただちに拾いにいった桃霞の足が、なぜかその巻物の数歩まえでビクリと止まった。
かな遣いをなおしました。




