琴箭、桃霞を案ずること
夜が更けてきた。
真っ暗ななかに月が深々と冴え渡り、より空気が寂しさを増していく。そんな時刻になっても、琴箭はなかなか寝つけずにいる。
桃霞が帰ってこない。
はからずも衣を脱ぎ捨ててしまったのだから、どうしたって人目を避けるにはこんな時刻になる。これまでもそういうことはあった。だからあの娘を、いかな大洛陽の城壁といえど阻むことは出来ぬのは確かなのである。
であるにもかかわらず、今宵はいっこう帰る気配がない。ひさしぶりに野性をとり戻せたことが嬉しくて、山野を荒ぶる血のままに駆けまわっているのだろうか。
ジリと音をたてる燈明の灯りで、すらすらと竹簡に筆を走らせながら、琴箭は思った。
もしそうなら、いや、そうではなくとも、あの娘にはだいふ我慢をさせてしまっている。実際、あの娘がいてくれたことで随分と助けられてきた。それは、今日みたいな緊急事だけじゃない。日々全般にわたってそうだった······
コトリ、と筆を硯石にとどめて、琴箭は机のわきに据えられた書棚に目をやった。
ここいらで集めた書も、もう結構な数になった。四角く区切られた棚には、竹簡、木簡がそれなりに整理されて積まれている。
ただなんとなく。
ただこれまでの習慣にならって。そうやって積もってきた、いうなれば彼女の迷いの結果だ。
嫁ぎ先として決まったのは、あの夏の旅で父に遣わされた衛家。その頃からほぼ決まっていたのは勘ぐるまでもなかろう。
むこう様も学門の家系ゆえに、ありがたくもそのまま書の探求を続けてもよい、と仰っていただいてはいる。が、いざ成ればそうもいくまい。自分の稀少な観察結果からもそれはうかがえた。
いっそ断ったら······
そう試考したことも何十遍。今後も嫁になどいかぬと突っぱね続けられたら。
だがそれをすれば、名士とされ、学識のおぼえもたかき蔡家の系譜は絶える。父母の子として、それはそれで怖ろしく思えてくるのだった。
たちあがり、窓格子の隙間からのぞく月を見上げた。
月塊は······月塊なら、なんと言ってくれるだろうか。きっと雑に、バッサリ切り捨てるような暴言を吐くのだろうけれど、それで納得できてしまえそうな気もする。
そんなことを考えていたら、自称、月塊の嫁を公言する桃霞のことにまた思いいたった。
「······遅い。遅すぎる」
琴箭はウロウロと床を歩きまわった。
ひょっとしてこのまま帰ってこないんじゃ······
不意によぎったその不安を首を振って追い払ったところで、部屋の扉のまえで「御免」という声が聞こえた。
桃霞ではない。あの娘ならそんな断りなぞしないし、第一、いまのは明らかな男声である。
こんな夜分に訪問?
琴箭は緊張しながら、声をしぼり出した。
「······どなたですか?」
ありがとうございました。
お休みでありますので、あさって木曜日につづきを投稿いたします。
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