蔡琴箭、曹孟徳をみおくること⑤
「桃霞っ!」
琴箭の声に、赤虎はぱっと身を翻し山中へ姿を消した。散らばった衣は琴箭がいそいでかき集め、槽をひいて道の脇にそれると、後ろの草の陰にそれをかくした。
だんだん近づいてくる集団は、いまだはっきりとは見えなくとも、もう見当がついた。
あの大軍は、洛陽から派遣された黄巾討伐の軍勢なのだ。いま冀州で苦戦しているという官軍の援兵といったところか。
近づくにつれ、立てられた大旗のなかに、「曹」の刺繍がはいっているものが目立つことがわかった。
うしろに何千もの軍勢を従えたその大将は、脇にそれて驢馬とたっている自分と、岸に放ったらかしにされた武具や兜、焚き火などからなにかを感じたか、たった一騎、わざわざそれて琴箭の前に馬をとめた。
これには琴箭もぎょっとして、ドギマギしながら頭をさげると、その人物は馬上からたずねかけた。
「なにやらひと悶着あられたようだが、平気かな?」
「······はい。お気にかけていただきありがとうございます。なんとか逃れることができました」
将はうなずくと、隊列から部将をよびよせ命じる。
「このさきに兜や剣をもたぬ官兵がいるはずだ。見つけ出して斬れッ」
ハッ、と返し、部将は数騎をつれ先行して駆け出していく。
いっぽう馬上の将は、なにを思うのか、槽にたいして気がとがる様子の乗騎をなだめながら、無言で琴箭をみつめつづけている。
「······顔をあげてみてもらえぬか」
意外な申し出であった。琴箭はおっかなびっくり、拱手の袖にすこし顔を隠すようにして顔をあげた。
その大将は、立派な鎧兜に身をかためていた。体格はそれほど豪傑という感じではない。どちらかというと頭を使うほうが得意なようにみえる。
髭はなく、歳は二十代の半ばから後といったところだろうか。だが、妙に鋭い目と全面をおおう自信が印象につよくのこった。
「名をきいてよいかな?」
「は、はい。蔡琴箭、と申します」
とたん、その将は喜色ののった声を発した。
「やはりか! どうもみた憶えがあったのだ」
ヒラリと馬からおりると、答礼をかえしてくる。
「私は曹孟徳。父君とは知己でな、故郷にいた頃によくお屋敷にお邪魔していたのだ。お主とも顔をあわせたこともあるのだが──まあ、憶えてはおられぬか」
その頃であればほぼ赤子も同然である。いかな琴箭も、それではどうしようもない。
「申し訳ございません。ですが、父から曹将軍のお名前はうかがったことが御座います。いまに大業をなす若者だと、褒めていました」
孟徳は愉快そうに笑った。
「それは面映ゆい。しかしそうか、かの幼子がもうこんなにも美しくなられたか。噂では近々婚礼とか」
もうそんなところにまで······ほんと地元情報の迅速さには恐れ入るわ。
そんなことを思ったせいでとっさに答えを詰まってしまったが、相手は照れていると解釈したらしい。笑いながらうなずきを返す。
「残念だ、拙者はこれから豫州でひと戦せねばならぬ。このような身形で恐縮だが、お祝いを申しあげますぞ。父君にもよろしくお伝え下され」
「ありがとう御座います。私も、将軍のご活躍をお祈り申しあげます」
では、と孟徳はふたたび馬に飛び乗り、軍の先頭をめざして駆けだしていった。
あまりの唐突な出来事に、琴箭は軍の最後尾が霞むまで、頭を下げてそれを見送っていた。
やっと頭をあげた彼女は、ようやく緊張をといた槽の鼻をなでながら、ほっと息をはいた。
「ね、槽。あの人たち、冀州にもいくのかな······」
馬にハッパをかけて先頭まで戻ってきた孟徳を、副将が出迎える。
「見送りの女人ですかな? 曹殿も大変ですな、ひきも切らせぬというやつで」
「ふっ、ならば良かったのですが。それにしても······」
「なんです?」
「女子というものは、美しく色づいたとおもわばすぐ他人のものだ······いつもながら相手の男が妬ましいものです」
ハッハッハと、副将の笑い声が山谷に響いた。
あくまでも、当時流の、「孟徳さんによる個人的見解」であり、ごく仲間内のジョーク、であります。
ご寛恕くださいませ。
政治屋さんがオフレコ漏らされて週刊誌にスッパ抜かれるみたいなやつですね。
(スイマセン、また言いすぎました)




