蔡琴箭、曹孟徳をみおくること④
急激に重みをました桃霞に、今度は男のほうが押し倒された。官兵どもはいっせいに凍りつき、何事かと必死に頭のほうを急き立てる。
無理もない。ついさっきまで童女だったものが、ほんの一度瞬きをしただけで、橙色にシマも鮮やかな赤虎へと変じていたのだから。
桃霞は牙をみせてうなりながら、踏みつける男に鼻をよせ、とうとうクンクンと臭いをかぎだす。
「ッヒィッ! ヒィィィィッッ!」
誰かが叫ぶと、男たちは我先に回れ右をし、一目散に駆け出した。
あわれ、置いていかれた男も必死に手足を動かすが、しっかりとのった桃霞の前脚は、爪をたてて獲物を逃すことはしなかった。
桃霞は眼をくるくるさせ、二、三度チョチョイと小突いてから、おもむろに前脚をのけた。
解き放たれた男は、弓から放たれた矢のように、一目散に街道をかけて見えなくなった。
「ふぅ〜っ」
琴箭はつめていた息をはき出す。
助かった。助かったけれども············
その瞳は困ったように桃霞へとむけられる。とうの桃霞は伏せをして、甘えるように左前脚を顔の前で上げ下げしてみせた。
半年前のことだ。
早朝、門をあけると、目の前に虎がお座りをしていた。
さすがの彼女も総毛だって息をすることも忘れたが、そのお陰か、一気に三年前の、あの庵での一幕が脳裏に蘇った。とっさに首の毛をつかんで庭にひきずりこむと、ご近所にみつかっていないかとビクビクしながら確かめたものだ。
そのまま家人にも見咎められぬようこっそりと自室にひき入れる。虎も大人しく付いてきた。
落ち着いたところで、虎は一人の童女へと変じ、口をきいたのだった。
「月兄貴、あいたい。だからさがしてる。盤、なら琴箭姐御のところで待つ、よい、いった」
確かめるまでもなく、あの夏、月に尻尾をつかまれ投げ飛ばされたり、栗鼠になった彼を追いまわした虎で間違いはなかった。どうやら月塊を懐かしみ、あの奇態な山を旅立ったらしい。
ここで待てば必ずあの朴念仁がくるとは琴箭も確約はできないのだが、こんな調子であちこちに出没して狩られてしまっては可愛そうだ。絶対ではないよ、といい含めたうえで、しばらくいてもらうことにした。
ちなみに家人には、洛陽郊外で困っている母娘に奉公させてくれと頼まれた、で通っている。
琴箭は苦笑した。わかってる。私を護ってくれたんだもんね。
彼女の表情が和らいだのをみて、桃霞も立ちあがり、体をすり寄せようとした。が、それがピタリと止まった。
どうしたのかと琴箭も振り返ってみると、いつの間にか、背後から蹄の音が近づいてきていた。それも大群が、大地を揺るがせるようにして近づいてくる。
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