蔡琴箭、曹孟徳をみおくること②
右手に桃霞の手、左手にロバの槽の手綱をもち、琴箭は大道を城門にむかった。
さすがは帝都洛陽。自分たちの住む屋敷はあれでも郊外にあるほうではあるが、こうして進む道は行き来する人で溢れかえり、賑わっている。
まあ、呉の、それも片田舎とは比べるのは無理というものではあるのだが、幼くして後にしたこの都への印象はうすく、いまだ新鮮な発見にこと欠くことはない。
「なーなー、姐御。どこ行く?」
琴箭の右手をひっぱりながら、桃霞がたずねる。
「ちょっと外まで。都もいいんだけどねー。さすがに屋敷の中ばかりじゃね」
それは間違いなく本音だ。だがちょっとでいいから緑がみたい。山や川の香をかぎたい。そんな思いがわき起こるのも自然なことだった。とくにいまの、自分のような環境にたった女ならばわかってくれるだろう。
大城門を抜けると、ふたりは槽の背にまたがった。桃霞をまえに琴箭は慣れた手つきで手綱をくる。
あれからちょっぴり歳はとったが、まだまだ槽は元気だ。すこしだけ重くなった自分と桃霞の重みをがっしりと受けとめ、歩を進める力強さはいまだ健在である。呉からここまで来るおりも、今度こそはとまっ当に歩きぬき、牧童姿に扮した自分を無事に送りとどけるという大役を担ってくれた。
街道を黄河までだく足で北上し、北ぼう山のほうへ進む。
頃はすっかり秋のことで、当然ながら南方よりも樹々の衣替えははやく、道すがらの名もなき山々さえ、錦繍のいでたち艶やかにふたりを迎えた。
自分の懐にすっぽり収まるように座った桃霞が目を輝かせているのを、琴箭は愛おしくみつめた。いまはこうして、ごく自然にいてくれるが、彼女が来たときは本当に大変な騒ぎだった。
なにせ突然だったしねぇ。それにあれじゃあ······私でさえ吃驚したよ。
ガッポガッポという槽の小気味のよい蹄の音をききながら、琴箭はしばし、峡谷の道の風景を愉しんだ。
こうしていると、あのたいへんだった初めての旅が思い出される。たった三年前だというのに、なんだかずいぶん遠く感じられる。
わかってはいるんだけどね······
琴箭はまたモヤモヤとした思いを巡らせた。わかってはいるのだ。もう童女ではない。それは身にまとうしがらみが、より強く自分に付きまとってくることなのだと。
いまもって我が蔡家の当主は父である。が、その父は党錮の禁で職を追われて以來、呉にひっ込んだまま。なんとかやりくりしてきた高官時代の蓄えもいよいよ心もとなく、要するに家は困窮していた。
だから、というわけでは決してないのだろうが、時がうまく巡りあってしまったのだ。名士としてまだ体裁がたもてているうちに······そんな親心なのだろうとも、知己からは諭された。
でも本音をいえば、まだ家にいたい。
ずっと書の研究に没頭していたい。
たがそんな願いは叶わないのだろうなと、彼女は身体の弱い母のことを想った。
そんな考えに浸りすぎたのだろうか。いささか上の空だった琴箭の耳に、桃霞の、警告をうながす声音が飛びこんできた。
「姐御っ、とまってっ」
北ぼう山の「ぼう」ですが、漢字変換にでませんでした。
いや、たんに私がダメなだけなのかもですが。
亡に阝の、ぼう、であります。




