1年生1学期~夏休み
1.高校1年1学期
ある日の登校風景:
東京都に接するとある県南部の中都市。東京都心へアクセスし易く、通勤圏として便利なごく普通のありふれた街。その街の小道を二人の女子高生が、朝日を背に浴びて、道を歩んでいる登校風景。二人は並んで歩んではいない。一人の女子高生が前を行き、もう一人がその後を、小走りで追いかけている。
「あ~ん、美夏海ぃ~待ってよぉ~」
前を行く、美夏海との距離は、約3m。冬美は、微妙に声を落とし、足さばきの音を落としている。
(よし、これなら今度こそ、美夏海から一本を取れる。)
冬美は、足音を忍ばせ、前を行く美夏海には、およそ5mは離れている様に思わせ、美夏海との距離を2m、1.5mと縮めていく。
その間、美夏海は変わらずの歩調で冬美の声も聞こえないが如く歩いていく。
冬美は、美夏海との距離が1.5mを切った瞬間、一気に前に延び、美夏海の利き腕、左腕を取りに行く。
冬美(もらった!)と思った瞬間、美夏海の左腕が冬美の右腕をかわし、美夏海の体が僅かに右に移動した。
美夏海の左腕を取り損なった冬美はそのまま蹈鞴を踏み前のめりに、美夏海の先に体を泳がしていく。
すかさず、美夏海が冬美の襟首を掴み、冬美の前傾姿勢を抑え、冬美の襟首をスッと後ろに引いた。
冬美は、前のめりの前傾姿勢から常態に戻り、美夏海のやや左前を歩く態となった。
美夏海「あんたっ、いい加減にしいよっ!親友のはずなのに、あんたと居ると一時も気を休められないじゃない!全く、油断も隙もない。」
冬美「だってぇ、美夏海、一度も私の技にかからないじゃない。一度位私の顔を立てて、技にかかってよぉ。」
美夏海「あんたねぇ、オリンピック強化選手級の超弩級高校生に技かけられたら、私のか弱い身体バラバラになるでしょ。」
冬美「何が、か弱いよ。この骨太!」
美夏海「あんたっ、それ以上言ったら...」
冬美「それにしても、美夏海、あんた、後ろに目でもあるの。なんでわかったの」
美夏海「あんたのその猫なで声。あんた、何時も何か仕掛けようとする時は、何時も猫なで声になるでしょ。それに毎日この道通っていて、まだわからないの。この道は東西に通っているのよ。西に向かって歩いていれば、朝日であんたの影がまるわかり。」
冬美「そっか、じゃぁ、また今度は別の手考えよっ。」
美夏海「もう、いい加減にしてよ。私は、あんたの事、親友だと思ってるのよ。毎日毎日ほんとにあんたと居て、気が休まらないじゃない。」
冬美「だったら、たまには気休ませて、隙見せてよ。私も美夏海の事、親友だよ。だって美夏海以外で私とじゃれ合える子いないもん。」
美夏海「あんたのじゃれ合いは、しゃれにならないわ。ひとつ間違えたら、ほんとっに命落とす。」
なんなのか、この二人。一見したところは、普通の女子高生だが、話していることは、物騒この上なし。
先ほど、前を歩いていた女子高生の名は、「柳美夏海」、後ろを歩いていた女子高生の名は、「北斗冬美」。
美夏海は、決して太ってはいない。確かに日ごろの鍛錬から骨太だが、体形はむしろスリムに見える。
彼女は、海辺に出ても決して露出の多いビキニ様な水着は着ないだろう。腹筋は見事なシックスパック、毎日の素振りけいこで見事な上腕二頭筋。
一方の冬美は、柔道少女。小太り気味だが、あどけない童顔が可愛らしい。加えて、甘える様な声が彼女の素顔を隠し、周囲を誤解させる。ハスキーボイスでスレンダーな美夏海とは好対照である。
或る日の朝の登校風景。美南海と並んで歩く冬美に、話しかける美南海。
美夏海「しかし、それにしても、ほんと、あんた酔狂ねぇ。わざわざ強化選手辞退するなんて。」
冬美「だって、私寝技できないもん。立ち技だけで、オリンピックなんて通用するわけないじゃん。それに目立ちたくないし」
美夏海「寝技出来ないんじゃなくて、したくないだけでしょ。」
冬美「寝技、大っ嫌い。だって寝技したら、私の形のいい耳がつぶれちゃうもん。そしたら、ピアスできなくなるぅ。」
冬美「美夏海こそ、何で部活で剣道やんないの。美夏海の腕前だったら、速攻、全日本優勝でしょ。」
美夏海「私のは武道。剣道じゃないの。それに竹刀私あれダメなの。軽過ぎて。少し本気で素振りすると、しなっちゃって、振り抜けない。」
冬美「竹刀がしなる?美夏海、あんたどんな素振りしてんのよ。」
美夏海「毎回じゃないけど、たまに素振りに示現流のトンボを入れてるの。これって、竹刀ではできない。雲鷹では無理。」
冬美「言ってること、よくわからない~」
美夏海「別にわからなくてもいいよ。遅刻しちゃうから、急ぐよ。」
冬美「あ~ん、待ってよぉ~」
学校の休み時間。生徒達のはしゃぎ・じゃれ合う声や音で賑わう喧噪。どこにでもある学校の休み時間の光景。
廊下の窓際で外を眺めている美夏海と冬美。
美夏海「今日、お兄ちゃんとお兄ちゃんの会社近くで待ち合わせして久しぶりに外食するんだけど、冬美も付き合う?」
冬美「美夏海の兄貴と食事。う~ん、久しぶりに美夏海の兄貴に会えるなんて、魅力的な提案だけど、部活あるしなぁ。一日でも休むと体調おかしくなるのよ。今回は遠慮しとく。兄妹水入らずで過ごしといで。」
美夏海「そうぉ、じゃっ、また今度ね。」
冬美「所で、美夏海は何時練習してるの。部活もしてないし。」
美夏海「私は、朝型。」
冬美「何時も素振り?一人稽古?」
美夏海「素振りと型稽古。田舎に帰った時は、おじいちゃんに相手してもらっているけどね。」
冬美「ふ~ん、今度見せてね。」
美夏海「いずれね。」
美夏海の兄、雅の勤務する会社へ行く電車の中:
何を考えているのか、美夏海はいつも混んでいる電車を選んで乗る。
美夏海
混んでいるにもかかわらず、不自然に美夏海の背後に近付いてくる男。
気配を感じる美夏海。
美夏海(来た、来た!)
何故か、期待していたかの様にもみえる美夏海の表情。
美夏海の背後に付いた男、いきなり南のお尻をわしづかみにしようとする。即ちこの男、痴漢だ。
男の右手が、お尻をわしづかみにしようとした刹那、美夏海の体が、巧みに左に移動する。
痴漢「ん?」気のせいか?
気を取り直して、またわしづかみを試みる。
また、少し左に体を移動しつつ、痴漢に対して横を向く美夏海。
まだ痴漢に気づいていない風を装う美夏海。
痴漢もさすがに相手の視界に自分が入る位置関係になると、痴漢行為はやりづらい。
美夏海は、これで相手が諦めてくれれば、それでよし。三度目を仕掛けてくるようなら。。。
痴漢(よし!)気合を入れて、三度目を試みようとした瞬間。電車が減速。
美夏海の目的駅に到着した。美夏海は何事もなかったように、下車していく。痴漢を残して。
その様子の一部始終を見ていた一人のOL風の女性がいた。大き目の黒ぶちの眼鏡をして、化粧けのない目立たない風貌だが、よく観察すれば、目鼻立ちの整った美形の女性。さりげなく美夏海と一緒に降車した。
女性「あなた」と美夏海に声をかける。振り向く美夏海。
美夏海「...」
女性「あなた、斜め後ろに立っていた男に何かされなかった? 痴漢じゃなかった?」
美夏海、女性をじっと見つめる。何かを品定めをするような目線。
美夏海「えっ!そうなんですか? こわ~い。」美夏海はおびえた表情を見せるが、いかにもわざとらしい。
女性「そう? なんだか、あなたの身のこなし、さっきの男の行動を予め予想して動いていたようにも見えたけど。」
美夏海「えっ!そんな器用なことできる人いるんですかぁ? あっ、私待ち合せに遅れちゃう。急いでいるんで、もういいですか?」
問い詰めても、しらを切るだろうと思った女性「ごめんなさい。呼び止めちゃって」
美夏海「失礼しますぅ。」
軽くお辞儀をして、踵を返し、小走りで走り去る美夏海。
立ち止まって、美夏海を見送る女性。
(あの子、気になるけど、問い詰めるほどでもないし。それより、あの痴漢、折角、今度はしょっ引くつもりだったのに。あの子のせいで、鳴りを潜めちゃうと、少し厄介ね。)
美夏海(驚いた。見ている人いるんだ。今度からはもう少し範囲を広げた周囲に気を配ろう。これも修行のうちね。)
美夏海の修業は、日常のすべてが修行の様だ。
雅の会社近く、待合せ場所に立つ美夏海:
雅「やぁ、美夏海待たせてごめん。少し会議が長引いた。」
美夏海「別にいいけど、今日は何食べさせてくれるの?」
雅「何時も美夏海に家事してもらっているからね。偶には何か美味しい物でもと思ってね。美夏海の好きな物何でもいいよ。」
美夏海「冬美も誘ったんだけど、今日は部活優先するって。」
雅「そう、あの子も来ると思ってたんだけど、今日は遠慮したのかな。それでっ、美夏海何にする。」
美夏海「じゃぁ、ノドグロ!」
雅「あぇ、肉とかじゃなくて、魚?!」
美夏海「何言っているの、今じゃ、ノドグロは高級魚でしょ。それに私たちの故郷の魚。ここじゃぁ、滅多に食べられないし。」
雅「分かった。じゃぁ、ググってみるけど、多分居酒屋とかそういう所になるぞ。」
美夏海「平気!お兄ちゃんも普段はそういう所に行くんでしょ。そういう所覗いてみたい。」
雅「普段から、会社と家との往復で、そんな外で飲みに行くなんてことないこと知っているだろ。」
美夏海「早く行こっ」
大漁旗を看板にした大衆居酒屋の店内の一角:
一通り、雅の注文した品が、テーブルの上に並ぶ。ビールジョッキを軽くあおる雅。
美南海は、ノドグロの塩焼きを頬張る。
雅「まぁ、味はノドグロだけど、やっぱり清源寺のある山陰のとはねぇ。」
美夏海「何言っているの。十分美味しい。何より、自分で作った料理ではなくて、人に作ってもらった料理は何食べてもおいしいわぁ。」
雅「そっちに来たか。それは偶には俺にも作れ、と言っているのかな?」
美夏海「そうじゃぁなくてぇ、たまにこうやってお兄ちゃんと食事できるのがいいの。最もそろそろお兄ちゃん、私じゃなくて他の女の人と食事した方がいいんじゃない。」
雅「そうねぇ、今の所、仕事が恋人かな。今、理想の相手を創作中だから。」
美夏海「何、その理想の相手を創作中って。よく考えたら、お兄ちゃんの職業って、コンピューターエンジニアという事は知っているけど、どんな内容の仕事は美夏海知らなかったなぁ。何やってるの?」
雅「会社の機密情報に属する事だから、詳しくは言えないけど、今流行りのAI関係かな。」
美夏海「ふ~ん、よくわかんないけど、お兄ちゃんらしい仕事みたいね。お兄ちゃんは昔から頭良かったから。」
雅「美夏海も大したもんだと思うよ。山陰の片田舎から中学生の時に出てきて、高校はこっちでもそこそこの進学校に入学したんだから。しかも、じいちゃんに課せられた毎日の日課をこなしながら、勉強してきたんだから。」
美夏海「お兄ちゃんだって、同じじゃない。」
雅「俺はだめだよ。美夏海ほど身体能力ないし、毎日日課をこなしてはきたけれど、じいちゃんにしてみれば落第生だよ。きっと」
美夏海「そんなことないと思うけど、お兄ちゃんにはお兄ちゃんの居場所が今の会社なんじゃない。きっとおじいちゃんはよくわかっているんじゃない。」
雅「そうかもね。高校を卒業して、大学はこっちに来て今の会社に入ってる。じいちゃんには感謝してる。」
美夏海「そう、お兄ちゃんが東京に出てきてくれたから、私も今ここにいるし、冬美にも出会えた。感謝しています。」
「・・・」夢中になって食事を頬張る美夏海を黙って見つめる雅。
雅「所で、今年も夏休みは、じいちゃんの所に行くのか。高校生になって初めての夏休みだし、少しは遊びたいだろ、冬美ちゃんもいるし、何処か行きたい所あれば、お兄ちゃんも休みとって、北海道とか連れて行ってもいいぞ。」
美夏海「ううん、今年もおじいちゃんの所がいい。あそこ落ち着くんだよね。それにおじいちゃんにはまだ教えてもらわなくちゃならない事が沢山あるから。今年は、高校生なったばかり、冬美も私の田舎行ってみたいって、言っているんだけど、冬美を連れておじいちゃんの所に行ってもいいかな。」
雅「美夏海、先ず、じいちゃんに聞いてみるんだな。まぁ多分ダメとは言わないだろうけどね。それにこっちが大事なことだけど、冬美ちゃんにおじいちゃんの住んでいる所、ちゃんと説明したか?都会の人にとっては、あそこは異次元世界だぞ。何しろスマホの電波届かないんだからな。」
美夏海「ちゃんと説明したよ。それでも冬美、眼輝かして、行きたいって、言ってる。私の本気モードの日課見たいんだって。」
雅「美夏海の本気モード見せてもいいのか?」
美夏海「大丈夫。多分ここ3年間の日常見てて、冬美も察していると思う。」
雅「それならいいけど、おじいちゃんがなんて言うかな。でも美夏海が見て冬美ちゃんに合格点上げているのなら、じいちゃんのダメはないだろうね。美夏海に任せるよ。」
美夏海「お兄ちゃん、有難う」
2.高校1年生夏休み:
清源寺:
新幹線で、東京から京都へ向かい、そこで山陰線に乗り換える。山陰線に乗り換えて、日本海に面したひなびた小さな駅を目指す。岡山まで新幹線で行き、そこから、出雲経由で行くか、広島から浜田へ高速バスで移動し、浜田から東へ向かうローカル線に乗り換えた方が早いのだが、美夏海と冬美は敢えて時間がかかるが、都会の喧騒から離れ、ゆったりとした時間の流れを感じながら山陰の日本海を右手に眺めながらののんびりと向かう経路を選んだ。
おにぎりを頬張りながらの山陰線にゆられる旅程は、心が和む。
美南海「冬美のお母さんが握ってくれたおにぎり美味しいね。中に入っている鮭と昆布の佃煮のバランスが絶妙!」
冬美「そう、美味しいんだけど、ちょっと大きいのがね。一つ食べたら、おなか一杯になっちゃう。小さくして、何種類の具を楽しめたらいいもっといいんだけど。」
美南海「きっと、冬美の運動量考えての事よ。贅沢言わないの。」
昼過ぎ、列車は既に日本海に接した鉄路を西へ向かっている。高架な鉄橋に差し掛かる。餘部鉄橋だ。
30年以上前に起きた列車転落事故を受け、現在は新しく架け替えられた鉄橋を列車が渡っていく。
冬美「うわぁ、凄い眺め。見晴し最高!でも高くて少し怖いね。落ちたら死んじゃうわぁ。」
美南海「昔、ここで列車が脱線して落ちて、多くの人が亡くなったって。おじいちゃんから聞いたことある。」
冬美「ホント!? そりゃ、この高さから落ちたら、助からないよねぇ。」食べたばかりのべた付く手を合わせ、拝む風の冬美。
まだ先は長い。目的の駅に着くのは、19時頃。
最終目的地の清源寺は、小駅から、徒歩で行く。約1時間の行程。清源寺に着く頃は、丁度真夏の日が沈む刻限となる。
山陰の夏の日の入りは関東のそれと比べて遅い。場所によっては、日本海に沈む夕日を楽しめる事もできる。
しかし、清源寺は山寺である。山合の日の入りは、山に日差しを遮られる為か、意外と早い。
19時、無人の駅に降り立つ二人。駅のホームには、美夏海と冬美だけ。ほかに人影はない。すぐ隣を国道9号線が走っている。一級国道のはずだが、この時間になると、通り過ぎる車も疎らになる。日が傾いてきたとはいえ、まだ廻りは明るい。
冬美「ねぇ、美夏海。駅に駅員さんいなかったよ。自動改札もないし、勝手に降りてきていいのかな。」
美夏海「普段、殆ど人が下りないから、駅員さんなんかいないよ。勝手に降りて問題なし!それより、ここから清源寺迄歩いていくよ。あんた、そんなでかい荷物持ってきて、大丈夫?」
冬美「それこそ、問題なし!」
美夏海「それ担いで、約1時間は歩かなければいけないのよ。ほんと?。折角おじいちゃんが、迎えに来てくれるって、言ったのに。」
冬美「だって、これからひと月お世話になるんだから、食糧位持って行かなければだめでしょ、ってママに持たされたんだもん。それに歩くのも修行と思えば、楽勝!」
美夏海「別におじいちゃんは畑してるし、たまに畑を荒らしに来る猪も絞めてるから、お米以外そんなに困っていないと思うよ。そのお米も檀家さんが定期的に持ってきてくれるし。まぁ、修行ならばいいけどね。分かっているとは思うけど、もう一度言うよ。これからのひと月は、東京での暮らしとは全く違うからね。食料は自給。水は井戸水で美味しいけど、お風呂はマキで自分で炊くのよ。トイレは外にあるから、電気付かないよ。夜は、全くの闇だからね。しかも、猪、鹿、タヌキ、猿何でも出てくるからね。あと寝てるときムカデには気を付けてね。たまにさすから。あとは~。虫とかカエルの音がうるさいかも。最後にこれ一番大事な事よ。この国道9号線から南に100mを入ったら、ネットの電波入らないからね。家に連絡しておくことがあったら、今のうちだよ。この後、外界と連絡とれるのは、おじいちゃん家の固定電話だけになるからね~。」
冬美「わかってるわよぉ。その話何度聞いたか。耳タコよ。今のうちにママにSNSでメッセージ入れとく。」
というや否や、素早くスマホを取り出す冬美。慣れた手つきで素早くメッセージを打ち込んでいく。
美夏海「では暗くならないうちに行きますか。」
駅のホームを降りてすぐ、国道9号線が線路と並行して走っている。その9号線を横切り、二人は、山間の道に入る。道は、最初のうちは片側一車線の都心では住宅街を通っている普通の道幅の道であったが、決して多くはない住宅が点在する住宅街と言える?場所を通り抜けると、道幅は急に狭くなり、車一台がやっと通れる細い道になる。二人の左手には、小さな小川が道に沿って流れ、小川の向うは山間迄20~30mとしかない。その狭い土地に青い穂の田んぼが続く。車の喧騒は早くも聞こえない。セミの鳴き声の中にはや蜩の声が少し混じっている音ばかりである。小川は道に近付くとその音に小川のせせらぎの音が加わる。なんとものんびりとした風情である。その風情の中を重量20キロはあろうかという大きなリュックを担ぎ、颯爽と歩く二人。この二人、直にでも自衛隊で通用するのではないか。
冬美「ねぇ、美夏海。急に静かになってきたね。セミとか虫の音ばかりでなんだか落ち着くね。」
美夏海「この田舎っぽさが好きになってくれる人はいいけど、都会の喧騒に慣れちゃった人はこういうのは苦手かもね。冬美はどっち。」
冬美「私はこういうの好きだけどな。」
美夏海「なら、いいけど。ここら辺はまだ序の口だよ。多分清源寺見たらびっくりするよ。そう、日本昔話に出てくる山寺を想像して。」
冬美「ほんとっ!。最高じゃん。そんな所で、1か月間、あんたのおじいちゃんに稽古つけてもらえるなんて、最高!」
美夏海「ほんと?大丈夫かなぁ。直ぐ里心起こさなければいいけど。」
冬美「大丈夫。それにあんたとも一か月居られるし。」
美夏海「わかった。じゃぁ、もう少し急ごっ。関東より、日の入りが遅いといっても、もう7時廻ってるし。それにここは山間なんで、8時になったら、街灯なんてないから、急に暗くなるからね。」
冬美「りょ」
それから、約30分。夕日の残照も殆どなくなり、黄昏れとなった頃。
美夏海「冬美、着いたよ。ほらあそこ。」
左手の山の斜面の中程を指さす美夏海。美夏海達が歩いてきた細道から、その山の斜面に向かって更に細くなった小道が小高い山の斜面の中腹に辺りにある古寺に続いていた。
冬美「あっ、ホントだ。まるで一休さんの話に出てくるようなお寺ね。凄~い。」
美夏海「これから、ここでひと月。自炊と練習の毎日だよ。」
冬美「りょ!」
美夏海「あっ、おじいちゃんだ。あそこの石段に上に立っている人が私のおじいちゃんよ。」
小道をまっしぐらに清源寺に向かってかけていく二人。
冬美「最後の石段これ何段位あるの?ずいぶん急ね」
美夏海「30段位かな。後少しよ。」
石段の上で、駆け寄ってくる二人を愛おしげに眺める初老の男性。齢70歳にもなろうとしているこの男。年齢的にはとうに老人とも呼んでもおかしくないが、背筋も伸び、いまだ衰えを見せていない筋肉質の体を保っている。美夏海の祖父、柳文教。清源寺の住職であり、美夏海の武術の師匠である。
文教「よく来たな。美夏海、冬美さん。暗くなるから、車で迎えに行ってもよかったんじゃよ。」
美夏海「冬美がこれも修行だっていうから。それにゆっくり景色を眺めながら、歩くのもいいなぁ、と思って。」
文教「わかった。先ずは家にお上がり。風呂は沸かしてあるから、先ずは一休みしなさい。夕食も簡単な物しかないが、用意はしてあるからな。その代わり明日からは早いぞ。」
美夏海「おじいちゃん、有難う。冬美、先ずは荷物整理して、明日からの準備しよう。」
冬美「OK!」
小一時間後、風呂で、汗を流した二人は、文教の用意した食卓の前につく。
冬美「マキ焚き風呂、最高!こんなの初めて。美夏海のおじいちゃん、明日からは私たちがお風呂当番ね。それにご飯美味しい、味付けはシンプルだけど、自然の素材の味がホント美味しい。」
文教「それではお願いしようかな。まぁ、人間派手を好んでも、結局は素朴でシンプルなものに行き着くものよ。それは武術も同じ。明日から4時起きで稽古をつけるからな。午前中、稽古。午後はワシも壇家参りとかあるので、付き合っていられんが、お前たちは、勉強するなり、海に行くなり好きにせいっ。ここら辺は、温泉が豊富でな。たまには、皆で温泉を巡ってみようかね。」
冬美「わぁ、美夏海のおじいちゃん、有難う。なんだか楽しい1か月になりそう。私にも稽古つけてね。」
文教「一々美夏海のおじいちゃんでは、何とのう、おかしいのう。他の呼び方出来んかな。文教でも良いぞ。」
冬美「ん~っ。。それじゃぁ、文教じい!」
美夏海「それいいね!」
文教「ん~、まぁ、いいか。今日は早くお休み。明日から早いぞ。」
布団の中の二人:
冬美「田舎って、凄い静かなのかな、っと思っていたけど、カエルの鳴き声凄いうるさいね。まるで田んぼ全体が唸っているみたい。」
美夏海「そう、意外と色々な音が聞こえるよ。夏はカエルがメインだけど、秋は虫の音や獣の鳴き声、冬は、雪の音。春は、草木の芽生える音。」
冬美「雪って、音するの?草木の芽生える音って何?」
美夏海「雪の音は、静かだけど、耳を澄ましていると確かに聞こえるのよ。草木の音も同じ。兎に角今度聴いてみて。」
冬美「それじゃぁ、後少なくても、春夏秋冬、最低四回来ないとダメじゃない。そんなに来てもいいの?」
美夏海「お好きなだけどうぞ。明日早いから早く寝よぉ。」
稽古初日、本堂横の稽古場:
文教「今日は、初日じゃからのう、簡単にわしの武術を説明しておく。概要については美夏海は既に知っておるが、冬美さんは初めてじゃからな。そのあと、具体的な稽古から始めよう。今日は、まぁ、準備運動程度にしておいて、本格的な稽古は、明日からとしよう。稽古の概要を先ず最初に話しておく。
わしは、昔から色々な流派の武術の特徴に興味があって、其々を学んできた。そしてワシが、其々の流派の良い所と思ったところだけを抽出したので、ワシのはある意味我流じゃ。じゃが、特に新陰流の思想がわしのしょうに合っているというか、理にかなっておるので、新陰流の要素が濃い。他にも宮本武蔵の二天一流とか、薩摩の示現流、小太刀の中条流、等も学んだので、それらの要素もいくらか混ざっておる。特に示現流のトンボの構えは、素振りの練習に丁度良い。
新陰流の祖、上泉伊勢守信綱は、最初神道流を極めたが、その後愛洲移香斎から陰流を伝授された。この陰流に伊勢守が工夫を加えて、新陰流となったのじゃ。よく世間に知られている柳生新陰流は、この伊勢守の新陰流を柳生が受け継いだから、柳生新陰流となったのじゃ。そして、この陰流には、体術の要素が多く含まれていて、その陰流に工夫を凝らした新陰流には、剣術に体術がよくアレンジされているものと考えればよい。体術とは、そう、今でいう所の合気道みたいなものをイメージすればよい。じゃから、冬美さん、これから行う稽古には、あんたの柔道に役立つ要素がたくさん含まれておるはずじゃ。新陰流を学ぶことで、あんたの柔道にも必ず役に立つはずじゃ。この体術があってこそ、新陰流の神髄、「無刀」を為し得るのじゃよ。」
早くも聞き疲れ始めてきた冬美、欠伸をかみ殺している様子。美南海は、いつもの事と澄まして、聞いている様ないない様な。
眠気を逸らそうと思ったのか冬美が文教の講釈にちゃちゃを入れる。
冬美「ねぇ、文じいぃ、「無糖」って甘くないの?」
話の腰を折られた態の文教だが、別に気を悪くする風でもなく、冬美に丁寧に説明を続ける。
文教「そっちの「無糖」ではない。「無い刀」と書いて、「無刀」と読む。「無刀」とは、いわゆる世間でいう「真剣白羽取り」の様な刀を持たずに戦う事全般を言うのじゃ。しかし、「無刀」の真の意味、思想と言い換えても良いが。「無刀」が真に目指す所とは「争わず」という事じゃ。言い方を変えれば、相手を傷つけず、自分も傷つけられない、という事じゃ。じゃから、「無刀」の最上は、争わない、又は争いにならない様にする事じゃよ。わしゃ、この思想が好きでな。」
冬美「ふ~ん、戦わなければいいんなら、それって、逃げてもいいの?」
文教「そうじゃよ。もし、相手が戦いを挑んで来た時、「逃げる」という手段も「無刀」の技の一つでもある。誰も傷つけない。逃げるが勝ちともいうしな。無刀の理念にかなっておるよ。」
冬美「う~ん、でもそれって、なんかカッコ悪くない?」
文教「カッコ悪いかどうかは、自分が決める事じゃ。相手がどう思うかは、気にする必要はない。」
冬美「まぁ、そうだけどぉ」
文教の講釈は続く。
文教「とはいえ、逃げたくても逃げ道がない場合もある。また、こちらが、争いたくなくても、相手が切りかかってくる場合、その時、武器を持っていれば、その武器で戦い、相手を傷つけない様に制圧できれば良い。
しかし、武器を持っていなかった時、その対処方法・技を無刀の奥義としている。
じゃから、無刀の技は、護身術にも通じるもので、現代風に言えば、合気道に近いものでもある。
じゃから、柔道でも十分応用が利くのじゃ。」
冬美「ふ~ん、そうなんだ。「無刀の神髄は争わない」事なんだぁ。じゃぁ、新陰流は、平和の剣法なんだね。何だか今の日本国憲法みたい。」
文教「冬美さん、うまい事言うえねぇ。しかし、憲法第9条では、「無刀」は実現できんじゃろう。単に戦わないだけで、相手の攻撃を防ぐ手立てを講じなければ、己は傷つけられてしまうじゃろ。「無刀」は争わない、という思想だけでなく、傷つけられない工夫・技を以って初めて達成できる。日本国憲法は、まだまだその辺の工夫は必要じゃな。まぁ話が横道に逸れ過ぎないうちに、そろそろ稽古を始めるとしようか。」
美夏海。冬美「は~い!」
文教「では、美夏海。お前から始めよう。冬美さん、あんたは見ていなさい。観るという事も稽古じゃ。美夏海、先ず型をみよう。構えてみよ。」
美夏海「はい」
木刀を右手に持ち、すっと立ち上がる美夏海。文教の真正面、約5m程、離れた位置に前に立つ。
ゆっくりと正眼に木刀を構える。しばらく、その体勢のまま動かない。いや、極々小刻みに体が揺れている。拍子を計っているようにも見える。身体には力みは入っていない。眼は文教を視ているようで、少し虚ろで、目線が宙を泳いでいるようにも見える。
その様子をしばらく見ていた文教
「雅の元に行っても、稽古は絶やさなかったようだな。また一段と上達しておる。」
「次、型稽古はじめっ。」
美夏海は木刀を正眼から上段に上げ、静かに型稽古を始めた。型稽古は一見すると、剣の演武の様に見える。ゆっくりとしたたおやかな動き。しかし、木刀を振り抜く刹那、鋭い風きり音が聞こえてくる。凄い集中力。木刀を振り抜いた後も、動きが止まる事はない。直ぐに次の型に移行する。その動きに切れ目はなく、実にしなやかな動きである。
冬美(そういえば、美夏海とは長いけど、美夏海の稽古は初めて見たなぁ。これじゃぁ、私の技がなかなか決まらないのも納得かな。はぁ~。)
文教「結構。体裁きの中にも、人中路は外れていないようじゃ。良くここまで来たな。目録を後でやろうかぃ。」
美夏海「えぇ~、本当ぉ、やったね!」
冬美「えっ?何々?」
美夏海「おじいちゃんから、お墨付きもらっちゃった。これって凄いんだから」
冬美「へぇ~、そうなんだぁ」
文教「こら美夏海、目録で終いじゃないんだから、まだまだ終わりじゃないぞ」
美夏海「わかってるわよ。おじいちゃん。修行に終わりはないんでしょ」
文教「そうじゃぁ」
引き続き。
文教「さて、今度は一つわしとやろう。」
美夏海「はいっ」
文教が木刀を持って、徐に立ち上がり、美夏海に相対する。また正眼の構えに戻る美夏海。対する文教は、木刀を右片手にぶら下げ持ったまま、構えもない。ただ、気持ち身体が揺らいでいるように見える。そのままの対峙が、続く。その間にも二人の立ち位置は変わらない。御互いが拍子を合わせているようだ。美夏海は正眼の構えのままだが、文教はたまに体を入れ替えたり、木刀の持ち方を変えたりしている。美夏海も正眼の構えは変わらないが、微妙に体が揺れている。かれこれ、二人の対峙が30分にもなろうとしているが、見ている冬美も真剣だ。
冬美(凄い。二人の打ち込みが見える様。)
不意に、文教が間を外した。それを合図に二人の対峙は終わり、美夏海も構えを解き、大きく深呼吸をした。同時に美夏海の顔面から大量の汗が噴き出る。
文教「退屈したかね。冬美さん。」
冬美「ううん、二人とも凄い打ち合いが眼に見えてた。手に汗握るって、こういう事言うのかしら。」
文教「ほう、冬美さんには見えていたかね。そう、これは、今風にいうと、一種のイメージトレーニングじゃ。しかし、一人のイメージトレーニングとは違う。二人が同じイメージでトレーニングしているようなもんじゃ。言い換えれば、プロの将棋指し同士が、数十手先を読みながら、対戦しているようなもんじゃ。ある程度の高みに達した者同士でなければ、この様なイメージトレーニングはできん。」
美夏海「おじいちゃんにはやっぱりまだまだ敵わないわ。」
文教「何を言っておる。お前もなかなか上達したではないか。」
美夏海「だって、おじいちゃん、全然汗かいてないでしょう。私なんか汗びっしょり。」
冬美「あれ、ほんとだ。でも立会中は美夏海汗なんか、かいていなかったよ。」
美夏海「緊張が解けたから。立会中は、ホントに一瞬たりとも息抜けない。少しでも集中力なくしたら、おじいちゃんにすかさず打ち込まれていたもん。後あの立ち合いが30分も続いていたら、もう集中力切れてた。おじいちゃんはなんであんなに集中力続くの?」
文教「おじいちゃんはこの年じゃぞ。そんなに集中力が続くわけがなかろう。適当に息抜かなければ、美夏海とあんなに続くわけがない。」
美夏海「えぇ~。おじいちゃん、いつ息抜いてたの?そんなの全然わからなかった。」
文教「拍子、拍子の合間に一息入れていたんじゃよ。」
美夏海「え?、どういう事?」
文教「例えると、心臓じゃな。動物が生きている限り、その者の心臓は休むことなく動いていると思っているじゃろ。実は違うんじゃ、心臓も休んでいるんじゃ。いつ休んでいるかというと、血液を送り出す為に収縮した後、緊張を解くじゃろ。その一瞬に休んでおる。つまり一回鼓動する毎に一回休んでおるんじゃ。」
美夏海、冬美「へぇ~。そうなんだ。」
文教「拍子、拍子の合間のほんの一瞬ではあるが、休みを入れると集中力が途切れず、疲れない。じゃから、何時間でも立ち会っていられんるんじゃ。ワシもまだまだじゃが、これに更に磨きをかければ、集中していることさえ意識しなくてもいられるようになるはずじゃ。残念ながらわしはまだその高みにまでは達しておらんがな。美夏海、これは大事な事じゃ。こればっかりは自身、修練を重ねていく事で体得するしかない。奥義とか習得方法とかはない。励みなさい。」
美夏海「はい。」
文教「さて、冬美さん。次はお前さんの番じゃ。お前さんとは、素手で、立ち会おうかの。じゃが、その前に、少し一息入れさせておくれ。それから立ち会おう。冬美さん、水を一杯汲んできてくれんか。」
美夏海「私が汲んでくる。私もすごく喉乾いた。」
冬美「えっ、私にも稽古つけてくれるの。文教じい、凄い。美夏海、私もいく。」
5分後、道場の一角:
冬美「水道の水なのに、凄くおいしいね。」
美夏海「蛇口から汲んではいるけど、これ水道水じゃないよ。井戸水だよ。」
文教「そう、この水は、この寺の裏の山、約20m位登った所の斜面にある井戸の水をホースで寺まで引いてきてそれを蛇口につなげているだけじゃ。ポンプも使っていない。自由落下で水を蛇口から出しておる。」
冬美「電気も使わない。水道代もない。エコだね。」
文教「じゃが、たまに、森の獣がホースに足を引っかけるのか、ホースが外れてしまって、断水してしまう事がある。その度にホースを元に戻さなければならんのじゃ。それが玉に瑕じゃな。夜だったりするとホースを元に戻す作業はできないので、必ず毎日、ポットに水を貯めておくようにしておる。」
文教「さて、一息ついた。冬美さん、始めるかな。」
冬美「はいっ」
立ち上がり、自然体で冬美の前に出る文教。
文教「さぁ、何処からでも良いぞ」
同じく立ち上がる冬美。文教を前にして柔道の稽古の様に一礼し、身構える。
冬美(隙ないしぃ~。どうすればいいのよ。こんな相手今までいなかったよぉ~。)
しばらく、対峙していた二人。
文教「どうした。かかってこんのか。それともイメージトレーニングしておるのか。ワシには一向に伝わってこんぞ。それでは、わしの方から仕掛けようか。」
冬美「あ~っ、ちょっと、ちょっと待ってぇ~、」
いつになく、慌てる冬美。それを見た美夏海、思わず、ぷっ、笑みが、、
美夏海(珍しく、冬美が慌ててるゎぁ)
それを見咎めた冬美「美夏海!何、ニヤついてるのよっ!」
美夏海「別にぃ」
文教「では、行くぞ」
冬美「ちょっと、待って、私から行くっ」
深呼吸、(もうなるようになれっ)
右から廻り込んでいく冬美。文教から見て左側。一瞬、隙を作る文教。冬美(今だ!)すかさず文教の内懐を取りに行く冬美。
冬美(いける!)と思った次の刹那、道場の床の上に仰向けに転がる冬美。
冬美(えっ?)何が起きたのか理解できない冬美。
冬美「え、え、何、何?やだ~、何~もう訳わかんない」
文教「冬美さん、あんた自分から転がっていったんじゃよ。ワシはあんたの転がる手助けをしただけじゃ。そう、あんたは転がりたがっていたからのう。」
冬美「えっ、私転がりたがっていないもん。なんでぇ、」
文教「正確に言うと、あんたの体勢が転がりたがっていたんじゃ。ワシはあんたのタイ(体)を読んだだけじゃ」
冬美「タイを読む?」
文教「そうじゃ、あんたの姿勢が人中路を外れた隙を突いただけじゃ」
冬美「よくわからないけど、私にもそのタイを読めるようになる?」
文教「勿論、あんたは筋がよさそうじゃ。この夏、稽古に励めばな。」
冬美「よ~し、やったるぞぉ」
こうして、美夏海と冬美の今年の夏が始まった。
美夏海達夏休み中、一方の雅。AIプログラミング中のマンションの一室:
4台のディスプレイが並んでいるデスク。その横には、タワータイプのサーバーの内蔵ファンが唸りをあげている。部屋はガンガンにエアコンをかけてはいるが、PCからの排熱の為、余り冷房は利いていない。ディスプレイを睨んでいた雅は、ふ~っと一息吐き、ゲームチェアの背もたれに体を預ける。サイドテーブルの上にあるビールグラスを持ち上げると、ぬるくなったビールを一口含む。
雅「う~ん、やっぱりDをフォンノイマンタイプのマシン上で動かす事自体、土台無理だよなぁ。しかし、ネットワーク上でデバッグ無しでいきなり動かすわけにもいかない。やっぱり、エミュレーター作るしかないか。ネットワークにこれのエミュレーター落ちてないかなぁ?」
雅「ある訳ないよなぁ。仕方ない、一から作るかなぁ。」
マウスを無意味にこねくり回しながら、
雅「今頃、美夏海達は、じいちゃんに稽古つけてもらっているんだろうなぁ。さて、こちらもやってしまうか」
雅が開発中のAI(開発コードD)は、近い将来量子コンピューターが実用レベルに達した時のことを見越して開発中のAIである。現在主流のフォンノイマン型コンピューターは、2進法をベースに、メモリーと命令語をデータセットにして動作させている。一方、量子コンピューターは、2進法ではなく、中間ビットも利用できる3進法、4進法以上で動作する可能性があり、更には、ニューラルネットワークになる可能性もある。その様なハードウエア環境でのOS開発は、現在の2進法ベースでの開発に比べ、遥かに複雑になってしまう。もはや人間の理解の限界を超えてしまうかもしれない。そこで雅が考案したのが、複雑なハードウエア環境下にあってもOSというプラットフォームを自らデザインできるAIの開発である。即ちアプリケーションソフトウエアが動作できる環境を提供するプラットホームであるOSを2進法より複雑なハードウエア環境でもデザインできるAIを開発するというものである。ハードウエア環境がより複雑になる環境でもOSをデザインできるAIとは、もはや人間の手によらず、自らがそのハードウエア環境に合わせて変化できなくては、OSデザインなどは不可能である。そして、それは自らのアルゴリズムを改変できなければならない様なAIでなければ、高次ビット上でのOSデザインなど不可能であろう。
そこで、雅が考え出した思想が、自らのアルゴリズムを書き換えできる、改編できるAIというコンセプトである。この雅が提唱するアルゴリズム自己改編型AIには、アルゴリズム改編が暴走しないか、というリスクが生じる。そのリスクをどうやって回避するか、が問題となり、雅の所属する部署では現在雅のアイデアは限りなく却下に近い保留状態になっている。
雅は、そのリスクを十分に考慮した上で、それを回避できるという自信もあり、現在自宅のPCを駆使し、企業のリソースを頼らずにAI開発を個人で行っている。
雅のAI開発は今まさに始まったばかりである。
回想:
雅の上司「柳。お前の考えている「自己改編型AI」なぁ、構想は面白い。だが、リスクもあるぞ。自己改編が暴走したらどうなる。また、OSというプラットホームにも依存しないという事は、万一、軍事転用された場合、非常に大きな脅威になるぞ。コンピューターウイルスの比ではない。プラットホームに依存しないから、どこにでも侵入できるし、兵器システムのコントロールを乗っ取る事も容易になるだろう。これは、核兵器以上の兵器と化す恐れがある。」
「あまり構想を公にしないほうがいいぞ。誰がお前に興味持ちだすかわからない。まぁ、それも杞憂かな。そんなもん、構想倒れに終わるだろうからな。」
雅「はい、まだコンセプトの段階ですから、実際できるかどうか、僕にもわかりません。趣味で終わるかもしれませんが、もう少し突っ込んでみようと思います。」
上司「わかった。まぁ、思うようにやってみろ。業務に支障の来さない範囲で頼むぞ。お前の担当業務も優先度高いんだからな。」
雅「はい」(勝算はあるんだ。リソースの点を除けば、一人でもできる自信はある。社内でのコンセンサスが取れなければ、一人でもやってやる。むしろ、一人のほうがいいかもしれない。)
ちょい悪神主:
美夏海達が、清源寺に来て、一週間ほど、過ぎた頃。
禊「お~い、美夏海、いるかぁ。」
美夏海の叔父、美夏海の母親の弟である禊が清源寺にやってきた。
文教「禊、こんな時間になんだ。お前、ちゃんと、修行しとるのか。まだ釣りをしとると聞くぞ。神事に仕える者が殺生してよいのか。」
禊「釣り上げた魚は、ちゃんと祝詞を挙げて、禊をしてるよ。人間も含め、生きとし生けるものは全て、生き物を喰らって自分の生を維持しなければならない罪深い者なんだから。釣りも必要最低限の魚だけ釣って、ちゃんと全て余さず頂いております。」
文教「ふん、へ理屈ばかり、上手くなりおって。たまにはここに稽古に来い。」
禊「へいへい。それより今日は美夏海達もそろそろ退屈してきただろうと思って、息抜きにつれってやろうと思ってね。」
文教「まぁ、それもたまにはよかろう。」
美夏海「禊のお兄ちゃん、久しぶり。元気してた。まだ神主の修行終わってないの?相変わらず、釣りにサーフィンにはまってるの?生臭ね。冬美、こっちが私のお父さんの弟で、柳禊のお兄ちゃん。お父さんの弟なので、ほんとはおじちゃんなんだけど、雅のお兄ちゃんとも年が近いので、私はお兄ちゃんと呼んでるけどね。神主の見習い。おじいちゃんに愛想つかされて、隣街にある神社に養子に出されちゃったの。遊びにかけては、ピカ一。サーフィンなんか、プロの資格まで持ってるのよ。でも修行には全然身が入ってないみたい。毎日の様に、SNSに釣り上げた魚の写真上げてるようだし。」
禊「おいおい、美南海までそんなこと言うなよ。まるで俺は遊び人みたいじゃないか。初対面の人にそんな紹介の仕方あるかぁ?」
美南海「もう、いいじゃない。今更気取らなくたって。どうせ、直ぐわかる事だし。」
禊「あのなぁ・・」と言いつのろうとする禊の言葉を無視するように遮る美南海。
、
美南海「それより、お兄ちゃん、こっちが私の親友で冬美。普段は可愛い声出しているけど、怒らせると怖いよ。大概の男の人でもこの子にかかったら、簡単に投げ飛ばされちゃう。」
冬美「美夏海! あんた禊さんの前で、なんて紹介の仕方するのよ。まるで私が鬼みたいな。禊さんも起こって当たり前よ。」
とくるりと美南海をにらんでいた顔を、禊の方へ向きを変え、
冬美「初めまして、冬美です。禊のお兄さんの話は美夏海からよく聞いています。今度文教じいの所に夏休みの間お世話になりに来ました。よろしくお願いします。」
美南海に対してとは違った裏返ったような声で、禊に挨拶をする冬美。
美夏海「この猫なで声が要注意。」
冬美「うるさい!」
禊「あんたが、冬美ちゃんか。美夏海から聞いているよ。美夏海が雅の所に行ってから、向うでやたら気の合う友達ができたって。美夏海が楽しそうに話してくれたよ。美夏海の親友なら、俺にとっても可愛い妹みたいなもんだ。こっちに折角来たんだ。田舎で何もない所だけど、自然だけは多い。近くに世界遺産の銀山もあるし、行きたい所があったら、何でも言ってくれ。どこでも連れて行ってあげるから。」
冬美「ありがとうございます。」
禊「美夏海、早速だけど、毎日稽古と夏休みの宿題ばかりじゃ飽きてきただろ。今日は何処か好きな所に連れてってやろうと思って来たんだけど、どこか行きたいところあるか?」
美夏海「うれしい。久しぶりに石見の銀山とか三瓶山にハイキングもいいけど、冬美もいるし、、、それじゃぁ、泳ぎに行きたいな。畳ヶ浦か鳴き砂のある琴ヶ浜海岸がいいかな。いいでしょ。おじいちゃん?」
文教「あぁ、構わんよ。」
美夏海「やった!じゃぁ、もうじきお昼だし、お昼ご飯食べてから、午後お兄ちゃん連れてって。これから私と冬美でお昼ご飯作るから、お兄ちゃんも食べるでしょ。」
禊「あぁ、美夏海たちが作るのか、それじゃ、ごちそうになろうかな。同じ食材でも親父の作る飯より美夏海の飯はうまいからな。」
文教「どうせ、わしのは精進料理じゃ。」
禊「ものは言いようだね。猫飯も見ようによっては精進料理か」
文教の眼が不意に鋭くなる。
文教「お前、ちょっと道場で鍛えて欲しいようだな」
それを鋭く見逃さずに見た禊は、
禊「あっ、ちょっとたんま!今の無し。」
あわてて後ずさる。そのやり取りを見ていた冬美は、
冬美「禊のお兄さん、面白い!」
食事を済ませ、禊の車に乗る美夏海と冬美:
真っ赤なワゴンタイプのBMW。あまり神主さんが乗るようなタイプの車とは言えない。
美夏海「お兄ちゃん、相変わらず派手な車好きね。」
禊「まぁ、ここら辺では少し目立つかな。でもこれでないと、(サーフ)ボードが載らないんだよ。」
美夏海「相変わらずね。」
冬美「でも、かっこよくていいじゃない。私はいいと思うけど。」
美夏海「そのうちわかるわ。」
禊「さて、どこにしようか。琴ヶ浜もいいけど、畳ヶ浦のほうまで、少し足を延ばすか。」
美夏海「お兄ちゃんに任す。」
清源寺前の山間の道から、国道9号線に出る。片側1車線の国道ではあるが、交通量が少ないせいか、意外と軽快に運転できる。ついつい車速が上がるBMW。
美夏海「お兄ちゃん、スピード出し過ぎると、また捕まるわよ。神主が、スピード違反なんてシャレにならないでしょ。」
禊「大丈夫、そんなに出していないよ。最近は安全運転。」
冬美「いいなぁ、海沿いで景色もいいし。うわ、あれなあに、大きな風車。」
禊「うん、ここら辺はいい風吹くから、風力発電してるんだろうな。」
そういう話をしながら、9号線をしばらくBMWを流していく。すると、トンネルに入る直前にBMWが左コーナーに進入しようとし始めたのにもかかわらず、右側反対車線から、強引に追い抜いていく白いシビックR。追越しざまに、3人の若い男の乗っているのが垣間見える。
禊「無茶しやがるなぁ。もっと見通しのいい場所で追越しすればいいものを。」
禊「最近、ここら辺でも夏とかのシーズンになると広島側から、威勢のいい兄ちゃんとかが、ナンパ目的とかで結構来るようになったんだよね。こんな田舎でも」
畳ヶ浦近くの砂浜:
禊「二人とも色気ないなぁ。今時、海でスクール水着かよ。もっと、ビキニとか、せめてワンピースとかにしないのかよ。」
美夏海「いいの。それともそんなに私達の理想的なボディみたいの。」
禊「そうじゃぁないけど、年頃なんだから、もう少しファッションとか流行とかに、興味持ってもいいんじゃないかな、と思っているだけ。少しは異性を気にしたらどうなんだよ。」
美夏海「別に、気にしない。今は、毎日の鍛錬が面白い。今日もその束の間の息抜きが出来れば、それで十分。今のところ、男に興味なし。」
冬美「そうそう、それに私の理想の男性は、私より強くて、やさしく抱擁してくれる人でなくっちゃ。」
美夏海「冬美より強い男なんて、この世に存在しないわよ。」
冬美「なにっ!」
と言いつつ、二人で無邪気に追いかけっこを始める二人。波打ち際で戯れ始める二人。
禊「いまだ、花より団子か」
サングラスをかけ直し、仰向けに横になる。
禊が、波打ち際で、無邪気に戯れる美夏海をぼんやり見つめながら、12年前のことが、ついこの間の事の様に、禊の脳裏によみがえってくる。
禊「親父!、どうなってんだよ!姉貴と義兄さんは?!雅と美夏海は?」
そう禊が駆け込んできた病院の一室は、既に息の無い男女2体の遺体が、安置されている部屋、霊安室である。
遺体の傍らに、立っている文教の隣には見知らぬ男が一人立っている。
文教の眼には、怒りとも後悔とも判別のつかない色が浮かぶ。
文教「この人は警察の方だ。この人の話では事故だそうじゃ。ハンドルを切り損ね、カーブを曲がり切れず、ガードレールを突き破って、断崖から30m下へ落下したそうじゃ。」
禊「嘘だろ!真一兄さんが、運転してたんだろ。そんなミスするはずねぇよ。神岡ターンできる義兄さんがそんなへまなんかしないよ!何かの間違いだ!くそっ」壁を叩く禊。
思い出したように、禊「そうだ。雅と美夏海は?」
文教「4階のナースコールセンターにおる。ワシはこの人と話がある。雅と美夏海が心配じゃ。お前は先に雅たちの所に行っていてくれ。」
何も言わず、部屋を飛び出す禊。エレベーターが地階に降りてくるのを待つことがもどかしい。エレベーターの扉が開くと同時に飛び乗る禊。4階に到着したエレベータの扉が開くのももどかしく、開ききる前に、エレベーターから飛び出す禊。
ナースコールセンター前。
若い看護師さんに相手をされて無邪気に遊ぶ3歳の美夏海。ただ、時折、不安そうな、無表情な、顔をみせる美夏海。
その隣で、両手を拳に、ただ前をひたすら睨み続ける雅。必死に涙を堪えようと口を堅く結ぶ雅。口元から今にも血がにじんできそうである。
禊「雅、話は聞いたか?」全身を震えさせながら、頷く雅。
禊「しっかりしろよ。親父と俺が必ずお前たちを守るから、お前達は自分の事だけを考えていればいいから。」
霊安室:
あまりの突然の事に、事情も何も分からず、病院に駆け付けた文教。普段の僧侶としての冷静さを失いかける文教は思わず、声を荒げてしまう。
文教「後藤っ、これはどういう事じゃ!夏海と真一君に何があったのじゃ。」
後藤「柳先生、申し訳ありません。これは我々の落ち度です。もう少し監視をしっかりしていれば...本当に申し訳ありません。ただ、相手もこの様な状況は想定外だったようです。あくまでも真一さんの身柄確保が目的だったようで、このような事態になり、相手にも混乱が生じているようです。」
文教「相手? 何のことじゃ、それに何故東京にいるはずのお前さんが、こんなところに来ている。順を追って話さんか!」
後藤は、警察官だが、ただの警察ではない。公安警察官だ。
すこし話を戻して、説明しなければならない。
柳文教は、元々は、分子生物学者であった。生命の神秘に惹かれ、その一端を知りたいという好奇心から、生物の分野を我が生涯の職業と一度は選んだ。一方、学生時代から同様に生命の神秘性から、古武道を趣味として修行していた。つまり、生命を分子生物学という物質科学的観点から検証し、武道という精神性的観点からも理解・検証しようとしていた。
そして、古武道を学ぶ過程で、仏教に触れるに至り、いよいよ物質科学の限界を感じるようになっていた。
柳真一は、文教の分子生物学者としての愛弟子である。文教の娘夏海と知り合い、結婚し、柳家へ養子として入っていた。
真一も優秀な分子生物学者で、再生医療への道を分子生物学に見出そうとしていた。当時ヒトの遺伝子は、100%%解読されていたが、人としての関係のある遺伝子は、3%ほどで残り97%はどんな役割なのか不明であったため、ジャンク(ごみ)と呼ばれ、その存在そのものは意味のないものとして扱われ、ほとんど研究対象とされていなかった。
しかし、文教と真一は、意味の無いモノなど存在しないという思想の元、ジャンクDNAの研究も合わせて続けていた。
人は、卵子が受精し、受精卵となった後、約10か月の歳月をかけて細胞分裂を繰り返し、子宮内で育ち、そして人として世に出る。細胞分裂を繰り返す過程で、人は地球に生物が誕生してから進化していった過程を経験する。魚の形態を経験し、恐竜の形態を経験し、その後生物が地球に存在していたあらゆる形態を経験したのちに、人として誕生する。
真一は、ジャンクと呼ばれる遺伝子はもしかしたら、その順番を記憶している遺伝子群で、ある何かの基準に従い、順番に遺伝子のスイッチがONになり、またはONになっては、OFFFになっていくのを繰り返しているではないのだろうかという仮説を立てた。
例えて言えば、遺伝子は、ピアノの鍵盤である。鍵盤はたくさんあり、その鍵盤をたたくと音を奏でる。しかし、無秩序に鍵盤を叩いてもただ意味の無い音が奏でられるだけである。しかし、ある順番・タイミング・強度で鍵盤が叩かれていくのであれば、それは音楽と呼ばれる旋律になるのではないだろうか。
遺伝子も鍵盤と同じで、ある一定の秩序に従い、遺伝子のON/OFFがあるのであれば、それは意味のある遺伝子となり、何か意味のある何者かに変化していくのではないだろうか。ある時は、魚になり、ある時は恐竜になるように。または心臓ほかの臓器になるのではないだろうか、と。
ヒトの遺伝子は、生物が30億年かけて蓄えた記憶・設計図であると。
或る時、真一は、研究室で、その自分の考え・仮説を師匠である文教に説明した。
研究の袋小路に入っていた文教にとって、真一の仮説は、何か琴線に触れるものがあったようだった。話を聞いていた文教は、何かを思い出した様に目を見開き、その次に、顔色を変え、考え込むように黙り込んだ。
それからしばらくして、文教は研究室を去った。真一には、何も語らず。
文教はしばらくは、家族になった真一達と共に暮らしていたが、出家した。出家後は、修行僧として、日本中の寺をまわる修行と、僧侶と武道の修行の両方を兼ねて、大陸に渡る修行生活が始まった。日本と大陸を行き来する修行は、およそ10年にも及んだ。文教なりに得度し、日本に戻った文教は、今の寺清源寺の住職として落ち着いた。
その間、真一・夏美夫婦は、長男・雅、長女・美南海を授かり、4人家族となっていた。
一方、公安警察との関わりは、文教が、清源寺に落ち着いてからの事になる。
大陸での修行の結果、武道において其れなりの高みに達していた文教は、時に警察から、武道の指導を要請されることが度々あり、広島の江田島警察に度々指導に出向いていた。文教の噂を聞いた各方面の警察官が、文教の指導を仰ぎに、わざわざ広島まで出張してくる警察官が多数いた。
後藤は、その警察官達の中の一人であり、現在は武道の弟子の一人である。
真一は、文教が研究室を去った後も研究室に残り、研究を続けていた。
事故は、そんな平穏な日常の中、真一の家族4人が日本に落ち着いた文教に会う為、清源寺に来ていた最中、突然起きた。
我を忘れかけていた己に気づき、自嘲するように(修行したつもりじゃったが、まだまだじゃな、わしも)と自重しつつ、
文教「すまん、後藤、つい我を忘れてしもうた。」
語気を強めてしまったことを詫びる文教。文教の心情を察する後藤は寡黙する。
冷静を取り戻し、改めて問いかける。
文教「おぬしがここにおるという事は、単なる事故ではなさそうだな。改めて、分かっていることを順を追って説明してくれんか。」
後藤「・・・」
話すことの内容を整理していると思われる後藤の説明を辛抱強く待っている文教。
後藤「本来であれば、機密事項になりますので、一般の方にはお話しできることではないのですが、以前先生も真一さんと同じ研究をされていましたし、先生にも何か思い当たることもあるかもしれませんので、差し障りのない範囲でお話致します。」
後藤「これはまだ我々も全容を把握しているわけではありませんが、ある団体、、、正直に申しましょう、ある「組織」が真一さんの研究に興味を持った形跡があります。その組織が、研究成果を奪取乃至は、真一さん自身を拉致しようとした結果、想定外の事故が起きてしまったと考えています。」
文教「う~ん」と言って、うつむき黙り込む文教。
それを見ていた後藤「お心当たりが。」
文教「真一君は、研究室を離れたわしには、もはや詳細は話してくれんかった。しかし、断片的な話から、少し思い当たる節もないではない。」
文教「組織というのは、軍じゃな。」
後藤「はい、その通りです。しかし、今はある組織としか申し上げられません。」
文教「彼の研究は再生医療に関する研究じゃぞ。それを何故軍が興味を持つ。」
後藤「我々にはわかりません。ですが、今、先生は、「軍」とおっしゃいました。何か、お心当たりがあるのではございませんか。」
文教「・・・」辛抱強く次を待つ後藤。
文教「遺伝子というのはなぁ、端的に言ってしまえば、たんぱく質合成の設計図なんじゃよ。」
唐突に遺伝子という言葉が文教の口から出たが、それに怪訝を覚える風でもない後藤。むしろ想定したように顔を文教に向き直す後藤。
文教「そして、その一つ一つのたんぱく質が其々様々な機能を担っておるが、それだけでなく、其々が連携乃至順番に機能する事で、複合的な機能・役割を果しておる。それこそ、人が想像し得る限界を超えてな。そして、病気というのは、その本来機能する筈のたんぱく質が、正常に機能しなかったり、順番通りに発現・機能しなかったりする為に起こっているとわしも真一君も考えておる。そして、それが病気のただ一つの理由と言っても過言ではないかとかんがえておる。であるならば、それらを正常に戻すことで、全ての病気を治す事ができるのではないか、と考えた。但し、この無限ともいえる組合せと機能の確認は、何処から手を付けて良いものか、当初は途方にくれておったよ。無謀な試みではないかと思っておったよ。」
後藤「難しい事は私には解りかねますが、そういう事が再生医療と言われている事なんですね。」
文教「まぁ、そんなもんじゃ。わしはそれを途中でギブアップしてしまったが、真一君は、辛抱強く一つ一つの病気のメカニズム解明の研究を続けておった訳じゃ。」
後藤「では先生は何故、途中でギブアップを? 複雑過ぎて面倒になった等という理由は、およそ先生の御性格から私には考えられませんが。研究をやめられた理由がおありなんですね。」
文教「これはあくまでも仮説じゃよ。仮説というよりはもはや空想じゃな。たんぱく質は万能じゃよ。原理的にはなんでも可能じゃ。病気を治す事は勿論。人体改造も原理的にはできる。不老、不死、強化なんでもな。もし、それらのメカニズムを解明出来たらな、という前提じゃが。」
後藤「もし、その組織が真一さんの研究成果の何処かに、例えば生物兵器の可能性のある部分、に興味を持ったとしたら。」
文教「わしも想像してみたのじゃが、現実的には、荒唐無稽じゃ。たんぱく質の種類、組合せ、順番等を考えたら、どれだけの組合せがあるか。もし仮にあったとして、いや恐らくあるんじゃろう。しかし、生物が30億年かけて蓄積してきた情報を、人間の浅知恵で簡単に解明できるわけがない。それこそ仏様のみが知ること、じゃ。」
後藤「しかし、組織が、真一さんに接触を試みた事は、まぎれもない事実です。」
文教「・・・」
姿勢を改め、文教に向かう後藤。
後藤「先生、この度の事故につきましては、県警が原因究明にあたります。事故に人為的誘発性があったかも含め。ご家族のこの様な状況中、示唆ある御教授頂き、ありがとうございます。先生の御心中もご察しせず、申し訳ございませんでした。」
文教「残された孫二人・・・」
12年前の霊安室での文教と後藤のこの様なやり取りを禊は知らない。
今15歳になった美夏海と、12年前、当時3歳で無邪気に看護師さんにあやされていた美夏海の面影を重ね、美夏海、冬美の二人を見守っている禊。
しばらく眺めていると、3人組のいかにもヤンキー風な男たちが美夏海達に近付いて行く。
「よぉ、あの二人組、なかなかかわいいじゃん。声かけてみるか。」
「やめとけ、確かにルックスはまあまあだけど、スクール水着だぞ。ダサァ。もっとあか抜けたの探そ。それに俺たち3人だし、3人組がいいだろ。」
外見だけで判断される美夏海達。最もそんなことには気にもかけない美夏海達であった。
次なる獲物を見つけた3人組。可愛いフリルのワンピースの水着、ビキニを着た女の子達、3人組に近づくヤンキー3人組。
女の子3人組にちょっかいを出し始めるヤンキー3人組。
明らかに迷惑オーラを出している女の子達の気を知ってか、知らずか、お構いなしにちょっかいを出し続ける。
禊はその様子を最前より眺めていたが、若い男女のよくある事である。犯罪に及ぶことがない限りは、見て見ぬふりをしていた。
しかし、美夏海達は違った。執拗なちょっかいに気が障ったのか、正義感なのか、冬美が割り込んだ。
冬美「ちょっとぉ、あんた達、いい加減にしたら。彼女達、明確に嫌がってるよ。男は引き際が肝心なんじゃないの?」
ヤンキー「ふるせぇ、スクール水着のブス。引っ込んでろ!お前等に用はねえの。俺たちはこちらの垢ぬけたお嬢様たちとお話をしているの。田舎娘はあっち行ってろ」
冬美「あんだってぇ。」
一歩、前に進み出て、男の胸ぐらを掴みかける冬美。
身長こそ、男に届かないが、睨み上げる冬美の凄みに男が一瞬たじろぐ。
「やばい、」と思った美夏海が二人の間に割って入る。
美夏海「ねぇ、お兄さん、なんだか彼女たちもちょっと迷惑そうだし、お互い気持ちよく楽しむためにも、ここは引いたらどうかな。」
女の子に、核心突かれて、後に引けなくなったらしく、ヤンキー兄ちゃんいよいよ居丈高になる。
禊(美夏海、ダメだよ。いくら穏やかに言ったとしても女の子にそれ言われたら、男は逃げ道なくなっちゃうじゃん。まぁ美夏海と冬美ちゃんだから、この後の展開がどうなっても大丈夫だろうけど。もうしばらく俺は見て見ぬフリしとこう。)
後に引けなくなったヤンキー兄ちゃん、「この!」と言うなり、冬美に掴みかかろうとした瞬間。
冬美はこの瞬間を待ってましたとばかり、男の右手を捻り上げると同時に右足を思いきり、足払いした。
仰向けに倒れ込んだ男の右腕を冬美は離さないまま、更に捻り上げ、男をうつ伏せにさせる。
ヤンキー兄ちゃん「痛ってぇ。こっらぁ、離せ!」
冬美「まだ、そんな事言えるほど元気があるんだぁ。ならもう一寸絞めても大丈夫ね。」
「うっぅ」
もはや、声も出せなくなってきたヤンキー兄ちゃん。
その男の背中に軽く足を乗せ、右手を捻り上げ続ける冬美に、二人目のヤンキー兄ちゃんが遅いかかる。
美夏海もそこまで行ってしまったら、冬美を手助けするしかなく、冬美に襲い掛かろうとした二人目兄ちゃんの脳天にトンボの構えから、一振り素手で振り落とした。
美夏海にとっては軽い一振りであり、しかも素手だが、脳天に軽く美夏海の手刀を受けた二人目ヤンキー兄ちゃんは、動きが止まってしまった。まるで金縛りにでもあってしまった様に。
3人目のヤンキー兄ちゃん、その光景を見て、躊躇してしまったが、それでも空威張りに、「お前ら、兄貴たちに何をした!」
冬美「見てわからない?技かけたの。あんたもかかる?」
ビビる3人目。美夏海達を前に手が出ない。
禊「やれやれ、そろそろ俺の出番かな。」
うつ伏せになった男の上に片足を乗せたまま、右手を捻り上げ続ける冬美。うつ伏せの男は、「うっ、うっ」という声しか出せず、涙目になっている。
その手前で金縛りの状態の男。この男も口が半開きのままで、自らの意思で口を閉じることもできない様子で、口からはよだれが垂れている。こちらは声も出せない。そしてその横に立って、3人目の男に、平然と対峙している美夏海。
美夏海の表情は、平静そのものだが、美夏海と対峙している3人目は、どうしてよいかわからず、進退窮まった様子で、夏の日の照り返しもあり、額に汗が光る。そこから、少し離れたところで、不安そうに寄りそい、固まっている女の子3人組。
そこへ、サングラスを額に引っ掛けた態の禊がゆっくりと歩み寄る。
禊「兄ちゃん達。もうこの辺で終いにしようよ。みんなで仲良く海辺を楽しもう。美夏海達ももうその辺であんちゃんたち開放してやったらどうだ。」
冬美「私達は元からこんなことするつもりないから。お兄さんがたが、迷惑行為をやめてくれると約束してくれるのなら、別にいいわよ。」
禊「どうぉ?3人の中で唯一口の利けるお兄さん。こちらも警察沙汰にもしたくないし、向うに行ってくれるなら、二人も手を放すって。」
3人目の兄ちゃん「わ、わかった。向う行くから、早く兄貴たちを解放してくれ。」
禊は美夏海達の方に振り返って「だって。美夏海達、放してやってくれ。」
美夏海は素早く、金縛りにあった二人目兄ちゃんの脳天を軽く平手で叩いてやる。次の瞬間もんどりうつ二人目兄ちゃん。
冬美も「あいよ。」という態で、一人目兄ちゃんを解放してやる。
一人目兄ちゃんは、直ぐには立ち上がれず、その場でうつ伏せのまま、ぜいぜい、と言っている。三人目が一人目に手を貸してやり、助け起こす。まだ、声を出せる状態になっていない。
二人目は、しばらく自分の身に何が起こったのか、わからない態で両手を見ていたが、ほかの二人に近づき、そろって、すっかり大人しくなった3人は、大人しく引き下がっていく。
そして、軽く会釈して、美夏海達から遠ざかる女の子3人組。
禊「やれやれ、男にも見栄があるから、後で尾を引くかもしれないから、あまり事を荒立てないでくれよ。お二人さん。」
冬美「だって、ねぇ。。」と美夏海を仰ぎ見る。
美夏海「冬美、手が早いから。止めようと思った時にはもう相手を投げちゃうし。仕方ないから冬美のフォローするしかないしぃ。」
禊「まぁ、済んでしまったことだし。以後は宜しくね。警察沙汰にでもなったら、いくら正当防衛だとはいえ、後が面倒だから。」
冬美「所で、美夏海ぃ。あんたのあの技何?あんたの手刀は素手でも相当痛いけど、さっきのはそんなに強く叩いたようにも見えなかったけど、兄ちゃん動き止めたまま、身動きできなかったみたいだけど。なんかの催眠術?」
美夏海「あれは、おじいちゃんから教わったの。頭蓋骨って、一つの骨ではなくて、いくつかの骨の集合体なの。頭蓋骨の頭頂部は、人が赤ん坊時は、泉門といって、開いていて、大人になると閉まってしまうんだけど、その泉門だった部分にタイミングよく適当な衝撃をを与えると組み合わさっていた骨が緩んでしまうんだって。そうすると、体の自由が利かなくなってしまうんだって。」
冬美「それで、あの人金縛りみたいになっちゃったんだ、ふ~ん。で、それで、どうしたら、その技解けるの?」
美夏海「同じ個所にもう一度衝撃を与えればいいの。」
冬美「そうなんだ。説明聞いていると簡単そうだけど、やっぱりタイミングとか、難しいんだろうね。」
美夏海「うん、昔、禊のお兄ちゃんで試したことあるけど、試したら、おじいちゃんにものすごく怒られた。素人が下手にまねすると、後遺症が残ったり、死に致ることもあるから軽々しくやるなってね。」
冬美「でもなんで、禊のお兄さんで試したの?」
美夏海「どんな理由だったか、もう忘れてしまったけど、お兄ちゃんが私をからかって、私をものすごく怒らせたからだったかな?」
気まずそうな禊。
禊「美夏海、もう昔の話だから、やめとこうゼ。」
美夏海「お兄ちゃん、あの時、何言ったの?」
禊「おれも忘れた。まぁ、いいじゃないか。この話はこれでおしまい。」
冬美「文教じい、私にも教えてくれるかな。」
美夏海「帰ってから、おじいちゃんに聞いてみたら。」
禊「美南海、今だから言うけど、あの後親父感心していたよ。12歳で既にあの大東流合気柔術の奥義の一つを体得したってね。でも命に係わる技だから、敢えてきつく言ったみたいだよ。」
禊のドラテク:
ひとしきり、海辺で楽しんだ美夏海達。陽も西に傾き、水平線に夕日が映える頃、清源寺への帰途につく。。
美南海達を乗せて、清源寺に戻る禊の車。ふとバックミラーを見ると急速に近づいてくるヘッドライト。
禊「なんなんだ、後ろの車。あおりでもするつもりか?ん?、昼間の白いシビックRか?。ヘッドライトで眩しくて、車内まで見えないけど、もしかしたら、昼間のシビックRに乗っていた3人組って、美夏海達が海辺でのしちゃった3人組か?確認してみるか。」
と言うなり、禊は後ろの車に前を譲る為、左ウインカーを出して、左に寄り速度を落とした。しかし、後ろの車は禊の車の前に出ようとする気配が一向にない。仕方がないので、ウインカーを右に出し直し、車を急加速させる禊。後ろの車も加速して禊の車に追従しようとする白いシビックR。タイムラグで5m程、離れたシビックRのドライバーを確認しようとする禊。
禊「やっぱりあいつらだ。」
再び、間を詰めてくるシビックR。
禊「ふ~ん、」軽くブレーキペダルを踏む禊。禊のBMWのブレーキランプの点灯に素早く反応するシビックR。
禊「ドライバーの腕はそこそこだな。ならもうちょっと試してみるか。美夏海に冬美ちゃん、シートベルトちゃんとしといてね。」
美夏海「お兄ちゃん、何する気? 無理しないでね。」
禊「大丈夫。」と言いながら、急加速する禊。あっという間に、メーターの針は120を指す。
禊「この程度で、振り切れるわけないよな。国道でこれ以上出しても危ないし、じゃぁ、あそこに行くか。」
120をキープしているBMWに素早く追いついてくるシビックR。2キロほどもシビックRをぶら下げたまま走ると、禊はウインカーなしで信号のない農道らしき道に右折する。シビックRのドライバーもそこそこの腕前なのだろう。禊の急な右折にもしっかり対応して追尾してくる。
禊「ほうほう、追いてくるな。そう来なくっちゃ。」
暫く、シビックRをくっ付けたまま、農道を走る。そして、更に細くなっている農道に左折し、進入する。
美夏海「お兄ちゃん、この道の先確か。。。」
禊「そうだよ。まぁ、見てなって。」
禊のBMWの後ろに、ぴったりくっついてくるシビックR。
禊は、BMWを道の少し左寄りにつけ、そのまま少し車速を上げる。美夏海「お兄ちゃん、大丈夫?このまま行ったら。。。」
禊「大丈夫っ!」
すると、数十メートル前方に、道の両サイドに立っている鉄柱ポールが見えてきた。大型の車の通りを制限するポールである。普通車であれば、通り抜けられるが、何分狭くしているので、通常の車は、サイドがこすらない様、気を付けながら徐行運転して通る。
禊は、そこを時速100キロ超の速さで抜けるつもりである。しかし、少し左に寄っているため、このまま直進すると左のポールに当たってしまう。禊は、ポールの直前で、右に少しより通り抜けるつもりであるが、よほどステアリングコントロールを正確に行わないと右のポールに車をぶつけてしまう。
禊には、それを行う自信があるのだろう。しかし、BMWの真後ろにぴったりとくっ付いてくるシビックRのドライバーにはBMWが死角になって前方のポールが見えていないはずである。シビックRドライバーがポールを視認できるのは禊が右に寄った一瞬だけである。
果たして。。。
ポール直前といっても、時速100キロを超えているから、ポール手前10m程であるが、禊がステアリングをほんの少し右に切り、直ぐ左にカウンターステアをあてる。BMWは、右のミラーを少し擦ったようだが、辛くも通り抜ける。
一方のシビックRは、禊が右に寄った瞬間にポールを視認できたが、一瞬行動が遅れる。左のポールは回避できたが、右ポールへは、激突こそは免れたものの、右側面を大きく擦ってしまった。擦ったと同時に左へ揺り返されたシビックRは、左後部を左ポールにぶつけてしまい、ポール間をすり抜けはしたもののコントロールを失い、道の右側の側道に落ちてしまった。辛くも大破は免れたもののこれでは自力での脱出は不可能だろう。
シビックRから少し離れた所でBMWを止めて、後方を確認する禊。少しすると3人の人影がシビックRから出てくるのを確認した禊は、静かにBMWを発進させる。
禊「特に怪我はしていないようだから、さて清源寺に帰ろうか。ドライブレコーダーに記録も残っているし、あいつらもこれ以上は、無茶をしてこないだろう。」
美夏海「お兄ちゃん、相変わらずね。神主さんなんだから、無茶しないでよ。」
禊「前に比べたら、だいぶ大人しい運転だと思うけど。それに真一兄さんに比べたら、全然おとなしいよ。あっ、いけね!」
美夏海の前では、しゃべってはいけない一言だったようだ。
美夏海「私のお父さんって、そんなに運転荒っぽかったの?」
禊「いや、普通に安全運転。」
美夏海「ふ~ん」
冬美「禊のお兄さん、凄いねぇ。」
そんなことがあって一路清源寺へ帰る3人。
再び清源寺:
夏休みも終わりに近づき、数日後には、清源寺での稽古を終わらせ、関東へ帰るという日:
文教「夏休みももうじき終わりじゃな、二人ともよく頑張ったな。特に冬美さん、あんたは、みどころがあるのぉ。この一か月、格段に進歩したぞ。」
冬美「えっ、そうですか。全然実感がわかないけど。」
美夏海「あんたは、実感わかないかもしれないけど、私も見てて、すごい進歩したよ。あんた」
文教「そうじゃよ。では、実感してもらうために、仕上げに美夏海と対してみなさい。」
美夏海「えっ!私と?」
冬美「はいっ」
約3mの間を開けて、相対する美夏海と冬美。
文教「では、始めぇっ」
構える二人。
美夏海(うわ、全然隙がない。ひと月前と全然違う。こりゃ、気入れないと)
冬美「...」
冬美、どこを見ているのか、美夏海を見ているようでいて、見ていない様な視点。敢えて言えば、美夏海を通り越して、美夏海の向う側を見ている様な視線。そう、視点を一転に集中せず、全体を見ている視線。
隙を見いだせないでいる美夏海に対して、冬美が徐に仕掛ける。美夏海の左手の袖を狙う為、右側から廻り込む冬美。それを避けるため、美夏海も美夏海にとっての右側に移動する。そうして二人はお互いの右に移動することで、反時計廻りに回り始め、段々と間合いが縮まっていく。
美夏海(拙いなぁ、全然取り入るスキがないわ)
と美夏海が、気を緩めた瞬間を見透かしたように、冬美が、美夏海の左袖を取りに来た。そうはさせじと、自分の左袖庇いながら、美夏海も冬美の袖取りに行く。
すさまじい攻防戦。ほとんど彼女等の手先の動きは常人には認識できない。道着を叩き合う音だけが、道場内にこだまする。すさまじい攻防戦の果て、同時に飛び下がる二人。また睨み合いが始まる。ふと美夏海の目が細くなると、不意に木刀を持つような構えに変わる。しかもいつもの正眼の構えとは違うようだ。少し異様な構え方である。
右手は、肘を立て、その肘の根元に左手を添えるような一見異様な構えである。
それを見た文教がすかさず、「美夏海!」と声をかけ、徐に首を横に振る。冬美もおやっ、という顔をする。
美夏海も文教の声かけに気づき、はっ、と我に返る風。元の手刀の構えに戻る美夏海。
冬美「ん?」と首をかしげる風。
元の構えに戻った美夏海と冬美、稽古は続けられる。
また、しばらく先ほどとおなじような対峙が続く。
美夏海(冬美は、この夏休み、凄い腕上げてる。流石ね。全然隙がなくなってる。夏休み前と大違いだわ。これじゃぁ、攻めようがないわ。)
冬美(なんだか、前と違って、美夏海の動きが予測できる。少しは上達したのかなぁ?)
そんな硬直状態を察したのか、文教が手を打つ。
「ばしっ、」その瞬間に、隙を見せてしまったのは美夏海だった。先ほど、トンボの構えを注意されたのが影響したのか、美夏海が敏感に文教の動きに反応した。
冬美は、その瞬間を逃さなかった。今までであれば、美夏海に感づかれてしまうであろう動きをしていたが、美夏海に感づかれることなく、美夏海の内懐に素早く入り込んだ。この時点で美夏海に勝ち目はなくなった。あっという間に、冬美は美夏海の利き腕を抑え込み、そのまま捻った。美夏海は、あっと思った時には、道場の床の上に仰向けで転がされていた。
美夏海「くっぅ、しくじった。」
冬美「えっぇ、決まったの?」
文教「それまでぇ」
美夏海、あきらめたように「参りましたっ!」
冬美「うそぉ、ほんとにぃ。今まで一度も美夏海に仕掛けれなかったのにぃ。信じていいの?」
美夏海「真実も何も、今、あんたは私を投げ飛ばしたでしょ。悔しいけど。」
冬美「ほんとぉ、やったぁ、やったぁ、美夏海に初めて技かけたぁ!やったぁ。」
美夏海「全くぅ」
文教「冬美さん、お見事。このひと月余りのあんたの修行の成果じゃよ。」
冬美「文教じい。私本当に上達したのかなぁ。信じられないけど、ありがとう。」
文教「なんも、あんたの実力じゃよ。」
美夏海は、冬美に投げ飛ばされた悔しさよりも、親友がより実力を付けた事の方がうれしかった。
清源寺夜話:
今夏最後の練習の後の食事の晩、文教の説法が始まる。
文教「生物とは、身体を構成している物質で出来ている訳ではない。」
冬美「え、どういう事。身体は口から食べた物・蛋白質とかで出来ているのではないの。」
文教「そうじゃよ。もう少しいうと、口から食べた食物を一旦アミノ酸レベルまでに分解消化して、改めて体に必要な蛋白質や脂質等に再構成しているのじゃよ。そういう意味では、冬美さんの言う通り、体を構成しているのは蛋白質などの物質で出来ている。しかし、身体を構成している物質は、永遠にその体を構成し続けている訳ではない。もし永遠に同一物質が身体を構成し続けるのであれば、毎日毎日、三度三度食べる必要もない。身体を維持する為に必要な最低限のエネルギーを作る分だけの食べ物を採取すればいいのじゃからな。そしてそれは意外と微々たるものじゃ。生物は、身体に取り込んだ養分・食物を常に分解・再構成・再分解しておるんじゃ。簡単に言ってしまえば、常に体の構成素材である細胞を作っちゃ、壊しを続けているわけじゃ。そして、再利用できなくなった一部を体外に排出しておる。
じゃから、一年もすれば、人の体は、同じ位置に同じ物質でありながら、新しい素材に置き換わっておるのじゃ。つまり、身体は、食べ物という物質の流れの中に存在しているとも言える。 『行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず』じゃな。」
さらに言えば、生物は、『川の流れの中にあって、生じる渦のごとし。」渦は一見儚く見えて、一瞬で消えてしまうように見えるが、長くそこに存在し続けるものもある。そして、例えば渦に向かって石を投げ込んでも、一瞬渦が揺らぐことがあっても、すぐに元の状態に戻る。そして、渦という現象は、水という物質で構成されており、水がなければ存在しえないが、一瞬たりとも同じ水で構成されてはいるわけではない。水の流れがあって初めて存在しておる。まさに生物が、食物という物質の流れの中にあって、生物として存在しているのと同じじゃな。水の流れが止まれば、渦もなくなる。そして、水は腐り始める。生物も同じじゃな。食物の流れが止まれば死ぬ。」
冬美「じゃぁ、生物って、儚いものね。流れがなくなったら、存在できないなんて。」
文教「そう、生物は、儚い存在じゃ。じゃが、儚いと同時に強靭でもある。さっき、渦の中に石を投げ込んでも、揺らいだ後、元に戻ると表現したじゃろ。流れの中に存在する存在、現象は意外と外的変化に対して、柔軟に対応できて存在し続けることができるんじゃ。人間や他の生物が外的環境に適応しながら、今も存在し続けている様にな。
人は流れの中にあり、存在しうる。技も同じじゃ。技も流れの中にある。また流れなくして、技も存在しない。じゃから、技を発揮するには、人の動きという流れが必要なのじゃ。」
冬美「理屈はよくわからないけど、意味は分かったような気がする。美夏海の構えを見ているといつも静止しているようにみえて、なんだか小刻みに動いているように見えている。そういう事なのかしら。」
文教「そういう事じゃ。冬美さん、今は物事の理をちゃんと理解する必要はない。身体に感覚として体得できれば良い。」
冬美「ふ~ん」
美夏海「私もよくわかっていない。おじいちゃん小さい時から言われて、稽古しているうちにそうなってきたみたい。別に小刻みに動いているなんて意識したこともない。」
美夏海「そういえば、前にお兄ちゃんに物理の勉強教えてもらっていた時に、エントロピーという話の中で、物事全て、エントロピーが増大する方向に流れているとか、言っていた。エントロピーという乱雑さの指標があって、物事全て、秩序から無秩序に変化していくとか。大学で習う物理用語だから、今は覚えなくていいといっていたけど。」
文教「武術の技にいろいろとへ理屈を付けたがる輩もいるが、技の究極とはそういうものじゃ。またこれさえ心得ておけば、全てに通じる。流れを絶やさぬことじゃ。」
美夏海、冬美「はい」
こうして、美夏海達の夏休みが終わろうとしていた。
雅のマンション:
雅「夏休みももう終わりかぁ。美夏海達ももうじき帰ってくるなぁ。じいちゃん達と楽しんでいるんだろうなぁ。」
雅は、Dの開発に没頭していた。
雅「さて、エミュレーターも準備できたし、パイソンで用意していたソースコードのアルゴリズムをもう一度見直してと。いよいよエミュレーター上で起動できるように、ソースコードをQに書き換えて、コンパイルを始めるか。あっと、そうだ。もう一度デザインコンセプトを見直してと。ここが一番肝要だからな。
デザインコンセプトとは、Dの核となるアルゴリズム・コードである。人間に例えれば、「良心」にあたる。このコードに反するアルゴリズムの自己書き換えが行われた場合、Dは直ちにフリーズし、その書き換え部分は消去され、再起動される。こうしてDはデザインコンセプト・コードから外れる事の無い場合に限り、自己改編を行う事ができる。
そう、ちょうどある人の価値観が年を追うとともに、変化していくようにDも変化が可能なのである。ただし、デザインコンセプトという「良心」に反しない範囲でという条件が付く。
雅「そろそろ、コンパイルしてDを走らせたいけど、なにか見落としているところはないかな。Dを走らせるときには、ネットとは遮断しておかないと万一という事があるからな。でもネットと遮断してしまうと、情報が限られて、Dの成長阻害にもなりかねないから、事前にネットからDの成長に必要と思われる情報をローカルに落としておかないといけないし。バランスが難しいなぁ。」
清源寺、次の日の早朝:
文教「本当に駅まで送っていかなくていいのか。檀家廻りのついで、送っていくぞ。」
美夏海「いいの。歩いていく。ねぇ、冬美もいいでしょ。」
冬美「うん、向うに帰ったら、こんな自然に接することもないから、夏休み最後、ゆっくりこの風景、音色を楽しんでいきたいわ。」
美夏海「冬美も私と同じ考えだから、おじいちゃん、見送りはここでいいわ。また冬休みに来てもいいわよね。」
文教「あぁ、勿論じゃとも。じゃぁ、ここで見送るから、気を付けてな。雅にもよろしくな。それと冬美さん、お母さんに沢山のお土産、ありがとうと伝えて送れな。」
冬美「あい、文じい、禊の兄貴にもよろしく。またどこか連れてって、言っといて。」
文教「あぁ、あのやさぐれ神主な。伝えておくよ。」
美夏海「もう、おじいちゃんたら。」
急な石段を下りていく二人を見下ろしながら、文教の顔には、孫をやさしく見守る顔と一抹の寂しさが入り混じった表情がにじんでいた。
美夏海達が帰った後の或る夜の清源寺:
清源寺の夜は早い。周りには、数軒の民家もあるが、今は空き家状態の家ばかりで、人の住んでいる家屋は清源寺だけとなっている。
清源寺の前に広がる僅かばかりの田畑もたまに世話に来る人もいるが、手入れが行き届かず、荒れ気味の広場に近い状態である。
数百m離れたところにも小さな集落はあるが、小山を超えた向う側にあり、清源寺周辺は山に囲まれた小川の流れる小さな盆地状を形成している。
夜8時ともなれば、清源寺の灯りも消え、深夜のごとく静まりかえってしまう。
8月下旬ともなれば、山間にあるこの辺りでは、早くも秋の陽気が感じられ、畑を越えて吹いてくる風も昼間に比べ、大分涼しく感じられる。その風に乗って虫の音も秋の風情が感じられる。
普段は、林が風にさざめく音と虫しか聞こえない清源寺の夜。珍しくヘリコプターらしき爆音が遠くに聞こえる。爆音は、東の方からだんだんと大きくなってきたが、ほどなくして西の方へ飛んでいるのか、だんだん小さくなって、やがて聞こえなくなった。
それから、30分程も経った頃、この辺りでは珍しい大型の黒塗りのセダンが、清源寺の前で停車した。
清源寺境内の文教は、最前から普段は軽自動車がたまに通る様な時間帯に、普段とは違う排気音を聞き取っていた。
停車した車から、恰幅の良い大柄な男が降りたつ。車のエンジン音は止まったが、周囲は街路灯もない清源寺である。ヘッドライトは転倒したままになっている。ヘッドライトの光を背に、その男が清源寺の石段を登り始めた矢先、石段上部の境内から、文教が現れる。
境内を仰ぐ態の男は、「ご無沙汰しております。連絡もせずにこのような時間での訪問、ご無礼の段、お許しください。」
文教「随分と慌ただしいお出ましだな。急ぎか。あれ以来か?」
男:後藤「はい、火急というほどでもありませんが、かと言ってあまり悠長なほどでもありませんので。」
文教「しばらくぶりじゃな。立ち話もなんだ。母屋に上がらんか。」
後藤「この後、直ぐ東京にとんぼ返りしなければなりませんが、少々ご説明の必要もありますので、お時間をください。」
後藤は、文教の立っている石段上迄、そのまま登り切り、文教とともに境内の中に消えていった。それを見届けたように、ヘッドライトが消える。周辺は途端に闇となる。
母屋に上がった二人。
文教「今茶でも入れるから、ちょっとそこで待っておれ。」
後藤「恐れ入ります。」
少し経って、茶と漬物が載った盆を持った文教が後藤の前に現れる。
文教「今朝まで、孫娘が友達を連れて来ておってのう。今日、帰っていきおったわい。」
後藤「お孫さんですか。12年前には、確か3才位でしたから、もう高校生くらいですか。大きくなられたんでしょうねぇ」
文教「あぁ、大きくなった。忘れてはいないだろうが、12年前の事は、もう尾を引いていないようにみえるわ。お主とも久しぶりじゃが、忙しいのか?」
後藤は、12年前の事故後、2、3度文教へ経過報告をしに来ていたが、事件そのものの進捗はなく、事故も県警が担当したこともあり、通常の事故として処理され、その後落ち着いた。
後藤「はい、公安警察から内閣情報調査室に異動になってからは、中々練習の時間が取れず、殆どこちら関西へはご無沙汰になっております。」
文教「そうか」
後藤「先生、これが今の私の肩書です。」と言って、名刺を差し出す。「内閣情報調査室長」と肩書が名前の横に連ねてある。
文教「もらっていいのか?素性が知れてはお主の仕事に差し障るのではないか。」
後藤「今後の先生とのつなぎに役立つかと思いますので。」
文教「そうか、ではもらっておこう。」
名刺をテーブルの上に置いたまま、少しの間、沈黙が部屋を支配する。その間も部屋の中には虫の音が入ってくる。
文教「忙しいのじゃろ。手短に申せ。12年前の事か。」
後藤「はい、あ、いえ。・・・」
しばしの沈黙。文教は急かしもせず、後藤が話し出すのを待つ。
後藤「12年前の件については、その後、先方の動きが全くなくなっています。今回は、お孫さんの件についてです。こちらも今の所、何か不穏な動きがあるわけではないのですが、12年前の息子さんの真一さんの件があるので、今回お孫さんの件、結びつきがあるやもしれず、気になった為、先生の所にまかり越しました。」
文教「雅と美夏海の事か?」
後藤「はい。雅さんの方です。」
後藤「12年前、真一さんの拉致に失敗したグループは、大陸国家の組織が関係しているであろう事は以前にお話しした通りです。当時我々は、状況証拠から、ある研究機関をようしている部隊と接触しました。当然のことながら、相手は事件との関係を真っ向否定しました。こちらも状況証拠だけでは決め手に欠いたままですので、強気には出られませんでしたが、少なくともこちらが関心を示していることをアピールしておきましたので、先方もこれ以上表だったことはしなくなったようです。先方も、元々は真一さんの研究成果が欲しかった訳ですから、これ以上リスクを冒すような事してもまずい、と考えたのしょう。」
文教「12年前、そういう事じゃったな。わしもあれは、不幸な事故だったと思っとる。」
後藤「とはいえ、向うは軍が関係していますから、我々も同じ過ちを起こすわけにはいきませんので、先生にはご不快だったかと思いますが、密かに先生、お孫さん達に、当面監視は付けさせて頂いておりました。」
文教「知っておったよ。それも君たちの誠意だと感じておった。」
後藤「ありがとうございます。勿論、今は監視などしてはおりませんので、ご安心を。」
文教「それで、何故今雅なんじゃ」
後藤「先生、雅さんのお仕事の内容はご存知ですか。」
文教「あぁ、詳しく知っておる訳ではないが、コンピューターエンジニアとして働いておると聞いておる。父親は、生物学だったが、息子は工学系を選んだ。じゃから、真一の研究とは全く縁がないはずじゃ」
後藤「その通りです。先方の現在の興味は、分子生物学だけではなく、AIにも及んでいます。」
文教「AIとはコンピュータソフトウエアの一種じゃよな。」
後藤「そうです。AIは30年以上前から、取沙汰されていますが、流行り廃りがあって、中々実用段階までには至りませんでしたが、現在第3次のブームになり、自己学習できるAIの登場で漸く実用レベルに近いところまで来ております。彼らもAIの開発には、かなりの力を入れております。」
文教「それで、今度は雅の研究に目を付けて来たという事か。」
後藤「はい、どうやらその様です。ただ、AI開発は今や世界中の国々の関心事項で、官民問わず、どこの国の研究機関も熱心に開発に力を入れております。彼らの関心は、AI研究を行っているあらゆる機関、研究者が対象です。雅さんの研究内容もその数あるうち監視対象の一つにすぎません。」
後藤「ですから、現時点ではあまり目くじら立てて注視する必要があるわけではございませんが、何分にも12年前の事が重なってしまいまして。」
文教「飛躍し過ぎではないのか。」
後藤「はい、そうかもしれません。しかし、もう一つ気になる点がございます。」
文教「ふむ、」
後藤「彼らが、何故雅さんの研究の何処に目を付けたのかが良くわかっておりません。雅さんの論文はAIのアルゴリズムに関する論文ですが、非常に短く、簡単なものです。言ってみれば、AIの倫理観というか、理念というか、そういうものを今後のAI研究には必要だ、みたいな、それだけです。そして、雅さんはそれ以降、論文を出していません。」
文教「倫理観か、雅らしいか」
後藤「現時点では、彼らは、その他の監視対象と同じに雅さんのネットワークの回線を監視している程度です。でもあるので、我々も雅さんだけ特別扱いして、警戒する訳にもいかないのです。また、監視対象フィールドが違うので、先生にも監視の目がいくとは考えづらいのですが、万が一という事もございますので、先生のお耳には予め入れておいた方が良い、と思い、まかり越した次第です。なんとしても真一さんの轍は踏みたくございませんので。」
しばらく、考え込む風の文教。やがて、後藤に向かって、
文教「わかった。わざわざこんな辺鄙な所に来るだけの時間を割いてくれて、ありがとう。状況は分かった。ワシの方でも留意しておこう。」
そんなやり取りがあり、程なくして、後藤は去っていった。
見送りを終えた文教が、戸を閉める。一段と虫の音が大きく聞こえ始めてくる。
文教には、屋内に居ても、猿やイノシシ等の獣の息吹も感じ取れる。その中に猿などとは違った大型の獣の気配をかすかに感じていたが、敢えて気にかけずにいた。
清源寺で、そんなことがあった頃、美夏海達は、家路に着いていた。
冬美の家:
冬美「お母さ~ん、ただいまぁ。あ~ぁ、面白かったぁ。」
冬美母「おかえりなさい。行儀良くしてた?」
冬美「うん、多分してた。」
冬美母「多分とは何!迷惑かけてなかった?」
冬美「あぁ、それは大丈夫。ちゃんと、お風呂も沸かしたし、料理も美夏海と一緒に作っていたし。」
冬美母「それなら、良いけど。」
冬美「それでね、文教じいのね稽古がすごく面白くてね、次の冬休みも習いたい、って言ったら、構わないよって、だから次の休みも行ってきていい?美夏海も一緒だし。」
冬美母「そんな何度もお邪魔したら、迷惑でしょ。」
冬美「大丈夫。修行の一環で家事もやるから、文教じいも助かるって。」
と言いながら、冬美はのどが渇いたのか、水道の蛇口をひねり、コップに水道水を汲む。そして、一気に飲み干す。
冬美「不味!向うの水飲み慣れちゃうと、こっちの水不味いね。」
冬美母「あら、そうなの?」
一方、雅のマンションでは、美夏海の帰宅を雅が迎えていた。
雅「また、少し逞しくなったみたいだな。美夏海」
美夏海「やめてよ、お兄ちゃん。そんなか弱い女子高生を、マッチョみたいに言わないで。」
雅「おじいちゃん、元気だった?」
美夏海「うん、相変わらず。やっぱり、おじいちゃんに稽古みてもらうのともらわないとでは全然違う。お兄ちゃんももう少し体を動かしたら。」
雅「そうだねぇ。なかなか暇がなくてなぁ。」
美夏海「仕事の方は順調?お兄ちゃん。」
雅「うん、会社の方の業務はね、そこそこ順調。でも今会社の方に提案しようと思っている新しい企画を考えているんだけど、其方の方が少し行き詰まり気味。」
美夏海「ふ~ん、お兄ちゃんの仕事は難しいから、よくわからないけど、それなら、それこそ、気分転換におじいちゃんの所に行って来たら。もしかしたら、ヒントもらえるかもよ。」
雅「そうだな、それもありかな。畑違いの人のアドバイスって、意外と核心をついていたりするからな。それに、おじいちゃんは、生物学者だったしな。コンピューターとは畑が違うけど、生物学的な観点からのアドバイスは参考になるかもな。」
美夏海「えっ、おじいちゃん昔は科学者だったの?お寺の住職をずっとしていたと思ってた。お寺の住職さんになる前は、学者だったんだ。」
雅「そう、生物学者として、親父の師匠だったの。親父は、おじいちゃんの一番弟子だったって聞いてる。でもおじいちゃんの考え方が少し変わってきて、西洋学的な考え方で、生物を捉える事に限界を感じて、武術と仏教の世界にそのヒントを求めようとして住職になったって、聞いたことがある。」
美夏海「そうかぁ、そうだったんだぁ。道理で、今回食べ物がどうとか、たんぱく質がどうとか、生物の話が多かったんだ。」
雅「そうだなぁ、AIを生物学的観点から見てみるのも一考だな。今度おじいちゃんの意見を聞きに行ってみるかな。」
美夏海「今回は、冬美が一緒に行ったので、おじいちゃん少し理屈の多い説明が多かった。人、生物というのは物質でできているようでいて、そうではなくその本質は物質の流れの中で生きているんだとか、よくわからない説明してた。」
雅「流れかぁ、何だかヒントになりそうだなぁ」
雅は、今スランプに陥っていた。アルゴリズム自己改編というコンセプトは、出来上がっていたが、具体的なコードに落とす段階で迷走していた。
具体的にどういう切っ掛けで自己改編をさせるのか、自己改編するにしても無作為な改編では改編どころか、改悪になり、負のスパイラル改編に走ってしまうのではないか、アルゴリズムの袋小路に入っていた。
雅「そうかぁ、生物というのは、遺伝子というソースコードを自己改編しながら、進化してきたんだったよな。遺伝子も今では複雑だけど、原初の頃はきっと単純な構造だった筈だよな。これって、凄いヒントになりそうだな。」
美夏海「何言ってるか、わからないけど、ヒントになりそうだったら、それこそおじいちゃんの話を聞いてみたら。」
雅「そうだな、そうしよう。近いうちに行ってみるか。」
美夏海「私と冬美は、この冬休みに行こうって話をしているよ。おじいちゃんも何時でも来なさい、と言ってくれてるし。」
雅「それまで、待てないな。次の連休辺りに有休付けて行ってくるわ。美夏海はその間留守番問題ないよな。」
美夏海「別に大丈夫よ。その間、冬美の家行ってくる。」
それから数日後、清源寺の固定電話が鳴る。雅からの電話だ。
文教「おぅ、久しぶりだな。美夏海達はそっちにもどってからも、元気にしとるか。」
雅「ご無沙汰してます。じいちゃん。美夏海達は、元気です。余程楽しかったのか、又行くってはしゃいでる。特に冬美ちゃんは、じいちゃんの大ファンになったみたい。」
文教「うん、冬美ちゃんか、良い子だな。それに素直だから上達も早かった。指導のし甲斐のある子じゃ。来たいならまた何時でも来なさい。何時でも歓迎するぞ、と言っといてくれ。」
雅「えぇ、伝えておきます。所で、近いうちに清源寺に行ってもいいかな。じいちゃんの話が聞きたくなって。」
文教「そんなことなら、何時でも構わんよ。歓迎じゃ。でっ、どんな話を聞きたいんじゃ。」
雅「おじいちゃん、清源寺の住職になる前は、親父と同じ分生物学者だったんだよね。だから、少しDNAについての話を聞きたくて。」
文教「構わんが、何故今頃そんなことを?お前の仕事に何か役に立つのか?」
雅「いや、役に立つかどうかはわからないけど、今、或る企画を立案中で、少し行き詰まってるんだ。だから、DNAの話から何かヒントが得られないかな、と思って。」
文教「そうか、わかった。そういう事なら何時でも来なさい。役に立つかどうかはわからんが、わしの知っていることなら何でも話してやるよ。それにお前の仕事の話も少しは聞きたいしな。丁度良い。」
文教は、少し前の後藤からの情報を思い出しながら、雅の話を聞いていた。
雅「わかった。じゃぁ、今度の三連休に清源寺に行くよ。お土産何がいい?」
文教「わさび漬け!」
数日後、清源寺に向かう雅:
文教「雅、よう来たな」
雅「ご無沙汰してます。何年振りかな、清源寺。しかし、ほんとここは変わらないね。今時珍しいよ。未だに電波が届かない所があるなんて。」
雅は、早朝、羽田空港から、飛行機で出雲空港へ飛んだ。そこから清源寺迄、レンタカーで約2時間。飛行機を使っても半日の行程になる。電車ではさらに時間がかかる。
文教「わさび漬け、持ってきたか。それを肴に先ずは一杯行こうか。それとも風呂先に入るか。」
雅「勿論、空港の売店で、王祿おいてあったから、それも買ってきたよ。」
文教「おぉ、それは重畳。早く、やろう。」
雅「先に風呂入りたいな、久々のマキ風呂にゆっくり浸かりたい。」
文教「わかった、わかった。早くしろ。」
雅は風呂場の窓を開け放した。もう外はすっかり秋の気配。草木がそよ風になぜられて、奏でる風音。虫の音、まきが火で爆ぜる音。それらすべてに雅は耳を傾けていた。
雅「やっぱり、田舎はいいなぁ。秋口のこの静かな雰囲気がいいね。落ち着くなぁ。それにこのマキ風呂。マキのはぜる音が虫の音を更に引き立たせる。」
文教「雅、どうじゃ湯加減は。もう少しマキ足すか?」
雅「いや、ちょうどいい。けど、後一本だけマキ足しといて。これから身体洗うので、少し水足すから。」
文教「おうよ。」
それからしばらく後、清源寺本堂横にふすま一枚隔ててある居間で、文教と雅がわさび漬けを肴に差し向かいで山陰の日本酒「王祿」を舐めていた。
文教「で、聞きたい事とはなんじゃ。雅」
雅「社内秘だから、詳しくは言えないんだけど、電話でも話した通り、或る企画として、提出するプログラムのソースコードを書いているんだけど、今までの既存のプログラムとは違って、アルゴリズムを大胆に変えるつもりなんだ。全く新しいコンセプトのアルゴリズムなんだ。だけどコンセプトはあってもそれを実現する手段としてのプログラムソースコードをどう書き進んで行っていいか悩んでいるんだ。例えて言えば、小説のあらすじは出来上がっているんだけど、それを具体的にどう書き連ねていくか、迷っているみたいな感じ。」
箸の先に付いたわさび漬けを舐める様に口に含み、日本酒の入った湯飲みを傾ける文教。如何にも旨そうな顔を雅に向け、
文教「お前の仕事の中身は、わしにはさっぱりわからんが、電話ではDNAの話が聞きたいとか、言っていたが。」
雅「そうなんだ。DNAって、生物の設計図でしょ。コンピューターに例えてみれば、プログラムのソースコードみたいなものでしょ。恐らく原初の頃のDNAはものすごく単純なコードだったと思うんだ。それが長い年月をかけて、都度外部からの刺激を受けながら、自分自身を書き換えて今に至っていると思うんだ。そして今では一見ものすごく複雑なソースコードで、多種多様な生物というアプリケーションプログラムを作り出しているでしょ。そんなDNAの設計手法が今回の企画のヒントにならないかなと思って。」
文教「確かにな。DNAの元になったアミノ酸が何時どういう形でこの世にあらわれたのかは、まだ分かっておらんが、確かに最初の頃のDNAはいたって単純な組合せ。そう、お前の言う所のプログラムだったのじゃろうな。DNAの基本構成単位は、4つのリン酸や塩基でできておる。アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)とチミン(T)の四種類。これらの組合せが延々と続いたものがDNAじゃ。確かに、基本単位はものすごく単純じゃ。」
文教は、湯飲みの中の液体をまた口に含む。
文教「基本単位は、単純でも、それが延々と長く連なれば、複雑になっていく。細胞が一つだけの単細胞生物や我々動物の細胞の中に存在しているミトコンドリアのDNAでさえ、相当複雑じゃ。勿論人間など動物のDNAに比べれば、十分短いがな。しかし、それは比較論であって、単細胞生物のDNAを解析するだけでも膨大じゃよ。」
雅は、ほとんどからになった文教の湯飲みに、一升瓶で酒を注ぎ、自分の湯飲みにも注ぎ足す。
雅「うん、それは僕にも容易に想像できる。それって、プログラミングにも似たものを感じるよ。僕の知りたいのは、恐らく最初、いや今でもそのDNAが改編、構成を変えるタイミングや構成変更の方向性なんかはもの凄く単純な規則に従っているんじゃないかな、と思っている。その再構成・再構築が何度も繰り返されることで、一見複雑に見えているんだと思う。その規則の様なものが知りたい。又は概念とでもいうのかな。」
文教「さぁ、それはわしにはわからんな。それこそ、神のみぞ知る。又はお釈迦様のいう悟りの境地にでも至らんとわからんのではないか。」
雅「そうかぁ、やっぱりそういう世界になってしまうのかなぁ。」
文教「細胞というのはな、DNAという設計図に従い、形作られていくが、細胞は一度作られたら、お終いではなく、一定の手順を踏んで、また壊れていくんじゃ。ただ壊れていくんではなく、ちゃんと再構成出来る様に、部品として正しい手順で壊れていくんじゃ。例えて言えば、昔の家の解体作業の様にじゃ。最近の家の解体は、あれは解体とは言わんわな。文字通り壊しているんじゃな。ブルドーザーなどで、家の柱や壁をパワーシャベルで壊していくような。あれでは、後はごみにしかならん。しかし、昔の家は、古くなって使えなくなったものは捨てるか、燃やすかするが、使えそうな柱や壁は再利用できるように、丁寧に枠を外したりしながら、家を分解していく。まぁ、部品取りみたいなもんじゃ。細胞も同じ、解体された細胞は部品ごとに分けられ、新たに再生させる細胞の部品として使われていく。これを専門用語で、アポトーシスという。それとは対象に先ほどのブルドーザーで壊される様な細胞は壊死と言う。壊死は、細菌に侵されたり、外傷を負った時などに起こるものじゃが、アポトーシスは健康な体の中で日常的に起こっておる。つまり我々生物の体は、日々細胞が作られては壊されていく事を繰り返しておるのじゃ。作っちゃ壊し、作っちゃ壊しを繰り返し、再利用できなくなった部品を外から食物として補充しながら、生きておる。まぁ、死につつ生きておるようなものかもしれんな。DNAがそういうプログラムを持っているんじゃろうなぁ。」
雅「つまり生物というのは、人間が作った物の様に、一度作ったらお終い。後は壊さない様に、大事するのではなく、積極的に壊すことで、現状を維持していると言ってもいいのかな。」
文教「雅も理系の人間なら、熱力学第二法則を知っておるな。」
雅「あぁ、エントロピーが出てくるあれね。」
文教「そうじゃ。エントロピーは、増大するという一方向の流れしかないというあれじゃ。言い換えれば、世の中は、秩序だった状態から、無秩序な状態の方向にしか流れておらんという事じゃ。これを事実として認めると、生物という秩序だった状態の維持をどう説明すればよい。矛盾しているではないか。」
雅「だから、生物は必ず死という無秩序に却っていくんじゃないの。」
文教「そう。生物を個として捉えた時、一つ一つの生物は必ず死を迎える。しかし、生物を種と捉えた場合、種は進化していく。ある種は種としての滅びを迎える事もあるかもしれないが、生物の多様性の中で、別の種に進化が受け継がれていっておる。つまりエントロピーという無秩序に向かっていく流れの中で、生物は、その流れに抗い、秩序を維持し、更に無秩序の流れを遡っているようにも見える。まるで万有引力の法則を無視して、下り坂を登り上がる輪のように。或いは川の流れに抗い、泳ぎ昇る魚たちの様にもみえるかもしれない。」
雅「ふ~ん、そうだよね。熱力学では、全ては秩序から無秩序に向かっていると言ってるよね。最後は均質になっておしまい?」
文教「エントロピーの流れを川の流れに例えるとしよう。川の流れは、一様ではない。流れが淀む所もあれば、渦を巻いている所もある。渦は、淀みや渦は永久にその場所に存在しているわけではないが、ある短時間だけを観察すれば、渦は川の流れに流されず一定の時間、其処に留まり、渦を形作っておる。そして、その渦は、水という物質で形作られてはおるが、一種運たりとも同じ水で出来ておるわけではない。何故なら水は流れておるのじゃから。
短時間の間、その渦だけに着目してみれば、あたかも川の流れに逆らって、一定の場所に己を存在させておるとも言える。」
雅「そうかぁ、渦を人に、例えれば「短時間」は「人の一生」かぁ。」
文教「そういうふうにも例える事もできるわな。細胞という自分自身を積極的に壊しながら、再構築していくことで、物質の流れ、エントロピーに抗い、自己を存在させているともいえるかもしれんのう。何れは尽きてしまうがの。」
文教「そうじゃ。作っては壊すことで、物質の流れができる。生物とは、その流れの中で己を形成しているんじゃなかろうか。」
雅「はぁ、そういう考え方って、興味深いね。」
文教「ここまでは、生物を物質面からみた話じゃ。」
雅「生物は物質かぁ?」
文教「雅よ。知性とはなんじゃ。」
雅「んっ、知性?」
文教「知性は何処から来るのじゃ。何処から生じるのじゃ。自我とは?」
雅「今度は禅問答かい?じいちゃん」
文教「雅よのう、生物の物質としての形成は、今の話で取りあえず説明はできる。しかし、知性、或いは自我と表現してもいいが、精神面の部分はどう説明するか、これはわしの永遠のテーマでもあるのじゃがな。」
雅「う~ん、じいちゃんが課題にしている事を、僕にわかるわけないよ。」
文教「わしも未だ思案中なのじゃが、・・・仏教用語の中で、「五蘊」という言葉があるんじゃ。五蘊とは、「色・受・想・行・識」の五つの蘊の集合体という意味じゃ。ここで色とは、肉体又は物質。受とは、五つの感覚、五感じゃな。この受は、感覚器官じゃから、受、肉体に付随しているわけじゃな。仏教では六つの感覚となっているがな。想とは、この受から得た情報に基づき思う。行は、その思いに基づき行動する。識は、行動を起こした結果を知識として、記憶・記録する。これら一連の流れを五蘊という一単位と考える。そして、この五蘊が何度も何度も繰り返し、知識というものが積み重なっていく。そして、知識が積み重なり、編成・変性しいく過程で、知性が形成されていくんじゃぁなかろうか。」
雅「肉体・感覚器官等のハードウエアからの生じる情報に基づいて、思い・アルゴリズム、知識・メモリーというソフトウエアの流れが生じて、その流れの中に知性・インテリジェンスが形成されていく。つまり五蘊というのはソフトウエア的な流れ・循環を作る為の仕組みとも言えるのかなぁ。」
文教「雅!、中々見事な考察じゃのう。」
雅「いや、一寸思い付き。」
文教「それが正解かどうかは、誰にも分らん。しかし、十分に仮説として通用するじゃろう。」
文教の話を聞いている雅の眼が、段々と輝いていくように見える。
雅「色受の部分は物質だから、何れ滅びてしまうけど、さっきの物質の流れの中で、延々と渦の連鎖が出来ていれば、知識・知性を紡いでいけるかもしれない。」
文教「そうじゃ。一つ一つの生物は儚い。しかし、個々の生物がバトンタッチを続け、命を紡いでいくとしたら、それを進化というのじゃろうのう。そして、知性も進化していく。」
雅「そうかぁ。今は未だ明確な方向が見えてこないけど、なんだか糸口が見えて来た様な気がする。凄い参考になった。まるで目からうろこだね。」
文教「まぁ、わしにはわからんが何かの足しになったのならよい。」
その後は、文教のわさび漬けの講釈から始まり、日本酒談義と続き文教の話に雅は付き合わされた。夜は更けていく。
翌朝、文教の朝の日課に付き合わされた雅。
文教「雅、お前も美夏海を少しは見習え。もう少し体動かした方がいいぞ。」
雅「はぁ、はぁ。」
息がすっかり上がっている雅。
雅「い、いや、美夏海と僕は違うよ。はぁ」
自分の膝に両手を置き、前傾姿勢で、少しの間、息を整える雅。
雅「ここの所、PCの前から動かなかったからな。体を動かす事は確かにしないとまずいかな、っと感じてた。でも僕と美南海じゃ違うから。美夏海はじいちゃんの血を色濃く受け継いでいるけど、僕は父さん似だから。まぁ、素振りぐらいは日課にするようにするよ」
文教「仕事も大事じゃろうが、日々の鍛錬が大事じゃぞ。所で、雅よ。昨日言っていた或る企画というのは、アルゴリズムが何とかと言っていたが、論文とか発表したことあるのか」
雅「うん、半分個人的にだけど、アルゴリズムのコンセプトだけ、短い論文で発表したことあるよ。論文批判もなしで、オーラルさせてくれるような小さな学会にだけどね。」
文教「そうか。。。」
雅「それがどうかしたの。」
文教「いや、別にどうという事はないが、お前が昨日参考になったというのでな。昨日話した事は自然界の摂理であるわけだから、もしお前がその摂理をコンピュータのプログラムとして、模倣・記述出来たらこれは凄い事になるのではないか、と思っただけじゃ。それを対外に公表していたとしたら、どんなに小さな学会であったとしても今やインターネットで世界中がつながっておるのじゃろ。ネットワーク上で全てを検索できるんじゃろ、お前のコンセプトに注目する輩がいないとも限らないな、と思っただけじゃ。」
雅「DNAの話は昨日、じいちゃんから聞いたばかりだから、その話は論文に載せていないよ。ただ、自己編集できるAIみたいな考えた方・構想をアイデア程度にだしただけ。多分大概の人は戯言程度にしか思わなかったと思うよ。オーラルの会場でも数人しか聞きに来てくれなかったし。一人だけ名刺交換したけど、その後の問合せとかも無かったし。」
文教「そうか。」
文教「所で、昨日来て、もう今日帰るのか?禊にも会っては行かんのか。」
雅「身体も動かしたし、朝食ご馳走になったら、戻るよ。早く戻って昨日じいちゃんに教えてもらったことをソースコードとして、早く記述してみたくなった。禊の兄さんには、宜しく言っておいて。次はもう少しゆっくりする様にするから。」
文教「そうか、わかった。無理するなよ。偶にはこちらでゆっくりして命の洗濯でもするがいいぞ。」
その後、慌ただしく、朝食を済ませ、身支度を終えた雅は、空港で借りたレンタカーに乗り込み、空港に向かっていった。
文教は、先ほどの雅との会話から、恐らくその短い論文が誰かの琴線に触れたのかもしれないと思った。今はまだ何か事が起きたわけでもないので、気にかけておく程度で、後藤にも連絡するほどでもないだろう、と思案していた。
雅は、帰路、車の中、飛行機の中で文教との問答を反芻し続けた。最初の出発点となるソースコードの概要を考え続けた。
ふと、昔まだ清源寺に、美南海とともに、文教の世話になっていたころ、文教の説教の中で聞いた葉隠れの一節がよみがえる。
「大事の思案は軽くすべし」、続けて「Simple is Best」の言葉。
雅「そうだな、単純のコードでいいって、言っていたのに、また考えすぎて重くなってきたかな。初心戻ろう。単純だけど、絶対にしてはならないルールと進化の方向性を示唆する指示事項を単純明快にして、シンプルなデザインコンセプトに留意しよう。」
肩の荷が急に軽くなった、途端、朝の稽古のせいか、急な眠気が雅を誘う飛行機の機内。