ピアスの後日譚
たまには何も連絡をせずに家に行ってみよう、と思い立ったのが悪かった。悔しいけれど、これは完全に私が悪い。
私の他に誰もいない家で、膝を抱えながらため息をつく。耳にはまっている、先輩からもらったピアスにそっと指先でふれた。
――初めて合鍵を使ったこと、先輩が帰ってきたらどう思うだろうか。
* * *
先輩と付き合い始めたのは、私が高校一年生で、先輩が高校二年生のときだ。私たちの所属していた美術部は幽霊部員が多く、おまけに私の代の部員は私一人だったものだから、活動しているのはほとんど私と先輩だけだった。気心の知れた仲になるのにそう時間はかからなかった。
それで、まあ。
なんやかんやあって、その年の秋に付き合うことになって。
先輩が社会人一年生、私が大学四年生となった今も、交際はそれなりに順調に続いている。
先輩の就職先は一応実家から通える距離ではあったが、片道二時間近くかかるため、先輩は会社の近くで一人暮らしを始めた。合鍵をもらったのはそれからすぐだった。
好きなときに使っていいよ、いらなかったら返してくれればいいから、なんて。
そんな言葉と一緒にあっさり渡された。だから私は、先輩から何か言われるまでは使うものか、と少し意地になった。あの人はいつもそうなのだ。私にとって大切なものや言葉を、何でもない顔でぽんっと差し出してくる。別に何でもなく思っているわけでもないのに、だ。
告白のときだって――とそこまで遡ろうとした思考を打ち切って、時計を見る。時刻は午後二時過ぎ。私がこの家に来てからもう三時間ほどが経っていた。
一緒にお昼ご飯を作ろうと持ってきた食材は、とっくにすべて冷蔵庫にしまってある。先輩の冷蔵庫の中は、先輩の外面を表すようにいつも綺麗に整頓されている。普段ならそれを見れば、一人暮らしなんだしそこでくらい隙を見せたっていいのに、なんて思ったりするのだけど、今日はその余裕もなかった。
ピアスを人差し指でなでながら、またため息をつく。連絡もせずにいつ帰ってくるかもわからない家主をこうして一人で待つのは、馬鹿がやることだろう。だとしても……たまには、私の行動に驚いて、ちょっと嬉しそうに笑う先輩が見たいな、なんて柄でもないことを考えてしまったから。
今連絡を取るのは、その驚きを軽減させてしまいそうで気が進まない。
……先輩、今日と明日休みのはずなんだけどな。いきなり仕事が入った? だとしたらこんなの、先輩の迷惑になる。夜になる前には帰ったほうがいいだろうか。だけどせっかくだから会いたい。もし泊まりがけでどこかに遊びにいっていたりしたらどうしよう……でも先輩そんな友達なんていな……一人だけいるか、だとしたらあの人に連絡、いや、もしも一緒にいるとしたら私からのメッセージが先輩に見られる可能性も。
ぐるぐる回る思考。
落ち着くために、ひたすらピアスを指先でいじくる。
私の耳には四つの穴が開いている。うち二つは高一のときに自分で開けたもの、もう二つは高校卒業後に先輩に開けてもらったものだ。後者の穴には、先輩からもらったピアスしかつけていない。一番気に入っているのは、先輩に最初にもらった夕焼けのような色をしたピアス。今日もそれをつけていた。
ちょうど告白されたときの空の色に似ていて、見る度にあの日のことを思い出せた。だから気に入っている、と口に出すのは気恥ずかしくて一度も言ったことはないが、たぶん先輩もわかっている、と思う。……たまに察しが悪いところがあるから、絶対とは言い切れないけれど。
「……んー」
きゅう、と小さく鳴ったお腹の音に唸りながら、ようやくスマホを取り出す。やっぱり一応、連絡を入れよう。
『先輩もしかして、今日仕事入りました?』
画面を睨むように見ながら、既読がつくのを待つ。五分経っても十分経っても、ほんの少しも変化のない画面。仕事中だとしたら、少なくとも定時までは反応がないだろう。
諦めてスマホをロックして、二人がけのソファの上で横になる。寝ていればその時間もあっという間だ。
少し目をつぶってから、はっとしてスマホの通知音を最大にしておく。先輩から返信があればすぐに起きられるように。寝起きはいいほうだから、気づけないという不安はない。
これでよし、と再び目をつぶって――
ガチャリと鍵が回された音に飛び起きた。心臓に悪いタイミングだ。
ソファに座ったままなんとなく姿勢を正して、ドアの方を見る。入ってきたのはもちろん、この部屋の主である先輩だった。
ばち、と目が合ったと思ったら、先輩は何も言わずにその場に立ち尽くした。……びっくりしている、みたいだ。スマホを確認していなかったのだろうし、私がいるとは思ってもみなかったのだろう。一つ目はこれでクリア。
問題は、嬉しそうにしてくれるか、だった。
「……空乃?」
「はい。お邪魔してます」
「なんでいるの?」
「……好きなときに使っていいって言われたから、好きなときに使っただけです」
仮にも恋人に向かって、「なんでいるの?」はないだろう。むっとしながら口から出た返答は可愛くないものだったが、言い直す気にもなれない。
この先輩が大げさに喜んだりはしないことはわかっていたが、それにしたってさすがに反応が薄すぎではないだろうか。この様子だと私が『初めて合鍵を使った』という事実にも気づいていない可能性がある。気づいていてこれ、の可能性もあるからタチが悪いのだけど。
「あー、そっか」
納得したようにうなずいて、とりあえず先輩は靴を脱いで家に上がった。そのままの流れでのんきに手洗いうがいをし始めるのを、じいっと見つめる。恨めしげな視線になってしまっているかもしれない。
手を拭いた先輩は、スマホを確認して「ごめん」と謝った。
「スマホ見てなかった。そう、朝から急に呼び出されちゃってさ。一応今日これからと明日は休みでいいって言ってもらえたんだけど……待たせてごめん」
「それは、別に」
私が勝手に上がり込んで待っていただけなのだから、そこに関して先輩が謝る必要はないのだ。むしろ私が謝るべき、だけど。……好きなときに使っていい、とは言われているのだから、謝らなくてもいいはずだ。
「ちょっと着替えてきちゃうね」
やっぱり合鍵への言及はなしか――と思ったところで。
「合鍵、使ってくれてありがとう」
さらりと言って、先輩は寝室に入っていった。残された私はいったいどんな顔をすればいいんだろうか。
お礼を言う、ということはきっと、嬉しく思ってくれたということだ。表情が上手く見えなかったが、先輩のことだからそれも計算のうち。つまり見られたら恥ずかしい表情……と先輩が感じるくらいの表情だったのは確か、だと思う。見えなかったけど。見せてくれなかったけど。
三時間も待ってたんですから、見せてくれたっていいじゃないですか。
理不尽にもそう思って、はああ、と一際大きくため息をつく。ああいう人だ。もう付き合って六年だというのに、いまだに翻弄されるこちらの身にもなってほしい。
ラフな格好に着替えた先輩は、空いていた私の隣に腰を下ろした。仕事にはコンタクトで行っているようだが、もうそれを外して眼鏡をかけていた。コンタクトの先輩にはまだ慣れないのでありがたい。
「連絡もなしに急にどうしたの? 何かあった?」
見当違いな心配に「理由もなく会いに来ちゃ駄目なんですか」と言いたいのをこらえる。
「……特に、理由は。そんなことより、一つ言いたいことがあるんですけど」
うん? と先輩は首をかしげる。
私は息を吸って、ピアスに軽くさわる。これから口にするのは、まだ一度も先輩に言ったことのない、少し憧れていた言葉。
「――翼さん、おかえりなさい」
あえてたまにしか呼ばない呼び方をしてみれば、先輩はきょとんと目を瞬いた。それからその目元を和らげて、なぜかぷっと吹き出す。
「ふ、くく、ただいま、空乃」
「……なんですかそれ」
「なんでもないよ」
「なんでもないわけがないですよね」
「可愛いなって思っただけ」
「……それはどうも」
思わず顔をしかめる。この先輩は付き合ってからというものの、飽きもせずことある度に『可愛い』と言ってくるが、目とか耳とかどうなってるんだろう、と思う。この可愛げのない態度に対してなぜ可愛いと思えるのか。客観的に見て容姿がいい自覚はあるが、先輩はそこを可愛いと言っているわけではないだろう。
なんだかもうめんどくさくなって、先輩に寄っかかり、肩に頭を預ける。体温が心地いい。感じる匂いもいつもの先輩のもので、ほっと気が緩んだ。
その途端、ぎゅるるると割と盛大にお腹が鳴った。
「……」
「……」
私は何事もなかったかのようにそのままでいようとしたが、先輩の肩が揺れ始めたのでしぶしぶ体勢を戻す。
小さく笑いながら、先輩は私のお腹に視線を落とした。
「昼、僕は適当に済ませちゃったんだけど、もしかして空乃は食べないで待っててくれた?」
「……いえ」
「ちょっと待ってて、何か作るから」
先輩は当然のようにそう言って立ち上がった。仕事で疲れているだろうに、そして別に料理が好きというわけでもないのに。本当はここで「自分で作ります」と言うのが正しい彼女としての反応だとはわかっているが、その気持ちが嬉しくて、くすぐったくて、結局何も言えなかった。
几帳面にももう一度手を洗う背中を見つめて、私は次の反応を待った。冷蔵庫を開ければ、私が食材を買ってきたことはわかるはずだ。
案の定、冷蔵庫を開けた先輩は戸惑いがちに振り向いた。
「……色々買ってきてくれたの?」
「一応」
「一緒に作るつもりだったりした?」
こういうときだけ変に察しがいい。
渋い顔で「そうですよ」と認めれば、先輩はくすくす笑った。
「じゃあ一緒に作ろっか」
「一人分を二人で作るんですか?」
「軽くしか食べてないから、まあそこそこは食べれるよ。僕が空乃の分作るから、空乃が僕の分作るってことでいい?」
だから、もう、本当に。
胸の中をじわじわと、言葉に言い表せないものが満たしていく。きっと一番近いものは『幸せ』なのだろうけど、それだけでは足りない気がした。
結局ふさわしい言葉を見つけられないまま、私は「奇遇ですね。私もそう提案しようと思っていました」と立ち上がる。手を洗って、先輩と色違いのエプロンを身に付ける。
「何食べたかったの?」
「……オムライスとか」
「了解」
「タンポポオムライスでお願いします」
「え、できるかな」
ちょっと焦ったようにスマホで検索を始める先輩に、つい笑ってしまう。その笑い声に反応してこちらを見た先輩は、ふと何かを考えるような顔をしてから、名前を呼んできた。
「ねえ空乃」
「……なんですか」
「卒業したら、一緒に住まない? 実家よりこっちからのほうが会社も近いでしょ」
確かに私が内定をもらった会社は、先輩の家からの方が圧倒的に近い。
近く、はある、けど。
冷静に考えた頭に待ったをかける。この人は今何を言ったのかと、絶句して見つめ返した。
『ねえ空乃』
『……なんですか』
『次のピアスは、僕に選ばせてね』
なんとなく、高校時代の会話がよみがえる。あれはあれで唐突だったが、今日ほどではない。今日のこれは……これは、何だろう。
あのときはすぐにいいですよと返せたし、今も返事は当然一つに決まっているが、驚きすぎて声が出なかった。
「もちろん、無理にとは言わないけど」
……きっと。
きっと先輩はあのとき、私が何も言えなかったら今のように続けたのだろう。滲む不安を隠して、平気な顔を取り繕って、あっさりと。
私がそれに気づかないと、本気で思っているんだろうか。
そんな顔をさせてしまったら、黙り続けているわけにもいかなかった。
「いいですよ」
先輩があからさまにほっとする。
なんとか少し驚かし返したくて、私は短い時間で全力で頭を働かせた。
『じゃあ先輩のピアス穴、私に開けさせてください』
あのときの私のお願いは、『え、やだ。ピアス怖いし』とすげなく断られたけど、
「じゃあ――」
このお願いも断られたらどうしようと、少しだけ不安だけど。
でも、言いたかった。
どんな顔をしてくれるだろうか、と考えることで、緊張を頭から追い出す。勇気を出すために、先輩からもらったピアスに指でふれて。
うるさい心臓の音を無視して、私は貼り付きそうな口を開いた。
「――それと同時に、籍も入れさせてください」
「え。……え、えっ?」
私の精一杯のプロポーズに先輩は思いきり動揺して、用意してあった卵を床に落とした。
その顔は珍しく真っ赤で、私はようやく溜飲を下げたのだった。
大鳥空乃
大学四年生。翼とはもう六年の付き合い。基本的に他人に興味がなく、翼は家族と幼馴染以外で初めて好きになった人。
清楚系の見た目かつ外では猫かぶりが激しく外面がいいので、ピアスを四つもつけていることを驚かれることが多い。翼からの誕生日プレゼントには毎年新しいピアスをねだっている。
今日プロポーズするつもりなんてまったくなかった。同棲を始めるときにどうせまた先輩からしてくれるだろうからいいか、と思っているし、実際そうなる。
須々木翼
社会人一年目。猫かぶりで外面がいいのは空乃と同じ。昔は空乃に対して割と雑な対応もしていたが、付き合い始めてからは結構甘い。空乃のめんどくさいところや素直じゃないところが可愛いと思っている。
暮らしているのは賃貸のマンション。ただの恋人用の合鍵は大家さんに渋い顔をされるだろう、と考え、「まだ向こうが学生なので同棲はしていませんが、婚約はしています」とさらっと嘘をついて合鍵を作る許可を得た。似たようなものなので嘘に対する罪悪感はなし。
告白したのは翼からだが、はっきりと付き合ってくださいと言ったのは空乃のほうなので、プロポーズまで先を越されて実は少し悔しかった。