#003 最悪だ……
ただひたすら森を目指し、俺は尾根を走り下りた。
時には山肌を転がり落ちながら。
まさに這々の体で。
やがて俺は、身の丈を越す木々が生い茂る場所に至った。
だが、森の淵、木々の密度が薄い場所では到底安心出来ない。
空から発見される事を恐れたのだ。
故に俺は、更に奥へと足を進める。
暫くすると、突然森に影が差し、辺りが暗くなった。
件のドラゴンが頭上を通過したのだ。
俺は咄嗟に、その場で身を屈めた。
(俺を見つけたりするなよ!)
祈る俺の耳に、世にも恐ろしい羽音が届いた。
途端に、辺りの木々が大きく揺れる。
その時俺は目にした、
(な、何て大きさだ!)
ドラゴンの姿を。
そして、直ぐさま見た事を後悔した。
全身を止めようのない震えが襲ったからだ。
別段威圧された訳でもなく。
ただただ、その異様に。
それは巨大だった。
豪華客船を彷彿とさせる程に。
それは空を覆った。
世界最大の飛行機を優に上回る両翼で。
人をやすやすと握り込めるだろう大きな手足。
輝きを発する爪は必殺の鋭さを有すると思われた。
それらが成る胴体から、首と尾が長く、長く伸びている。
全身は燻んだ灰色。
まるで、地獄谷で湧く煙の如し。
(南無三!)
俺は影が過ぎ去った後も、心から祈り続けた。
暫くすると、大きな音と共に地面が揺れた。
それに続く形で、先のドラゴンであろう吠え声が辺りに響く。
これまで耳にしていた音が囀りだったかと思う程の音量で。
それに呼応する形で、森の至る所からも大きな咆哮が続いた。
獣の唸り声が途切れ、森に静寂が戻った頃合い、
(ふぅ、漸く森が落ち着いたか?)
俺は再び森を行く。
(もしかしなくとも、ここら一帯は先のドラゴンの縄張りなのか?)
と考えながら。
(だとすると、あのクラスの怪物は森にはいないかもだな)
そう考えると、幾分安心する。
すると、意外な事に俺の腹の虫が鳴った。
緊張が解けた所為だ。
(……そう言えば、放課後に間食を摂らなかったな)
聖羅に「嫌な予感がするから、一刻も早く帰りたいの」とお願いされたからだ。
その結果、彼女に付き纏っていたクラスメートの待ち伏せに合い、そいつからタックルを受け、そして……いつの間にか異世界、か。
実に、不思議である。
——グゥー
(そんな事を考えてエネルギーを消費する前に腹に何か入れろ、か)
とは言え、手持ちは何も無い。
なので、森と言えば果樹、と短絡的に考え実の生る木を探すも、今居る場所が悪いのか何一つ見つからなかった。
そんな訳で何か得ようとするならば、
「危険だと分かっていても、もっと奥深くに行くしか無いか」
虎穴に入らずんば虎児を得ず。
俺は心を引き締めつつ、深い森へと足を進めた。
幸いな事に水場は直ぐに見つかった。
森を分け入って直ぐの、岩肌から水が湧き出ていたのだ。
俺は早速喉を潤す。
「……美味いな」
何とも言えない満足感が広がった。
気持ちに余裕が生まれる。
だが暫くすると、俺は苛立っていた。
「ああ! 何だよこれは! うっとうしいな!」
蚊に似た羽虫に悩まされ始めたのだ。
纏わり付き、肌に止まり、血を吸おうと試みる。
幾度も手で払うも、まるで気にする事なく刺してくるのだ。
そうこうする内に、今度は拳大もある、白い蛾の様な虫までもが幾匹纏わり付きだした。
「これはキツイ……」
堪らず拾った枝を振り回すも、上手く避けられてしまう。
これじゃ追い払えない。
何か他に、虫を寄せ付けない手は無いものか?
海外のサバイバル番組で知ったのだが、全身に泥を塗りたくり虫除けをする手があるらしい。
(が、それは無いな)
ここは魔法やドラゴンが存在する異世界。
泥の中に、とんでもない生物がいる可能性があるからだ。
(ん、魔法?)
そう、この世界には魔法がある。
(しかも、あの魔法なら……でも煙は……しかし、背に腹は……ああ、また羽虫が!)
俺は急いでハンカチを取り出し、鼻と口を覆う。
その上で、
「嫌いだけど仕方がない。<煙よ!>」
魔法を唱え、周囲に噴煙を吹き出した。
虫除けとして。
何処かで、そんな話を聞いた事があったのだ。
清涼な空気に代わり、強烈な臭いが辺りに満ち満ちる。
余程臭いのか、羽虫が次々に落ちた。
それどころか、蛾までもがその場に力なく落ち、やがては動かなくなった。
(虫除けと言うか、最早殺虫剤だ)
俺は予想を上回る効果に驚き、目を丸くする。
「もしや、煙魔法は万能?」
だが、驚くのはそれだけでは無かった。
何と、大きな蛾が僅かに霞がかったかと思うと消えたのだ。
薄っすらと白く輝く、とても小さな石を残して。
「……何が起きた?」
小さな羽虫の死骸は残り、大きな蛾は消えた。
代わりに奇妙な石を残して。
この不思議な現象について、思い付く事は幾つかあった。
「なら、試してみるか」
俺は小石を拾い上げる。
指先で摘んだ石を意識しつつ、
「<ステータス・オープン>」
と口にした。
すると、案の定、
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名前:バンパイア・モスの魔石
価値:1
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が現れたのである。
(これ以上無いぐらい簡素だな……)
だが、知りたい情報は得られた。
この石は魔石(ファンタジー小説などで魔道具のエネルギー源に使われるアレだな)らしく、うっとおしかった蛾はバンパイア・モスと言うらしい。
では、価値とは何なのか。
「ふむ……」
ある考えに至った俺は、自身のステータスを表示してみる。
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名前:倉内類
種族:人族
性別:男性
出身:
所属:
年齢:16
状態:健康
レベル:1
経験値:3
称号:
ジョブ:
スキル:煙耐性
魔法:煙属性
体力:20/22
魔力:1/2
力強さ:8
素早さ:6
丈夫さ:6
心強さ:5
運:3
カルマ:50
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バンパイア・モスが消え、代わりに価値一の魔石が三つ、その場に残った。
加えて、経験値が三増加している。
魔石の価値と得られる経験値はイコールなのだろうか?
いや、そう決めつけるのはまだ早い。
それに、だとするならば羽虫から経験値を得られないのは何故なのか?
もっと言えば、死骸が消えずに残るものと、消えて魔石を残すものとの違いは?
「死骸?」
俺は羽虫の死骸を摘み、ステータスを確かめる。
表示されたのは、
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名前:バンパイア・フライの死骸
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であった。
「蛾か蝿かの違いのみか」
ますます分からなくなる。
「……今考えても仕方がないか」
俺は全ての魔石を拾い、その場を後にした。
森の奥へと進んでから三時間が経過した。
不思議と動物に遭遇しない。
足跡らしき物は時折見かけるも、大半は小動物の物と思われた。
が、中には俺の足よりも大きな物も。
「樹皮に刻まれた爪痕といい、あんまり良い予感がしないんだがな」
森に足を踏み入れた当初の目的、果実は未だに見つかっていない。
実が生るにはまだ早い時期なのだろうか。
その代わりなのか、度々遭遇するのが先の虫達だ。
今もまた、俺を取り囲んでいた。
なので——
「<煙よ!>」
ハンカチ越しにくぐもった声を都度辺りに響かせる。
これを大体三十分に一回の割合で、俺は行っていた。
ちなみにだが、魔力と体力は時間の経過により回復する事が判明している。
共に三十分に一程度だ。
魔法を使う度に魔力だけでなく、体力も減る。
どうも煙魔法とやらは、唱える俺自身にも有害らしい。
纏わりつく匂いといい、全く忌々しい限りだ。
「……小動物が見当たらないのは、臭いから身の危険を察知して遠ざかってるのかもな」
尚、俺はレベルが上がった。
今やレベル二だ。
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名前:倉内類
種族:人族
性別:男性
出身:
所属:
年齢:16
状態:健康
レベル:2
経験値:8
称号:
ジョブ:
スキル:煙耐性
魔法:煙属性
体力:20/25
魔力:2/3
力強さ:9
素早さ:7
丈夫さ:6
心強さ:6
運:3
カルマ:51
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その結果、新たに判明した事が幾つかある。
一つは、レベルが上がると体力と魔力は増加し、加えてステータスも微増した、と言う事だ。
「ほんと微増。〝丈夫さ〟に至っては変わってないし」
次に分かったのは、魔石の価値イコール経験値ではない、である。
具体的に言うと、レベル二に上がってからはレベル一のバンパイア・モス(煙で瀕死の所を確認した)を二匹倒して漸く経験値が一つ得られる。
ゲームに良くある、レベル差による取得経験値減少、だな。
最後に、十匹目のバンパイア・モスを倒した時点でカルマが一つ上がった。
百匹倒すと六十に至るのかもしれない。
「しかし、そろそろ拙いな」
腕時計の針が三時半を示していた。
この世界が一日二十四時間かどうかは分からない。
だが、太陽の傾きとその速度から、後数時間もすれば日が暮れるだろう。
空腹のままだと言うのにだ。
俺にサバイバルの素養はない。
都心に生まれ育った現代っ子だからな。
なので話に良く出てくる、罠を仕掛けて小動物を狩る、木に登って一夜を明かす、など俺には到底不可能だ。
「ならば、洞穴など休める場所を」
と考え辺りを見回す。
そんな都合良く見つけられる訳がなかった。
「仕方がない」
俺は僅かな時間でも太陽からの光を得られるよう、西に向かい歩き続けた。
やがて、なんて事はない半円形の窪地を、上から見下ろせる場所に突き当たった。
深さは五メートル程。
三方を岩肌が剥き出しの斜面に囲まれている。
ただし、特筆すべき存在がそこにはいた。
それは体長三メートルは有りそうな巨大な獣。
丸い顔から突き出た鼻、つぶらな瞳。
頭部からは丸い耳が二つ付いている。
そして、なによりも特徴的なのは太く大きな手足と鋭い爪。
そう、熊だ。
異世界にも熊がいたのだ。
まぁ、蛾がいて蝿もいたのだ、熊がいてもおかしくはないだろう。
ただ、赤い鎧兜を着ていなければ。
「もしくは鱗か? いずれにしろ、アレにこれ以上近づく気は起きないな」
何故ならば、その熊は食事中だったからだ。
大抵の四つ足は食事の邪魔をする者を許さない。
人に飼われているペットであろうともな。
野生の獣であれば尚更である。
時に、異世界の熊は何を捕食してるんだ?
俺は身を隠しながら見下ろせるであろう茂みに身を潜め、崖下を窺う。
熊が内臓を貪り食う相手は、パッと見は猪に似ていなくもなかった。
「熊が猪を喰らうのか……」
元の世界では寡聞にも聞いた事がない。
シベリアでは虎とヒグマが互いに捕食し合ってるらしいとは聞いたがな。
などと雑学を思い出していると、酷い飢餓感が俺を苛み始めた。
それどころか、
——グゥー
腹が高らかに鳴った。
きっと、食い物の事を考えてた所為だ。
(最悪だ……)
刹那、熊は顔を上げ、辺りに耳を澄ませる。
更には鼻を上に向け、匂いを頻りに嗅ぎ始めた。
拙いな。
確か、熊の嗅覚は犬の二十一倍程あるとか。
事実ならば、ほ乳類最強の匂いセンサーを有する事に。
汗ばんだ人の匂いなど、立ち所に嗅ぎ付けるだろう。
だからと言って、今すぐ逃げ出せない。
いや、体が動こうとしないのだ。
(恐いのか? ……ああ、その通りだ。音を立てて熊に気付かれるのがな)
と、俺は自問自答した。
その直後、熊が俺のいる茂みに顔を向ける。
(ん? 右目が潰れてるな)
だが、一つ残された目が俺を捉えた気がした。
と思いきや、熊は食事を再開する。
一方の俺は気を失いそうになった。
張り詰めた気が、急に弛緩した所為だ。
その後、熊は何度か辺りを警戒しつつも、猪の内臓を粗方食した。
かと思うと食い残しを咥え、窪地を囲う崖に空いた穴の中へと消えた。
俺は更に五分程様子を見た後、
(今のうちに急いでここを離れよう。あんな熊のいる側で休める訳がないからな)
その場を後にした。
それは正しい選択であった筈だ。
だが、相手が悪かった。
後で知ったのだが、先の熊が右目を潰されていない個体であれば問題なかったのだから。
暫くすると、背後から獣の唸り声が響く。
驚き、振り返る。
そこには片目の大熊が、文字通り仁王立ちしていた。