#026 スモーカー
「ルイ、起きて」
俺を呼ぶ声が、馬すらも寝静まった馬小屋に響く。
(この声は……キリク!?)
俺は思わず跳ね起きた。
「キリク! か、体は大丈夫か!?」
「全然大丈夫」
そう答えた彼女は、頭にボロ布を巻いている。
(本当? でも、殴られたのは胸の辺りだった筈だが……あの後、頭を打ったのか? それに、この甘酢っぱい匂い。薬草の類だろうか……)
「この頭? これは怪我したとかじゃ無いよ。レイナがやってくれたの。黒髪だと不味いからって」
「ああ、早速毛染めしてるのか」
「びっくりした?」
「うん。見た瞬間、ヒヤッとした」
「でも、ぶたれた所は今も痛いよ。痣が出来てたし」
途端に、頭に血が上る。
「あの従者め、許さん!」
そこに、
「ルイさん、お静かに。馬が興奮してしまいます」
レイナが現れた。
「それと、おはようございます」
「おはよう」と言いつつ、俺は気付く。「まだ、暗いな。夜明け前か?」
「ええ」と言いながらニコニコして近付く若女中。「商家の朝は早いのです」
ところがである、一足の間合いに入った途端、彼女は顔を顰めた。
そして、鼻をすんすんする。
次の瞬間、彼女は衝撃的はセリフを吐いた。
「臭いますね」
「何!?」
「ルイ、クサイ」キリクまでもが言う。「ミズアビ、スル」
俺は迷う事なく同意した。
庭の隅で水を浴び、
「これを使って体を隅々まで洗って下さい」
渡された、
(石鹸あるんだな)
で体を隈なく洗う。
程良く自然乾燥した頃合い、僅かな量だが香油を刷り込まれた。
「アタシ、ヤル!」
「キリクちゃんはやった事がないでしょう?」
「ヌル。ダイジョウブ!」
「じゃ、手分けしてやりましょう? 私が前をするわね」
「良いよ。前は自分でやるから」
「……チッ」
何でだよ。
「それにしても、石鹸も香油も貴重じゃないのか?」
石鹸で成り上がる。
良くある話だ。
「最近はそうでもないです」
うーん、残念!
「香油を塗り終わりましたら、ルイさんの髪も染めてしまいましょう」
良いね! 高校デビューならぬ、異世界デビューだ。
「ああ、頼めるか?」
「キリクとオナジイロ!」
「はいはい。分かってますよう」
既に準備されていた薬剤を、
(灰色のドロにしか見えないんだが……本当に大丈夫? 後、キリクのと違って、凄く酸っぱい匂いがするんですけど!)
を髪に満遍なく塗り込む。
少女が二人してキャッキャキャッキャ言いながら。
(……頭が随分と重くなって来たんだが……ちょっと量が多すぎないか?)
その後、日が差し始めた場所に移り、朝食を手渡された。
硬くて固い、黒パンだ。
「良いのか?」
俺、非人なんだぞ? と目で訴えてみる。
レイナは、
「ふふふ」
と微笑みながら小さく頷き返すのであった。
やがて、少し離れた場所で煙が二つ、発生したのが分かった。
(煙を感知した? それも小さい。竃の種火でも熾したか?)
内一つがこちらに向かう。
(動いた?)
首を傾げると、
「どうかしましたか?」
「いや、何でも無……」
そうこうしている間に、煙管を咥えたイーノスが現れた。
「おはようございます、ルイ君」
「(煙草の煙だったか……)ああ、おはよう」
「朝食は食べ終わった様ですね。なら、丁度良かった」
彼は店主からの伝言「出来るだけ早く、裏口から出ていく様に」を伝えに来たのだ。
「分かった。感謝する、と伝えておいてくれ」
「承知しました」
「でも、これからどうする積りですか?」
レイナが尋ねる。
キリクが俺を見上げた。
若シャーマンがフーッと煙を吐く。
俺は直ぐ様ハンカチを取り出し、鼻を抑えた。
「当初の予定通り、領都にある有用そうなスキルと魔法の習得を目指す」
「それには大金が必要です。あと、コレそんなに臭いですか?」
「臭いな。今すぐ死んで欲しいぐらいに」
「出会った日の貴方も相当臭かったですよ。ルイ君を担いで運ぶ時、鼻が酷く痛みましたから」
「そんなに!?」
だがそれは、煙魔法の所為だ。
決して、俺の体臭では無い……筈。
「今も、とても酸っぱい匂いがしています」
「それは毛染めをしているからだ」
そうだよな? とレイナを見ると、彼女はやや困った顔を浮かべていた。
「塗り込む量が多過ぎたかも知れませんねぇ」
「オオスギル、オモッタ」
そう思ったら止めよう?
「なぁ、本当に大丈夫なんだよな?」
髪の毛が溶けて、ハゲてたりしないよな?
「私も何だか心配になってきました。少し早いですが、流してみましょう」
嘘でしょ? 嘘と言ってよ、レイナー。
ああ、もしハゲ散らかしてたら如何しよう。
黒髪以上に生き辛くならない?
俺の心はココにあらずとなり、手を引かれるままに井戸の在る場所へと連れて行かれる。
そして、頭を垂れさせられた。
そこに、水を勢いよく浴びせられる。
「ア……」
「これはちょっと……」
「不味いかもしれませんね……」
何!? 俺の頭に何が起きてたの!?
知りたいのに知りたくない。
俺の心が、ちょっと気になり始めた女子の恋愛事情を知る機会を得た男子、の様な板挟みに陥った。
だが、そんな事は言ってられない。
「構わん。この際だ、はっきり言ってくれ」
しかし、誰一人答えようとはしなかった。
(そんなに酷いのかよ!? 終わった。俺の異世界デビューが終わった……)
水音のみが辺りに響く。
そんな時間が暫く続いた。
「次はキリクちゃんの番だね」
「………………………………ウ、ウン」
一瞬俺の頭を見てから顔を逸らしたキリク。
結果を如実に物語っていた。
「……なぁ、イーノス?」
「…………………………はい」
「自分で触れるのが怖い。髪が残っているか否かだけでも教えてくれ」
「残ってはいます……よ?」
「…………………………そうか」
何て答え方だ。
見るからに変なのだろう。
それは髪の残り具合か?
それとも、色か?
俺の心が嘗てない恐怖を感じている。
家が火事だと知った時以上の、ゴブリン・レンジャーに襲われた時以上に。
そうこうしている間に、キリクの頭からボロ布が外される。
その時俺は目にした、
(毛染薬の量が雲泥の差なんだが……)
驚愕の事実を。
(しかも、既に変食後の髪色が露わになっている。これは……)
「良かった。キリクちゃんのは綺麗な金髪よ」
何故なのか?
「ヨカッタ!!」
キリクが心の底から嬉しそうにしている。
あれ程、俺と同じ髪色に染めたいと言っていたのにだ。
(何故なのか?)
俺は恐る恐る髪に手を伸ばす。
すると、
(在る! ココに髪は在るぞ!)
しかも、ボリュームに変化は感じられなかった。
(となると……)
もう理由は分かっている。
染めた髪色がおかしいのだ。
(一体何色に変わったんだ?)
その答えは、
(ん? 誰か来たぞ?)
意外な形で齎された。
「話は済んだか? ならとっとと……げぇ、灰色の髪って初めて見たぜ……」
(誰だ!? うわっ、髭が喋った! って、店の主か……じゃねーよ!)
なんと俺の髪は、
「灰色ってなんだよ!?」
に変わっていたらしい。
レイナを睨み付けると、彼女はさっと目を逸らした。
「……………………よくお似合いですよ?」
「カットに失敗した床屋みたいな台詞だな!? あと、俺の目を見てから言えや!」
「ステキ、ダヨ?」
「キリクは同じ髪色にしてから言え!」
「ルイ君の髪型に色が合ってますよ」
「今すぐ、おかっぱ頭にしやるから来い!」
そして最後に店主が俺に止めを刺す。
「黒目黒髪の強欲王ならぬ、黒目灰髪の煙術師か。ぴったりじゃねーか」
俺はその場に、五体投地で倒れ伏した。