人は死ねばどうなるのか?仏教編 ④
(大乗)仏教において、煩悩を抱いた生命が死んだあとに生まれ変わる「六道輪廻」とは別に存在し、輪廻から開放された「極楽浄土」の世界についての説明と、それと「仏」の種類やその仲間たちについての説明。
ひろさちや氏の『よくわかる仏教の知識百科』を参照しています。
◆ 「極楽浄土」の世界
「極楽世界」とは、輪廻とは無縁の世界、すべての煩悩から「解脱」した世界のこと。
極楽世界の在り処は、どの仏教書をひもといても「西方十万億仏国土をすぎたところ」と書かれてはいるが、これは俗世の人間世界における距離感や方向感覚で測ったようなもので、極楽世界は、いわゆるこの世にもあの世にも存在しない。
煩悩を持った者が輪廻する「六道」の世界とは、次元の異なる場所に存在する世界。
しかし、この極楽へ生まれ変われば、臨終の際に断末魔の苦しみに襲われることもなく、冥途の暗い旅路をさまよい歩いて7度の裁判にかけられることもない。
なぜならそれは、仏の特別のはからいで、面倒な手続きなどいっさい踏むことなく、極楽へ招待してもらえるから。
「極楽」とは、自力で悟りを開いた者が到達する輪廻のしない「涅槃」の境地とは違い、仏が、自力では悟りを開く(解脱)ことのできない者たちのために、仏自らの力でつくりあげた世界で、この世界を人々は「仏国土」と呼んでいる。
この仏国土に招待される資格を持つ人は、もちろん生前に多くの善行を積み上げた超善人だけ。
● 極楽世界の生活
「極楽」とは、いたれりつくせりの理想郷となっていて、遠く地平線を眺めれば五百億もの宮殿や楼閣がそびえ立ち、一日じゅう、ここちよい仏の声がどこからともなく響き渡り、あたり一面には馥郁たる香りが漂っている。
樹木には宝石がちりばめられ、川や池には金砂、銀砂が敷き詰められている。人びとはその金砂の川、銀砂の池で舟遊びに興じ、妙なる音楽を奏で、七色の華をまき散らす。
住居も豪華な宮殿造りで、全体が四宝(金・銀・瑠璃・水晶)で飾られ、庭園には七宝(四宝にシャコ貝、サンゴ、瑪瑙を加えたもの)の池、そしてそこには車輪のように大きな蓮華の花が絶えず咲き乱れている。
住人もリッチで、体そのものが金色に輝き、縫い目のない衣装をまとい、あらゆる種類の装身具で飾り立てている。
そして空腹時には七宝でつくられた食卓がどこからともなくあらわれ、そのうえ各人の好みに応じた山海の珍味がふんだんに盛られて出てくる。
しかしこれらのことはほんの一部で、ことばではとうてい語りつくせぬほどの荘厳な世界、それが「極楽」世界なのだ。
しかし、この極楽ライフは、けっして怠け者のためにあるのではなく、極楽世界の住人は、日々、仏の説法にじっと耳を傾け、修業に励んでいる。
言い換えれば、「極楽浄土」とは、仏が用意した一大「仏教修業」の道場となっているのだ。
いたれりつくせりの待遇も、彼らが何の不自由なく仏教修業に専念できるようにとの、仏の配慮によるものなのだという。
● 阿弥陀如来のつくった「極楽浄土」
「極楽」とは、正式には「西方極楽浄土」といい、ここは「阿弥陀如来」が建立した「仏国土」とされている。
実は、「極楽」とは一つだけではなく、宇宙には無数に諸仏がいて、その無数の諸仏たちが各自それぞれに自分たちの国土=仏国土を持っているのだ。
したがって「極楽」の数も諸仏の数だけ存在するということになる。
いわゆる「極楽」=「西方極楽浄土」というのもまた、それは阿弥陀如来という仏によって建立された、宇宙に数多く存在する諸仏によってつくられた「極楽」のうちの一つにすぎないものなのだ。
では、阿弥陀如来は、具体的にはどのようにして、自分の仏国土をつくったのか。
阿弥陀如来はまだ仏になる前に、「四十八の誓い」(阿弥陀の四十八願)という「本願」をたて、そしてこの「願」を成就することにより、自ら仏となって「仏国土=極楽浄土」を建立したのだった。
いいかえれば、「極楽浄土」とは、阿弥陀のこの四十八願がすべて実現された世界ともいえる。
阿弥陀如来は仏となる前は、「無諍念王」という一人の国王だった。
無諍念王は「世自在王仏」という仏の教えを聞いて、心からの喜びをいだき、自分も仏になって、世の人びとを悩みや苦しみから救いたいと願うようになった。
そして、無諍念王は、国を棄て、王位を捨て、世自在王仏のもとで出家して「法蔵」と名を改め、修行者となり、「法蔵菩薩」となった。
法蔵菩薩は、修行中に、世自在王仏から二百十億もの仏国土を案内してもらったことで、自分もまた優れた浄土を建立したいと思いたち、そのありようを四十八の願にまとめた。
これが四十八願がたてられるようになった経緯であり、この法蔵菩薩こそが、仏となる前の阿弥陀如来だったのだ。
「四十八願」の内容とはどのようなものなのか?
まず法蔵菩薩=阿弥陀如来は、「光明無量、寿命無量」でありたいという願をたてた。
「光明とは智慧」を、「寿命とは慈悲」を象徴している。
また、法蔵菩薩は「王本願」という誓いをたてた。
それは、
「どんな悪人でもかまわない。心の底から私を信じ、極楽浄土に生まれ変わりたいと願う者がいて、わずか十遍でも『南無阿弥陀仏』と私の名号をとなえたなら、その者を必ずこの浄土に生まれるようにしたい」
というものであり、さらに、
「私が仏となることができても、この四十八願が一つでも成就しないならば、私は絶対に仏とならない」
という誓いだった。
そしてこの法蔵菩薩が、現に、阿弥陀如来となって、仏となって極楽浄土を治めているということは、すなわち、この四十八願が、西方極楽浄土では成就されているということだ。
◆ この宇宙に無数に存在する「仏」と「浄土」の存在
(大乗)仏教において、この宇宙には無数の諸仏が存在するとする。
しかし私たちが知っている歴史では、釈迦国の王として生まれながらその栄達を捨てて出家し、修業の末にさとりを開いた「釈尊」が、最初の「仏」だと教わっている。
「仏教」とは、文字どおり、「仏の教え」という意味だが、
それともう一つ、凡夫が「仏になるための教え」という意味もある。
つまり、仏教においては、仏と人間(凡夫)は連続した関係にあるもので、凡夫も、修業によって仏になることができるのだ。
だから、「仏」というのは、修業により、「真理に目ざめて、人間を超越した存在」となった人のことを指す。
「仏」=「真理」
釈尊(仏の第一号である釈尊)も、「真理」をさとることによって「仏」となった。
であれば、釈尊と同じ「真理」をさとれば、誰もが「仏」となることができるということになる。
釈尊だけが仏なのではない。釈尊の前にも仏は存在しなかったのか。
釈尊の入滅後、それを考えた仏教哲学者たちは、
「絶対に存在したはずだ」という確信のもと、「過去仏」という存在をつくりあげた。
最初、それは「過去七仏」なるもので説かれた。
釈迦牟尼仏=釈尊がこの世に出現される以前に、六人の仏が現れ、それぞれぞれの教えを説かれた、というもの。
過去仏があれば当然「未来仏」も存在するはずで、それが兜卒天にあって修行中の弥勒菩薩になる。
かくして、時間軸の上に、「過去仏」と「未来仏」が並ぶようになり、最初は七仏であったものがしだいに数をふやしていき、ついには無数の仏が説かれるようになった。
だけでなく、次いで、空間軸においても、無数の仏が説かれるようになった。
時間軸において仏が無数にいるなら、当然、空間軸――東西南北――のどこに行こうが仏はいるはず、つまり宇宙には無数の仏が充満しているのだ、と考えられるようになった。
はるか西方には阿弥陀仏がいて「極楽浄土」を建立していて、
東方に転じれば薬師如来がいて「浄瑠璃世界」という浄土を建立している。
と、こうして、宇宙には無数の仏が存在し、無数の浄土を建立している、と考えられるにいたったのだった。
● 「仏」の3タイプ
仏教において、宇宙における「真理」はたった一つで、その真理を体現しているのが「仏」となる。
ただ、登場のしかたによって大きく、
①、法身仏
②、報身仏
③、応身仏の3タイプに分類できる。
①、法身仏
永遠の過去から永遠の未来にかけて仏でありつづけるタイプの仏=無始無終の仏。
いわば「真理」そのものを体現した仏で、仏教学では「法身仏」と呼ばれる。
「真理」は宇宙に普遍的に充満しているので、この仏は宇宙そのものを体現している。
②、報身仏
これは、修業の結果、仏となり、そして永遠に仏でありつづけるタイプの仏=有始無終の仏。
修業の報い(結果)として永遠の仏身を獲得したので「報身仏」と呼ばれる。
③、応身仏
これは、「成道」という初めと、「入滅(入滅)」という終わりを持ったタイプの仏=有始有終の仏で、「応身仏」と呼ばれる。
①のタイプの「法身仏」として有名な仏は、「毘盧遮那仏」。
奈良東大寺の大仏として有名な仏様。
毘盧遮那仏は太陽を象徴する仏で、太陽が太陽系の中心にあるように、彼の仏国土「蓮華蔵世界」も極楽世界の中心に位置している。
毘盧遮那仏は、千葉の蓮華台座の上に座っているか、この蓮華の葉の一つ一つはそれぞれ一つの世界を象徴していて、実はその一枚一枚の葉に、②のタイプの仏が出現することを物語っているのだ。
さらに、その一世界にはそれぞれ百億の国があり、その一国ごとに③のタイプの仏が出現するとされる。
つまり、毘盧遮那仏とは、宇宙の全体を包括し、その蓮華台の葉は、そこから無数の仏が顕現することを雄弁に物語っているのだ。
この①のタイプの「法身仏」は、宇宙そのものといってよい存在ゆえに、「沈黙の仏」といわれる。
実際、直接、衆集に語りかける身は持たず、そのために③のタイプの仏をつくり出し、その仏の口を借りて衆集に教えを説くのだ。
①のタイプでは他に、「大日如来」が有名。
この大日如来は少し特殊な存在で、①のタイプの仏は「沈黙の仏」であることが普通なのに対し、大日如来は「雄弁の仏」といわれる。
しかし、①のタイプの仏であることには変わりはなく、そのためその口から吐かれることばも、おのずと神秘的な表現とならざるをえず、大日如来のことばは「秘密の教え」として、そのままでは普通の人間には意味不明で聞き取ることができないものとなっている。
そこからこの「大日如来」は、「密教」の仏とされる。
次いで②のタイプの「報身仏」として有名な仏は、「極楽浄土」を建立した阿弥陀如来や、「浄瑠璃世界」を建立した薬師如来がいる。
阿弥陀如来は「四十八の願」を立て、どんな悪人でも救われるような極楽浄土の建立するという請願を立てたが、
薬師如来もまた、修行中に「十二の願」を立てて、
「五体満足でない者や、精神病などで苦しんでいる者」がいない、
「病気中に助けがなく、食物も薬もない者」がいない世界を願って、「浄瑠璃世界」という彼の極楽世界をつくりあげた。
③のタイプの「応身仏」として有名なのが、「釈尊」になる。
しかし、「仏」は「真理」であり、「真理」は一つであるため、これら仏の間に優劣の差などはない。
しかも、③のタイプの仏のみが、生身の肉体を持って、われわれ人間に理解できる言葉で仏の教えを説くことができるのだ。
◆ 仏の一族
● 「菩薩」
「仏」と「如来」は同じ意味で、如来とは「真如より来たれる者」を意味する。
「真如」とは何かというと、要するに「真理」のことで、
「如来」とはすなわち「真理の世界からやってきて、真理の体現者として、衆生を教える存在」という意味になる。
この「仏=如来」には、多くのファミリーが存在する。
「菩薩」とは、衆生を救うために極楽世界から派遣された、如来ファミリーの一人で、仏の代理人であり、仏に準じた存在。
菩薩の中で有名なのが、「兜率天」にあって、56億7千万年後に仏となってこの世に出現すべく修業にいそしむ「弥勒菩薩」。
智慧の光を持って衆生を輪廻世界の迷いから救ってくれる「大勢至菩薩」。
賽の河原で鬼たちにいじめられている幼な子たちをやさしく見守る「地蔵菩薩」。
● 「明王」
柔和な顔相で、やさしく真理の教えを説く仏たちに対し、いつまでも仏の教えを理解しようとしない、品行のよろしくない者たちに向って、こわもてで威嚇しながら、仏の道へ教え導こうとするのが「明王」。
菩薩が如来の代理人とすれば、明王は如来の使者というべき存在。
しかし形相は憤怒そのもので、上半身はもろ肌脱ぎ。くわえて右手には剣を持ち、左手には羂索と呼ばれるひもを握っている。
明王は、悪人をみつけるや、手にした羂索で縛りあげ、場合によっては剣を振りおろして悪人の命を絶ってしまう。
この明王ファミリーの中心は、「不動明王」をはじめとする「五大明王」で、他には、四つの顔と八つの手を持つ四面八臂の「降三世明王」や、一面八臂の「軍荼利明王」、三面六臂の「金剛夜叉王」、人間の愛欲を浄化し、男女の愛の悩みを救ってくれる「愛染明王」がいる。
● 「天」
「梵天」や「帝釈天」など、仏教世界で「天」といえば、いわゆる「神様」たちのことを指す。
「天」と「神」は同義語といってよい。
「天神様」というが、二つはまったく同じ意味になる。
この「天」ファミリーは、仏教の守護神、仏の世界のガードマンというべき存在。
とはいえ、仏国土は犯罪などないところなので、おのずと仏国土の外へと出て、仏の世界を守ることになる。
彼らは須弥山世界の天界に出張所を設けて、見張りをつづけている。
もともと、この天ファミリーの神たちのほとんどは、釈尊の誕生以前から、海や山、太陽や雨などの自然現象をつかさどってきた異教の神々だった。
それが、のちに仏の教えに深く帰依することで、仏教の守護神となったのだった。
「天」ファミリーには、二つの家系があって、その一つが「貴顕天部」と呼ばれる比較的穏健な一族。
「貴顕天部」には「梵天」や「帝釈天」、出産と育児の神であり、吉祥天の母でもある「鬼子母神」、河と音楽の神であり梵天の妻である「弁財天」、芸術の神である「伎芸天」などがいる。
もう一つの家系は「武人天部」で、おおむね甲冑に身をつつみ、武器を手にしている。
天界の下天を守護する「四天王」や、「十二神将」、「執金剛神」などが有名。