仏教における死後の世界 ②
人は死ねばどうなるのか?仏教編②
(大乗)仏教において、死者が死後、三途の川を渡って計7人の王による裁判を経て生まれ変わりの世界が決められる49日間の「冥土の旅」についての詳細。
今回はひろさちや氏の『よくわかる仏教の知識百科』を参照しています。
◆ 仏教の説く世界観・宇宙観
仏教では、「世界」という言葉の"世"とは過去・現在・未来の三世を意味する時間的ひろがりのことをいい、
"界"とは東西南北上下の空間的ひろがりのことをいう。
「宇宙」という表現もまったく同じで、"宇"は「界」と同義語で、"宙"は「世」と同義語になる。
「仏教における世界観・宇宙観」とは、われわれ衆生をとりかこむ"時間的・空間的ひろがりを含めたいっさいのもの"が、どのようなしくみになっているのかということについての見解。
・「二元的構造論」
仏教の説く「世界観・宇宙観」では、その世界像を大きく「輪廻する世界」と「輪廻しない世界」とに分けて考える。
「迷いの世界と悟りの世界」「此岸と彼岸」「煩悩の世界と涅槃の世界」
「輪廻」とは「生き変わり、死に変わりすること。霊魂が転々と他の生を受けて迷いの世界をめぐること」
・「六道輪廻」と「因果応報」
さらに仏教では、この転々と他の生を受けて輪廻する世界を、六つの世界に分類できると考え、それを「六道輪廻の世界」と呼んでいる。
一、地獄(道)
二、餓鬼(道)
三、畜生(道)
四、修羅(道)
五、人(道)
六、天(道)
人は、「輪廻」をくり返して、この六つの世界を永遠に「転生」しつづけることとなる。
また、そのいずれに生まれ変わるかは、その生き物が生きている間に、どのような所業をなしたかによって決定される。
悪事を為した者は地獄に堕ち、善を為した者は天に生まれ変わることができ、仏教ではこの考え方を「因果応報」という。
「六道」の六つの世界は「輪廻する世界」であり、それは「迷いと煩悩の世界」でそれぞれの世界に応じた"苦"を永遠に受け続けるということを意味する。
一方、「輪廻しない世界」とは、この世のいっさいの迷いや煩悩から解放された、「悟りの世界」「仏陀の世界」であり、われわれが「極楽浄土」と呼ぶ理想世界のこと。
六道輪廻の世界から脱出して、もはや二度と輪廻することのない世界、極楽浄土に到達することを「解脱」という。
仏教の教えとは、この「輪廻の世界」からの「解脱」にあり、どうすれば悟りを開いて「仏陀」になり、輪廻しない世界に往生できるかということを命題にした教え。
◆ 死後、どんな世界が展開するのか?
古代インドでは、人間の身体の中には64の「マルマン」があり、その一つが何かの拍子に切断されると激しい痛みが起こって、人間は死ぬと思われていた。
この「マルマン」の音写が「末魔」で、そこから人間の死に際を「断末魔」と呼ぶようになった。
死後は「因果応報」の原理によって六道のいずれかの世界に生まれ変わる。
生前に悪いことをしていれば地獄に堕ち、善いことをしていれば天界に生まれ変わることができるが、死後、死者たちには「裁判」が待っている。
その裁判を受ける世界を「中陰」の世界と呼ぶ。
現世と来世の間だから「中」で、現世の陽に対して死後の世界は幽冥なので、「陰」という。
その裁判に必要な期間が「49日間」。
死者の追善供養のために行われる「仏事」の期間だが、死者にとってはその間のことが「冥途の旅」ということになる。
「冥途」とは、死者が住みつく場所ではなく、ただそこを通過するだけの冥界の土地という意味で「冥"途"」という書かれ方になる。
・ 「死出の山」
死者が冥途へ旅立つにあたってはその出発点に大きな山があり、死者はその大きな山の裾野の道を進むことになる。
その山が「死出の山」と呼ばれるもので、この山は高さは不明だが長さが800里(約320キロ)もあり、死者はこの山路を星の光だけを頼りに7日間に渡って一人で歩かされる。
この間、死者はきわめて微細な体をしていて、人間の目には見えないが、「香」を食物としているという。そこから彼らを「食香」と呼び、それが仏壇にお線香を絶やしてはならいないという根拠になる。
・「秦広王」の裁判
死者は死出の山路を7日間歩くと、「秦広王」の裁判にかけられる。秦広王は死者の生前の殺生について取り調べるという。
・「三途の川」
死者は、秦広王の法廷をすぎると、「三途の川」にさしかかる。
冥界を横切って流れる大きな河で、「三途の川」の由来は、この三途の川を渡るのに三通りの途があることから名付けられた。
「渡る所に三有り。一には山水瀬。ニには江深淵、三には有橋あり」
と、因果応報の原理によって渡れるルートが決まっていて、橋を渡れるのは善人だけ。
それ以外の悪人は川の中に入って渡るしかないが、比較的罪の軽い人は浅瀬を渡れて、重罪の人は濁流を渡らなくてはならない。
また、この三途の川の渡し賃が「六文」とされ、そのため死者を荼毘に付すときに、お棺の中に一文銭を六枚入れてやるという風習が生まれた。
・「賽の河原」
三途の川のほとりにあるのが「賽の河原」。
ここでは、両親よりも早死にして両親の心を痛ませたという罪を負った幼い子供たちが、功徳のため、両親のためを思いながら石の塔を積み上げている。
しかし幼な子たちが塔をつくり上げたとたん、冥途の鬼がやってきて、鉄棒でその塔を壊してしまう。
石の塔積みは子供たちにとって手足が血だらけになる苦行だが、鬼たちの邪魔でいつ果てるともなく続けさせられる。
この行いはやがて、地蔵菩薩が現れて救われるまで続くという。
ただしこの「賽の河原」というのは仏典にはその記載がなく、『法華経』に書かれた「童子戯れに砂を聚めて塔を造り,仏道を成ず」という一文から構想された日本独自の創作だという。
・「懸衣翁・懸衣嫗」による検査
死者が三途の川を渡り終えると、その岸に「衣領樹」という木が一本あり、その木の下では「懸衣翁・懸衣嫗」という二人の爺婆が待ち受けている。
懸衣嫗は「脱衣婆」とも呼ばれ、冥途の旅人から衣服をはぎとるとそれを懸衣翁に渡し、懸衣翁は渡された衣服を衣領樹の枝にかける。
この木は衣の持ち主が生前に犯した罪の軽重によってしなる度合いが変わるという特殊な木で、そのデータが、その後の裁判の証拠として使われることになるのだという。
・「七人の裁判官による裁判」
三途の川を渡り終えた死者たちにはいよいよ、来世の行き先を裁く本格的な裁判が始められることとなる。
仏教では、誰でも守らなければならない「五戒」がある。
それは、
1、不殺生戒 (みだりに生物の命を奪わない)
2、不偸盗戒 (ふちゅうとうかい:盗んではならない)
3、不邪淫戒 (セックスにおいて、みだらであってはならない)
4、不妄語戒 (うそをつかない)
5、不飲酒戒 (酒を飲まない)
というもので、これらのことについて調べられる。
この裁判は計7回で、裁判官も7人。
1、初七日 ― 秦広王(七日目)
2、二七日 ― 初江王(十四日目)
3、三七日 ― 宋帝王(二十一日目)
4、四七日 ― 五官王(二十八日目)
5、五七日 ― 閻魔王(三十五日目)
6、六七日 ― 変成王(四十二日目)
7、七七日 ― 泰山王(四十九日目)
一人目の秦広王の裁きは三途の川を渡る前に行われ、その第一法廷では、死者の生前の罪について問いただされる。
二人目の初江王の第二法廷では、秦広王からの報告や衣領樹のしなりぐあいのデーターを参考にして、三途の川を正しく渡ったかの審議や盗みについての取調べが行われる。
宋帝王の第三法廷では、死者の邪淫の罪が裁かれる。邪淫を犯していれば男にはネコが陰部にかみつき、女ならヘビが陰部の中に入り込むという。
五官王の第四法廷では、死者の生前の悪を一瞬で量るという魔法の天秤に乗せられ、来世の行き先が表示される。地獄行きの決まった者は、ひたすら五官王に懇願して、あと7日間の猶予を乞うことになるという。
閻魔王の第五法廷では、「浄波璃」という水晶でできた鏡により、死者の生前の悪行がすべて映し出され、もし嘘をつけば舌を抜かれる。
インドのヒンドゥー教の神話によれば、閻魔は人類最初の人間だったという。したがって、最初に死んだ人間も彼が最初で、そのまま死後の世界の王となった。
初め、彼が王となった死後の世界は天上にあったが、やがて悪人たちが大勢やってきたために彼の王国は天国と地獄の二つに二分割されてしまい、また彼自身が死者の選別のために自ら冥府の世界の運営者とならなければならなくなったのだという。
変成王の第六法廷では、五官王と閻魔王の報告にもとづいて、さらなる念入りな審査が行われ、たとえば八大地獄の地獄行きが決定した者でも、その内のどの地獄に行くのかといったことがここで決められるという。
そして最後、7人目の泰山王の開く第七法廷で、死者は最終的に次に生まれ変わる世界が決定される。ただし、これまで6つの裁判の場では、6人の裁判官の慈悲による救済措置がそれぞれ設けられていたが、7人目の泰山王の場合は最後、死者に「六つの鳥居」を示し、その一つをくぐらせて次の生まれ変わりの世界へ導くということが行われるという。そこで選んだ先がその人の「輪廻先」となるが、そのどれを選ぶにしても、死者が生前につくった「業」の結果からは逃れられない。
・悪人救済のために行われるさらなる追加の裁判
日本の仏教では、死者が死んでから、次の生までの間を、「中有」あるいは「中陰」といい、七人の裁判官全員で合計49日かかるため、「中有、中陰」の期間も49日。
「中有、中陰」の期間を終えることを、「満中陰」という。
が、その「中有、中陰」の期間を経て、天界や人界ではなく、他の「三悪道(地獄・餓鬼・畜生界)や「四悪趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅界)」に堕ちてしまった不幸な者たちには、さらにまた三人の裁判官によって、百日目に「平等王」による裁判が、一年目には「都市王」に裁判が、二年目には「五道転輪王」による裁判が行われ、ここで、遺族たちが真面目に死者の供養を行っていれば、特別な救済措置として、死者の罪が許されることとなった。
その供養の機会がそれぞれ「百箇日」「一周忌」、「三回忌」の「法要」になる。
◆ 日本の仏教で葬儀が取り行われるようになった理由
仏教ではもともと葬儀などは行わず、インドにおいてもお墓はつくらない。死体は火葬して骨はすべてガンジス川に流す。
輪廻転生を信じる仏教では人は死ねばまた生まれ変わるので、死体は焼いて処理するだけ。
しかし、仏教の場合、悟りを開いた者ならばもう輪廻することはないので、その場合にはお墓が作られることがある。
日本で仏教のお寺が葬儀を取り行うようになったのは江戸時代に「檀家制度」が整えられてから。
檀家制度とはキリシタン対策のために設けられた制度で、キリスト教を棄教させるために、江戸幕府ではすべての日本人に仏教徒になるように命じた。
また、キリスト教では、死ぬ前に罪の告白をすれば許されて天国行きを約束される「終油」と呼ばれる儀式(「秘蹟」)が行われていたため、それを防ぐため、幕府は仏教のお寺に死者の葬儀を受け持つようにさせたのだという。
日本における仏教の年忌法要は、儒教の考え方に起因していて、儒教の「喪に服す」際の3年が基本となって、三回忌までが普通のものとされた。
49日というのは神道のほうの考えで、神道では人の死の穢れが他人に伝染するという「忌」の期間が49日から100日くらいの間あるとされていた。
そして神道では最終的に、死者の霊魂が神になるまで33年ないしは50年かかると考えられていたため、この間、子孫は死者の霊を祀ることが必要とされたが、平安時代までは、だいたい13回忌くらいまで喪に服すということが行われていたという。
仏教においても死者の次の生まれ変わりが決まった時点で「弔い上げ」となるが、そうなるとお寺にとっては収入になる仕事が減ってしまうことになる。
日本の仏教で行われる年忌法要が、江戸時代以降、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌、百回忌とどんどん増やされていったのは、葬儀を執り行うようになったお寺が、自らの収入を確保していくための財政基盤とするためにつくられていったものだと、ひろさちや氏の『お葬式をどうするか』という本の中では説明されていた。