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仏教における死後の世界 ①

人は死ねばどうなるのか?仏教編①

◆ 仏教における死後の世界


● 仏教には「天国」も「地獄」も実在しない


オウムは、地獄は実在すると信じ込んでいた。

そして、地獄に堕ちるぞと信者を脅して金をまきあげたり、殺したり、犯罪を命じたりしていた。

しかし仏教では、地獄は実在しない。

仏教では実在論を否定する。人間の心の外に実在するものは何もない。


オウムは、はっきりと大乗マハーヤーナを名乗っていた。

ゆえに、実在論は徹底的に否定されなければならない。

このことは、大乗仏教である限り、顕教でも密教でも全く変わることはない。

ところがオウムでは、「真我」の実在を前提にして教えを説いていた。



● 解脱しない限り、人は死ねばまた「六道」のいずれかの世界に生まれ変わる


仏教では人が死ぬと、無に帰するのではなく、次にまた生が始まることになる。

その来世は、その人が輪廻のサイクルから解脱して仏陀にならない限りは、「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人」「天」の六つの世界「六道ろくどう」のうち、どれか一つになる。

その六つの世界のどこに行くかは、現世で作ったその人の「ごう」によって決まる。


仏教では、まだ悟りに達していない衆生(しゅうじょう:生き物)は、死に変わり生まれ変わって、「六道」に転生する。

衆生が死んだとき、「業(ごう:生前の行い)」が良ければ、より上の道に生まれ変わることができる。



● 「輪廻転生」はヒンドゥー教の影響


「輪廻転生」というのは仏教の根本思想となっているが、釈迦の教えに地獄極楽の思想はない。

釈迦は輪廻転生思想を否定し、「死後のことは考えるな」(無記)といっていた。


お釈迦さまの弟子にマールンクヤという思索好きのお弟子さんがいて、マールンクヤは、死後の世界はあるのかないのか、霊魂は不滅なのかそうではないのか、悟りを開いた如来は永遠に存続するのか否か、あるいは宇宙は有限か無限か、といったような質問ばかりしょっちゅうお釈迦さまにぶつけていたが、それに対してお釈迦さまは、

「マールンクヤよ、ここに一人の男がいて、どこから毒矢が飛んできて男に刺さった。友人たちは慌てて医者を呼んできて毒矢を抜いて治療しようとした。そのとき男が言うには、抜いてはならぬ。わたしはこの毒矢を抜く前に知りたい。この毒矢を射た人間を。色は黒いのか白いのか。年齢はいくつくらいなのか。あるいはこの毒矢の成分はいったいなんなのか。このようなさまざまな問いに答えてから治療をしてくれといって、男は矢を抜かせない。やがてその男は死んでしまうだろう。マールンクヤよ、今そなたが尋ねているのはそのようなばかげた問いなのだ。死後の世界があるかどうか、そのようなことは二次的な問題だ」

という、「毒箭どくせんの比喩」と呼ばれるたとえ話でマールンクヤの質問に答えられたという。


輪廻転生は、もともとヒンドゥー教をはじめとするインド古代思想の発想で、日本人が抱いている輪廻転生のイメージも、仏教よりむしろヒンドゥー教のそれに近い。

ヒンドゥー教の輪廻転生では、人間には「アートマン」というものがあって、人間が生まれ変わり死に変わりして、前のときにいいことをした人はより高いところに、悪いことをした人はよりり下にいくとされる。

前世での行いや修行の度合いによって、上から、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄という階層に分けられて生まれ変わって行く。


お釈迦さまは一方で、在家の信者の問いに答えて、「生前によいことをすれば、死んだあと天界に行くことができる。生きている間に悪いことをした人間は、死後地獄に堕ちるんだ」と、いうふうに説いていたが、これは、ひろさちや氏によれば、当時のインドで信じられていた輪廻転生の思想を前提にしての教えだったのだろうとのこと。

仏教においては、その人がそう見るからそう見えるのだと考える。それが「縁起」の思想。


仏教に関しては、教義という形よりも説話という形で伝播していった側面が強いため、インド古来の来世思想や、道教や仙人の思想とごちゃ混ぜになっていることが多々あり、

また、現存の仏教画、伝承などはそれらに影響されたものが残っているため、極楽、地獄のイメージが独り歩きした部分があるという。




● 悟りを開き解脱することで輪廻という苦のサイクルから解放されて「涅槃」の状態へと至る


仏教の目標は、煩悩を去り、悟りをひらき、涅槃ねはんに赴くこと。

そして、「空」を悟ることが本当の悟り。

「涅槃」とは、悟りをひらくことで六道輪廻の生まれ変わりの連鎖から解き放たれて脱出し(解脱)、その脱出した先にある安らぎの世界、あるいは状態のこと。


仏教の「罪」の源は「煩悩ぼんのう」。

罪を犯さないで涅槃に達するためには戒を守らなければならないが、それを妨げるのが煩悩で、煩悩がある限り、死んでも生まれ変わる。六道を輪廻転生する。

仏教では、生まれ変わって輪廻転生すること自体が、罪のあることの何よりの証左であり、輪廻転生とは罪の証し。

生まれ変わるのは、罪あればこそ。

煩悩がなくなれば、「涅槃」に入り、輪廻転生から解脱できる。

その場合は死んだ後も、もはや、生まれ変わらずに、涅槃で永遠を迎える。


罪(煩悩)を断じた人なら、死ねばそれっきりで、もはや生まれ変わってはこない。

煩悩を解脱して涅槃に入る。

が、これは実に大変なことで、厳しい修行をしなければならず、その間、善行を積まねばならない。


小乗仏教では、この世の迷いを断じ切った聖人にさえ四階級があるといい、大乗仏教では、菩薩に四一階級もある。

聖人の最高位は「阿羅漢」で、一切の煩悩を断ち生死を離れた仏教修行の最高段階に達し、ここまでくれば、もう輪廻転生をしないが、次期仏である「兜率天」や「弥勒菩薩」では、一度人間界に生まれ変わった後に、涅槃に行くことになっている。



● 仏教世界では、神もまた六道輪廻の法則から逃れられない。


仏教では、「梵天」や「帝釈天」といった、天上の住人で、天上で生活している「神」たちもまた、六道輪廻から自由ではない。

天人・天上の神にも老衰があり、寿命が尽き、死ねばまた生まれ変わる。

来世に何に生まれ変わるかは、今生までの「業」による。

今生では美しい天人も、来世はドラ猫に生まれ変わることがありうるし、天上から墜落して地獄へ直行することだってありうる。


天上の住民たる神々といえど、汚れもあり、利己心もあり、煩悩もある存在にすぎない。

ゆえに、彼らもまた、煩悩を断ち解脱し、悟りをひらくためには、説法も聞き修行もしなければならない。

兜率天の弥勒菩薩の仕事は、神々に説法をすることで、

釈迦が、王舎城の霊鷲山で説教をされると聞けば、神々も争って駆けつけて、独覚(仏の教えによらないで悟りをひらいた人)や声聞(仏の説教を聴いて悟りをひらいた人)の下座で説法を聞く。



● 「浄土」へ往生することで救われるという大乗思想の誕生


仏教には「実在論」がない。

ユダヤ教やキリスト教、イスラム教といった啓典宗教は実在論が中心だが、仏教は存在を否定し、すべてが「仮」だと主張する。したがって、実在論的な考えがある教えは全部間違いとする。


しかし、釈迦の没後に成立した大乗仏教である浄土教では、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に成仏できるとした。

凡人が解脱して輪廻の世界から脱け出すことは非常に難しい。

歴劫修行りゃっこうしゅぎょう」といい、自力で輪廻の引力圏から脱出しようとするならば、何度も何度も生まれ変わりをくり返して、少しずつパワーアップしていくことが必要だとされる。

生まれては死に生まれては死にという、気の遠くなるような長い時間にわたって修行しなければならない。

しかし、それができない人間では、「自分以外の力で引っ張ってもらう」しかない。

自分の力をはるかに凌駕する大きな力で引っ張っていってもらう。

それが「他力」で、大きな力で引っ張っていってもらった向こうの世界を「浄土」と名づけた。

浄土とは、仏のいる国、仏国土のこと。

そしてその浄土へには、輪廻を脱するために、難行苦行をすることなく、ただ一心に浄土を信ずることによって、浄土に往生させてもらえるのだという。

浄土に往ったら、もはや六道輪廻することはない。

これらの仏国土は、宗教によって名前が異なり、さまざまな浄土が存在する。

浄土宗や浄土真宗では、阿弥陀如来がいる仏国土を「極楽浄土」といい、

日蓮宗や天台宗では、「霊山浄土りょうぜんじょうど」といった。

インドに霊鷲山りょうじゅせんという山があって、そこでは常にお釈迦さまが説法されていて、そこの聖地を、霊山浄土といった。

真言宗では「密言浄土みつごんじょうど」といった。

密言浄土とは大日如来のいる仏国土で、宇宙の中心の浄、宇宙そのものが浄土だという考え。


しかし、浄土という「実在」自体、仏教では矛盾した存在だった。

また、浄土に導いてくれるのは阿弥陀如来や大日如来だが、如来などという「実在」を前提としてしまってもいた。

そのため中国の浄土教では、このような数々の矛盾を正すため、いろいろ工夫を重ね、

阿弥陀如来などという実在は、本当はいないのだ、とした。

阿弥陀如来とは真理に到達した者のことで、仏陀と同義であるから、阿弥陀如来はこの世界に実在していない。

そして、いつでも如来になれるのであるが、法蔵菩薩として人間を救うために、仮にまだ菩薩の位に留まって修行中であるという解釈にした。


なお、日本の浄土宗は教義を説明するときに、このような工夫はしていない。

そのため日本の浄土宗は、もはや仏教ではなくなってしまっている。




● 仏教における「葬儀」のあり方


日本の仏教では、死者が死んでから、次の生までの間を、「中有ちゅうう」あるいは「中陰ちゅういん」という。

現世と来世の間にある宙ぶらりんで、どこに行くのか定まっていない状態のことを指す。


仏教では人が死ぬと、無に帰するのではなく、次にまた生が始まることになる。

その来世は、その人が輪廻のサイクルから解脱して仏陀にならない限りは、「地獄」、「餓鬼」、「畜生」、「修羅」、「人」、「天」の六つの世界「六道」のうち、どれか一つになる。


その六つの世界のどこに行くかは、現世で作ったその人の「ごう」によって決まるため、そこで、生前にその人が現世でどんな業を作ったか調べあげられることになる。

その期間が、「中有、中陰」となる。

その間に、生前の調査をもとに、来世はどこの世界がふさわしいかを決める裁判が行われ、亡者は、七人の裁判官一人ずつ7日目ごとに裁かれていくこととなる。

七人の裁判官全員で合計49日かかるため、「中有、中陰」の期間も49日。

「中有、中陰」の期間を終えることを、「満中陰」という。


が、その「中有、中陰」の期間を経て、天界や人界ではなく、他の「三悪道(地獄・餓鬼・畜生界)や「四悪趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅界)」に堕ちてしまった不幸な者たちには、さらにまた三人の裁判官によって、百箇日と、一周忌、三回忌(二年目)に、再審が行われることとなる。


しかし、日本に伝わっている仏教説話のなかには、ヒンドゥー教の話しがたくさん混じっている。

大安、仏滅、という「六曜」というのも、仏教でも儒教でも、神道でもない。

これは「陰陽道」という「道教」の流れを汲む考えで、道教徒以外では気にする必要もないことだが、日本では、結婚式を教会でやるのに仏滅を気にしたりする。











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