6/かつて失くした未来の君と、これから出会ういつかの君と。
「結婚おめでとう」
「ん、さんきゅ」
「? どうした?」
「いやー、あっちの式場も良かったかなって、未練がさ」
「何言ってるんだ。最高の式だったよ」
「だよね、さんきゅ。本当によ」
◆
暁の歩を進める先に制服を着た男のグループを見つけて、いてもたってもいられなくなった。三人で連れだって歩く男子生徒のうちいずれかが、暁の元カレかもしれない。
彼らはまだ互いを認識していないけれど、もう間もなくだ。
五メートル超のシャンデリアの向こう側で、二人は距離を詰めていく。さらにその奥には結婚式にも頻繁に使われる教会が立っていて、二人を祝福するかのようだった。
やめてくれ。
たまらなくなって、僕は駆け出した。
一息に階段を駆け上る。
間違っても暁と彼らが出逢ってしまわないように。
階段を登り切った僕は、男子生徒の視線から守るようにして暁の前に立ちはだかった。
「あ、あの!」
声をかけたものの、咄嗟に言葉は浮かんでこない。
暁と視線が交錯する。
驚いて息を呑み、目を瞠っている。そんな表情さえかわいらしい。高校の制服に身を包んだ、記憶よりも十年若い暁に見とれてしまい、僕は言葉を失った。
やばい。かわいい。
身体が硬直する。指一本動かせない。
突然登場した僕を訝しみ、暁は首を傾げた。
「えと、私ですか?」
そりゃそうだ。そうなるよ。
「あ、の、その……」
何を話せばいい。
沈黙が長いほど怪しまれるぞ――なんて冷静な分析をしても仕方ない。
この状況を切り抜けてくれるのなら、信じてもいない神様に頭を下げたっていい。
――神様?
「何? 暁の知り合い?」
「うーん、たぶん知らない人だと思うんだけど」
「ってことは何、ナンパ?」
暁と連れだって歩いていた女子高生が、僕をじろりと睨み付ける。
そこで初めて、彼女にも見覚えがあることに気が付いた。
彼女は沢野琴子。旧姓・道田。
勝気に吊り上がった細い眉に、気の強そうな犬歯を覗かせる口元が特徴的な、暁の高校時代からの友人だ。何度か三人で食事にも行ったことがあった。
最後に会ったのは確か、去年盛大に行われた沢野の結婚式だ。
結婚式。
その単語が、嫌な予感を伴って僕の脳裏をちくりと刺す。
結婚式。恵比寿。教会。
何か大事なことを忘れている気がする。思い出そうとして、記憶の海に翻弄される。苦しい。波に攫われているような感覚。ぐるぐると記憶が巡る。
と、頭を覚ますように強い風が吹き抜けていった。
今日は本当に風が強
――かなり風が強い日でさ。
刹那、記憶が一つの像を結んだ。
結婚式場でドレスに身を包んだ沢野が、未練を感じさせる苦い表情を浮かべていた。
――昔から恵比寿の教会に憧れてたんだけどさ。ほら、事故があったじゃん。転落事故。
背筋に悪寒が走り抜ける。
焦燥に駆られるまま、僕は弾かれるようにして周囲に目を走らせた。
思い出した。
この日、恵比寿で事故が起こる。
強い風に煽られ、階段から転落して死亡するという悲惨な事故だった。
その現場に居合わせてしまった沢野は、夢見ていたここでの挙式を諦めたのだ。
――やっぱり赤ちゃんがっていうのは、縁起とか気にしちゃってさあ。
「駄目だッ!」
階段付近で談笑する母親二人の姿を視界に収めた瞬間、一際強い風が吹く。
髪やスカートを押さえる前に、しなくちゃいけないことがあるだろう。
母の手を離れていたベビーカーが、風に煽られ、階段の最上段から投げ出された。
車輪をがたがたと震わせ見る間に加速して段差につまずき横転し何も知らない赤ん坊が投げ出され頭部を強打し命を落とす――
一瞬後に訪れる未来の隙間に駆け込み、強引にねじ込んだ僕の手は、ベビーカーの持ち手をしっかりと掴んでいた。
いつの間にか閉じていた目を恐る恐る開けてみる。
ベビーカーは数段を滑り落ちたところで止まっていた。後輪を踏板に引っ掛けて、投げ出された前輪はからからと空転している。
伸ばした右手はベビーカーの持ち手を強く掴んでいた。
「間に合った……」
間一髪だった。安堵の息をつく。
そしてようやく、左手を包む温もりに気付いた。
振り返ってみれば、僕の左手を暁が掴んでくれていたのだ。
彼女が助けてくれていなかったら、僕は赤ん坊ごと転落していたかもしれない。
上段の暁に笑みを向けると、彼女も相好を崩して、僕に微笑みかけてくれた。
僕が愛した人の、とびきりの笑顔だ。
「ありがとう暁、助かった」
「何で私の名前知ってるの?」
しまった。きょとんとして訊ねる暁に、僕は上手い言い訳を返せない。
「あ、ええと、その」
「まあいっか。私も貴方のこと知ってるしね」
「……え?」
予想もしない言葉に、今度はこちらが驚いた。
もしかして彼女も、僕と同じようにタイムスリップをしてきたのだろうか。
そんな、まさかの展開が脳裏をよぎった。
しかし彼女は、そんな僕の期待を自慢げな笑みで打ち消してきた。
「そうでしょ? セルゲイ・エイゼンシュテイン監督」
「……戦艦ポチョムキンかよ」
「お、知ってるね!」
僕が苦笑を深めるのに反比例するようにして、暁の笑みが一層弾ける。
全く、こんな大変な時に脱力させないでほしい。
でもその答えは、あまりにも暁らしかった。
戦艦ポチョムキン。一九二五年に公開された、古い映画だ。
作中に描かれる乳母車が階段を落ちていくというシーンは、映画史上最も有名とされている。その監督が、彼女の言うセルゲイだった。
懐かしい。付き合って一年経ったころ、僕は彼女の勧めでその映画を一緒に見たのだ。
彼女は間違いなく、月村暁だ。
その日の夜、自室のベッドに横になってからもなかなか寝付けなかった。
恵比寿まで行って大正解だった。
無事に暁と元交際相手との遭遇も阻止し、赤ん坊の命を救い、母親からは何度も頭を下げられ、最後には暁との連絡先の交換までを成し遂げた。
今日だけでも、十年前に遡った価値があったというものだ。
興奮して眼が冴えるあまり、僕は二十七歳の習慣としてラジオの電源を入れた。
暁との出会いのきっかけとなった番組は、まだ放送を開始していない。
高校生当時はラジオを愛聴する習慣もなかったから、この時代の番組にも明るくない。
だから、ほんの気まぐれに過ぎなかった。
そして聞こえてきた衝撃の内容に、僕は余計に眠れなくなる。
『皆さんこんばんは! 今週も始まりましたクリエイト・チューン、この番組は――』
スピーカーから聞こえてきたのは、紛れもなく。
未来で僕と暁とを結び付けた番組だった。