2/かつて失くした未来の君と、これから出会ういつかの君と。
ぼんやりとした意識が声を拾うが、何を言っているのかはわからない。
うるさいな、と寝ぼけ眼をこすりながら、僕は寝返りを打って布団をかぶった。
次の瞬間、その布団は無理やり引っ剥がされた。
「いい加減起きなさい! 遅れるって!」
寒い。突然冷たい空気に晒されて、僕は抵抗するように体を丸めて背を向けた。
何もそんな強硬手段に出なくてもいいじゃないか。いつもはもっと穏やかに起こしてくれるのに。いつもの珈琲の匂いも、まだないし。
「寒いよ、暁。布団返して……」
「はあ? 何寝ぼけてんの」
「寝ぼけ――は?」
瞬時に目が覚める。ぱちりと目を開ける。不思議そうに尋ねる声が思っていた人物のそれとはかけ離れていることに、僕はようやく気付いた。
相手に向き直りながら身を起こすと、懐かしい顔がそこにはあった。
「……お袋?」
「何て顔してんの、変な夢でも見た?」
掛け布団を持ち上げたままこちらを心配するように覗き込む彼女は、紛れもなく僕のお袋だった。
何だって急に僕の部屋に訪ねてきたんだよ、合鍵渡してたっけ?
それにしても、こんな顔だったろうか。しばらく会っていなかったし、すっぴんだから印象が違って見えるのかもしれない。
「夢とかはないけど……いや、っていうか来るなら来るって言っといてくれよ」
「あんたの部屋に来るのに何でいちいち断んなきゃいけないの」
「いやだって、言っといてくれりゃ掃除の一つでも――」
頭を掻きながら周囲を見渡して、ぴたりと手が止まった。
思わず息を呑んだ。そこは確かに僕の部屋だった――但し、実家にいた頃の。
「僕の部屋だ」
「やっぱり寝ぼけてる」
「いや、だって」
記憶の混乱を抑え込むように、僕は頭を抱えて足元を見つめる。布団もパジャマも、当然、僕のものだ。
昨日、フラれたショックのあまり実家に戻ってきてしまったのだろうか。
それにしては誰も迎えてくれなかった。いや、違うって。失意とともに飛び込んだのは間違いなくアパートのベッドだった。何よりタクシーで実家に帰るなんて、財布を三回空にしたってまだ足りない。
そもそも、この部屋は僕が実家を出て間もなく物置部屋に改装したはずだ。
お袋の嘆息で我に返った。
「いいから着替えて学校行きなさい。したら目も覚めるでしょ」
「……学校?」
随分と懐かしい響きだ。
低血圧で朝の弱い僕は、いつもお袋に怒鳴り散らされて起床し、ドアハンガーにかかった制服に着替えて、朝食もそこそこに登校したものだった。
その頃の記憶が鮮やかに蘇ってきて、いま視界に映るもの全てがその記憶通りであることに気付き、背筋が寒くなった。
まさか、という思いが、冷たい汗となって吹き出る。
勉強机、制服、カーテンやカーペットの色、姿見、本棚を埋める書籍のタイトル、ブラウン管テレビ、壁掛け時計。記憶通りの位置にあるそれらを見ながら、最も確認をためらうそれに、僕は恐る恐る視線を向けた。
それは、二〇〇五年――十年前のカレンダーだった。
「なあお袋……そのカレンダー、古くない?」
声は震えていたように思う。
自信なさそうに指差すカレンダーに目をやったお袋は、首をかしげながら僕に向き直り、
「まだ二十日じゃないの」
と、言った。
どうやらそういうことらしい。
「ああもうこんな時間、明日実も起こさないと! 徹はもう大丈夫ね? 起こしたわよ? ちゃんと着替えて支度しなさいね?」
慌てながら早口に言ったお袋は剥ぎ取った布団を僕の方に突き返して、扉の向こうに姿を消し――かけて、何かを思い出したように顔だけ覗かせた。
「お友達との間できっかけがあったのか知らないけど、お袋って年取ってるみたいに聞こえるから、母さん、に戻してくれない?」
そう諫言を残して、今度こそ姿を消した。
確かに僕がお袋のことをお袋と呼び出したのは、社会人になってからだった。
一人残された僕は身を起こして、姿見の前に立ってみた。
鏡に映るのは間違いなく僕で、だけど十年ぶりに再会する若造だ。
頬をつねれば確かに痛い。ダメ押しで左手の爪の白い部分に右手の爪を立ててみた。頬より断然痛くて速攻やめた。
長い、長い息をついた。
続けて、自然と笑みがこみ上げてくる。
プロポーズを帳消しにできたことによる安心感からか、不思議なことに巻き込まれた絶望または期待からか、それとも単におかしくなってしまったのか。
自分でもよくわからないが、認めざるを得ないことが一つ。
どうやらそういうことらしい。
僕は十年前にタイムスリップしてきたのだ。