水の枷
その先に待っていたのは、奇妙な教室だった。
図書室も奇妙であったが、その教室が今までと違うと感じるのは、何よりも綺麗だという点に尽きる。
ほたるは、さも意地悪な姑がするかのように机の上を指でなぞってみた。
つるんとした手触りに、ほのかに木の匂いが香る。
机だけではなく、例えば教室の後方の壁に貼り付けられた掲示物なども、まるで昨日新しく作られたもののように輝きを放っている。
ただそこには、あまりにも物騒な文面が踊っているが。
『今週の目標。復讐を忘れずに!』
『清掃月間。血を血で洗う』
『むしゃくしゃしてやった。誰でもよかった』
といった具合に。
あまりに綺麗なものだから、日常的な世界であると錯覚してしまいそうだが、やはりここも異界の一部であり、しかし異界らしくないが故に異常性が際立っている。
知らぬ間に、ほたるの二の腕に鳥肌が立っていた。
属す集団が違えば、普通は普通でなくなり異質なものとなる。
異質なものが普通となる。
例えば彼女たち退魔師は“普通の社会”の中においては異質なものとして扱われる。
妖怪だの、怪異だのは存在しないというのが常識であり、常識とは最大多数の集合意識だからだ。
そこから外れた者は異常だ、大真面目に怪異の恐ろしさを解けば病院を勧められる。
だが“異常の社会”の中においては怪異の存在を認める者が多数派となる。
生きる世界が違えば常識も違うものだ。
“昔”と“今”も、別世界と言える。
かつては誰もが怪異を視ることができた、だからと言って必ずしも対抗はできなかっただろうが。
今の非常識が常識であった時代のことだ。
しかし大いなる時の潮流に乗って、昔の常識が非常識と化した現代では、怪異を瞳で幾ら捉えてみたところで認識することはできない。
人は世界を受容器ではなく脳で見ている。
故に現代人は何よりも無防備なのだ、怪異という脅威に対して。
実際に肉を切られなくては、決して気付くことができない。
退魔の家系とは、人の守護者とならんがために、非常識となった常識を、力と共に受け継いできた者たちなのである。
「なんだか、今にも誰かがやって来そうね」
雲雀の感想にほたるは首を縦に振る。
「今までと雰囲気が違い過ぎだよね」
「ええ。……早く次いきましょう」
そそくさと雲雀が教室前方の戸を開けた。
だがその向こうにあったものを見て、ほたるはつい「ぷふっ」と失笑する。
何故だか、洋式トイレの便器がそこにはあった。
まさか教室からトイレの個室に繋がってしまうとは誰も予想だにしていなかった。
便座があがっているから、もしかしたら男子トイレのものなのかもしれない。
ただ、この学校のものならば和式のはずだ、時代的に。
「トイレって、トイレって……!」
ほたるは口元を押さえながらぷるぷると震えて、込み上げてくる笑いをなんとか抑えこむ。
その様子をしばらくの間、肩越しに呆れた目で見ていた雲雀によって、やがて勢いよく戸が閉められると、その音に驚いて体がビクッと跳ねた。
「あ、ごめんね?」
気を悪くさせてしまったのかと思い、ほたるは謝る。
「いえ、今のはちょっと力が入ってしまっただけで、そういうんじゃないから。驚かせてごめんなさい」
なんだか気まずい雰囲気になってしまった。
雲雀は戸を開けようとしない。そこでほたるは代わりを買って出た。
すると、
「あれ!?」
またそこには洋式便器が鎮座していた。
偶然、また同じ場所に繋がったのか。
ほたるはそんな風に考えて、戸を閉めようとする──しかしその瞬間、彼女の耳に届いたのは水の音。
「──ハッ!?」
として、巫女は叩きつけるように戸を引いた。
だがその攻撃は板っ張りの壁など容赦なく破って、彼女の全身を包み込んだ。
雲雀もろとも吹っ飛ばされて、冷たい床に転がされる。
冷たいのは床そのものの温度だけではない、二人の衣服はぐっしょりと濡れていて、そのために余計に冷感を覚える。
便器の溜まり水が奔流となって襲いかかったのだった。
「うー、ばっちぃ!」
悪態を吐きながらほたるが上体を起こしかけて、自身に起きた異常に気付く。
「体が……重い?」
全身に何かが体にまとわりついていて、著しい抵抗感があった。
まだ幼き日の記憶が蘇る。
小学校の水泳の授業でのことだが、着衣泳というものを経験させられたことがあった。
服を着たままプールに飛び込むことで、そのような危機に陥った場合というものを疑似体験するという趣旨だ。
(あの時の不快な着心地、不自由さによく似てる!)
ほたるは辺りを見澄ます。
ぐっしょりと濡れた巫女装束から、奇怪なことに雫が滴り落ちてこない。
体の下の床すら湿っている様子がない。
教室内にはあれほどの水流が飛び込んだというのに、その痕跡がまるで見当たらないのだ。
「雲雀ちゃん、服に」
「ええ、水を全部吸ったようね……!」
二人の人間を押し返した鉄砲水、その全てが衣服の許容量を超えて染み込んでしまっている。
それこそがトイレの怪の真なる攻撃だった。
多量の水分を含んだ服は非情に重く、立ち上がることを難解なものとした。
どれほどの水を蓄えているのか想像するのも恐ろしい事態だ。
特にほたるの巫女装束は布地が広い為、風呂釜を着こんでいるようだった。
唯一自由なのは、肌を露出している頭部と両手くらいなものである。
首だけを起こしてトイレを見据える。
戸は開いたままだった。
耳を澄ませば、ポコポコと泡の弾ける音が聞こえる。
第二波の予兆かもしれない。
このままでは水に押し潰されてしまうことだろう。
「服、脱がないと!」
素肌は水を弾いてさらさらだ。
布地さえ取っ払ってしまえば、この過剰な重力からは逃れられる。
だが先ほどから、ほたるは脱衣を試みてはいるのだが、水を吸った所為か袴の結び目が固くびくともしない。
水音が更に激しいものとなり、焦りが余計に作業を遅らせた。
不意に、頬を風が撫でる。
それを視線で追うと、雲雀の白い背があった。
その更に先では木の板が彼女の進攻を阻まんと動き始めている。
彼女の服装は緩めのジーンズとシャツというもの。
水を吸った量は巫女装束と比べれば遥かに少なかったのだろう、脱ぎやすさなどは言うまでもない。
着実に水の衣を脱ぎ捨てた雲雀は、地を蹴って、個室へと飛び込んだ。
その直後に戸は堅く閉ざされてしまう。
「雲雀ちゃん……」
こうなっては最早、ほたるはただ愚直に彼女の無事を祈ることしかできない。
銃声と水音だけが耳に響く。
それは戦闘の激しさを物語るようであり、心中を掻き乱される。
やがて──、一切の音が途絶えた。
すると巫女装束から大量の水が溢れ出て、床上に広がっていく。
ほたるの肉体に圧し掛かっていた重力が幾らか軽くなり、立ち上がることもできるようになった。
雲雀の勝利を確信して、頬がゆるむ。
戸がゆっくりと横にスライドし、灰色の下着のみを見に纏った彼女が姿を現す。
全身から、ポタリポタリと雫が垂れている。
それを見てほたるの脳裏に
(水も滴る良い女、ね)
そんな言葉が脳裏をよぎる。
堂々たる立ち姿が余計にそう思わせた。
「これで、借りは返したわよね?」
雲雀が額に貼り付く髪を鬱陶しそうにかき上げながら言う。
ほたるは小さく頷いた。
それからすぐさま次の教室へ、と言うわけにはいかない。
異常な量の水が抜けきっても、海に落ちてびしょ濡れになった程度の水を服は含んでいる。
動きにくいし、気持ちが悪かった。
「私に名案があります」
ほたるは地面に呪符を置く。
風の符だ。
それに僅かな霊力を注げば、腰ほどの高さのある竜巻が生じた。
ぐるんぐるんとその場で廻りつづける渦の中に、二人分の衣服を放り込む。
少しでも濡れた服がマシになればと、閃いたのが、この即席乾燥術だ。
火の呪符が理想的だが風でも良しとしよう。
下着も放り込むつもりだったが、雲雀が殊更に拒絶を示したのでやめた。
(恥ずかしがり屋なのかな)
内心で首を傾げる。
だがほたるとて教室で下着姿を晒すという、未知の経験にどぎまぎしているのだから、雲雀の気持ちが、まるでわからぬものではなかった。
(……よくよく考えたら私もちょっと恥ずかしい)
ほたるは壁を背もたれにして腰を下ろした。
ひんやりとした感触が桃色の下着越しに尻を伝い、思わず身震いしてしまう。
隣の雲雀は、じっと、つむじ風の中で踊る衣類を見つめているようだった。
ほたるもそちらへ目をやって、くるくると廻りつづける様子を見守る。
五分もやれば乾くだろうか。
そんなことを思いながら、小さく欠伸した。
ふと雲雀の視線が自分に向けられていることに気付き、不思議に思ってほたるは訊ねる。
「なにか変かな?」
「い、いえ……、着やせするタイプなんだと思って、つい。ごめんなさい」
雲雀がばつが悪そうに小さく首を垂れた。
先程の言葉をほたるは思い出す。
「ううん、それは別にいいんだけど……私ってやっぱりそんなに重い?」
「あっ、いや、そういう意味じゃなくてね!? その……意外と胸あるのねってね?」
「あ、あー、そっち。うん、いや特別大きくはないけどもね。着痩せはして見えるかもね」
巫女装束も和服の一種であるから、胸元がボコボコしていたり、開いていたりすると、みっともないので平らにするのだと説明する。
「なるほど。確かにそういう話は聞くわね」
「うん。シュッと整ってる方が綺麗だからね。雲雀ちゃんは似合うんじゃないかな」
それは遠まわしに「小さい」と言うようなものだと、言ってしまってから気付いたが、雲雀は顔色一つ変えなかった。
特に気にてしていないようだ。
「巫女はともかく和服は興味あるかも」
「和服は良いよー、綺麗だし。あ、そろそろ乾いたかな」
風力が弱まってきていることに気付き、ほたるが立ち上がる。
装束を渦から取り出して隅々まで検めると、まだ湿っぽさは残るが許容範囲と言ったところだ。
雲雀のそれも手渡してから、再び紅白の衣装に身を包んでいく。
着直しながら、和やかに会話を続けた。
「あら、思ったよりもいいじゃない。よく乾いてるわ」
「でもちょっと臭わない?」
「んー……確かに。海の臭いがする、なんでか」
「梅雨の時期なんかもするよねぇ。磯臭いっていうか、かび臭いのかな?」
「嫌いなのよね、海の臭い」
「私はそうでもないかなー。去年の夏休みは海で仕事したよ」
「……そう言えば、今も夏休みなのよね」
「この時期は宿題と仕事で大変だよね」
「……宿題は先にやる派、かな」
「うわっ、ずっこい!」
「いや、ずるくはないでしょ……」




