行方不明、ふたり
翌朝、雲雀は勢いよく飛び起きた。そして辺りを見回す。
目に入ったのは、からっぽのベッドだった。
ほたるが、いなくなっている。
(荷物も見当たらない。まさかアイツと戦いに……!?)
一瞬で脳が覚醒し、ベッドから下りようとして、シーツやら掛布団やらに足を取られてしまい、彼女は床上に落下してしまう。
その際に肩を打って「あう……!」と情けない声まで出た。
けれど、そんなことはどうでもよく、とにかく急いで足先に絡みついた布を解こうとしていると、
「雲雀ちゃん、どうかした!?」
ほたるがドタドタと慌てた風な足音と一緒に姿を現す。
彼女は体にバスタオルを巻いていた。
最早考えるまでもない、単に風呂に入っていただけのことだったのだ。
見当たらない荷物というのも、ベッドを挟んだ向かい側の床にある。
雲雀の位置からは死角だったため、勘違いしてしまっただけである。
「あ、いえ……なんでもないです。起きようとしたら、もつれてしまって」
流石に「目が覚めたらほたるがいなくて、妙に不安になった」とは言えず、そんな嘘を吐く。
それを信じたかどうかは、その表情から定かではないが、ほたるが浮かべたのは安心したような表情で、声もまたそのようなものだった。
「怪我はない?」
「それは平気です」
「じゃあ、雲雀ちゃんもお風呂行ってきなよ。朝シャンは気持ちいいよー」
そこで雲雀は、はたと気付く。
自分はもう何日も風呂に浸かるどころか、シャワーすら浴びていないのではないかと。
いや間違いない。
あの山で妖怪と化してから、数日は経過しているのだろう、自身でも臭いが鼻につく。
雲雀の顔が赤く染まる。
そして、不快にさせたのではないかという不安から、
「ご、ごめんなさい!」
ついそんな台詞を置き去って、そそくさと浴室へと向かった。
風呂場のタイルは、まだ温もりが残っていて冷たくない。
シャワーを頭から浴びながら、よくよく考えてみれば、ほたるは途中で出てきたのではないだろうか。
「私が転んでしまったから」
悪いことをしてしまった。
雲雀は、今の出来事だけでなく、山から一連の出来事について、そう思う。
妖怪になりかけていた時の記憶は、おぼろげながらある。
ほたるの声が聞こえて、かろうじて人間であり続けられた。
本当に迷惑をかけて申し訳なく思っている。
次いで湧き上がってくるのは、自分への怒りだ。
「助けられた……クロハネなんかに……」
仇敵によって人間に戻れたのだ、という事実は、雲雀の心に深く爪痕を残し、一度はからっぽになっていた瞳にまた黒い水を注ぎ込んでいく。
その矛先は、新たな敵へと向けられる。
雲雀の霊気と妖気、そして影から生まれた新たな敵。
「アイツも、早くどうにかしないと」
雲雀は昨夜、夢を見た。
それは己が一人の女性を襲う夢だ。
だがこうして落ち着いてみれば、それが真のことなのだと理解できる。
今も影と自分の間には、何か奇妙な〝繋がり〟のようなものを感じるのだ。
そいつが教えてくれる、血生臭い分身がまだ町に留まっていることを。
「今は昼間だから、眠っているみたいね……。今なら、私でも殺せるかしら?」
と思うが、どうやら場所の特定まではできなさそうだ。
近づけば、より確かにわかるに違いないけれど、それはお互いに言えることであるから、最初から不意打ちなどできっこないのである。
眠っているところに襲い掛かれたとしても、返り討ち必至だ。
「無力ね、私」
両親を失った時、師を失った時、そして今。
雲雀の前に、三人目の無力な己が横たわる。
奥歯を強く噛みしめて、彼女は思考する。
何か策はないのかと。
「……あることには……ある、か」
シャワーを止めて、雲雀は体を洗い始める。
ごしごしと力強く。
無力な己を叱責するかのような気持ちで。
そして三十分ほどかけて風呂からあがると、ほたるから巫女装束を手渡された。
どういう意図かわかりかねて、しばらくそれをじっと見つめていると、彼女が「えっと……着替えなんだけど」と言う。
それで雲雀は思い出した。
昨日、ほたるは山を降りる途中で神社に立ち寄り自身の荷物と、雲雀のアタッシュケース──拳銃しか入れていない──を持ちだしてくれはしたのだが、
(私の荷物は、ほったらかしだわ。ほたるはケースの方しか見たことないからもの、わからなかったのね)
よって着替えがまるでない。
その代わりに、ほたるの服というわけだ。
納得して、雲雀はいそいそと巫女服を着始める。
思ったよりも難しくなく、一人でも着ることができた。
それからまた自分のベッドに腰を掛けて、ほたると向かい合う。
すると雲雀は、彼女がニコニコと笑顔を浮かべていることに気付く。
何か間違えただろうか。
「どこか変?」
「ううん。やっぱり似合うなって」
「あぁ、学校の時にも言われたわね。まさか、本当に着る日が来るとは思ってもなかったけど」
「それもこんなに早くね。どう、巫女装束の感想は?」
「うーん……やっぱりシャツが楽」
「あはは。そりゃ勝てないよー」
実際には雲雀は、自分には似合わないと思うのだった。
巫女になるには、あまりにも穢れてしまっている。
復讐のために妖怪まで喰らったのだ、心身ともに似合うはずがない。
もっとも、そんなことを口に出せば、ほたるに怒られるだろうことは、想像に難くない。
「まぁ、それはともかく」
と雲雀は話を切り替える。
そして居住まいを正して言う。
「私の影を、どうか倒してください」
深々と頭を下げて。
それが唯一の策だった。
誰かに頼ること、それしかできない。
その突然の行動に、ほたるは狼狽えるような声を出した。
「ちょ、ちょっと、顔あげてよ!」
「貴女にしか頼めないの。今の私には何も力がない。霊力なんて欠片もない……作れないみたい。だけど、アイツは──」
雲雀が下げていた頭を戻して夢の話をすると、ほたるの表情も段々と曇っていく。
人命が絡めば、必ずほたるは動く。
しかし彼女が出した返事は予想外のものだった。
「そりゃ私もなんとかしたいけど……今すぐには無理だね」
「どうして!?」
「だって、場所わからないだよね?」
「そ、れは……そうだけど」
ほたるなら、それでもどうにかできるのではないか。
そんな期待がないわけではなかった。
彼女が申し訳なさそうに言う。
「私も流石に範囲が広すぎて、妖気は覚えてるけど、上手く捕捉できないし。時間はどうしてもかかっちゃう。だから今すぐは無理」
「応援は、頼めない? 神社の伝手とか」
「今ここに来れる人たちは、たぶんだけど、山に行くんじゃないかな。まだちょっと、ごたごたが続いてるみたいだし、優先順位が……ね」
「……そう」
見るからに暗い表情を浮かべる雲雀を励ますかのように、ほたるは勢いよく立ち上がった。
「大丈夫! 時間はかかっちゃうかもだけど、絶対に倒すから!」
それは頼もしい言葉ではあるが、雲雀は自らの所為で生まれる被害者のことを思えば、素直に寄り掛かることができない。
今すぐ、せめて夜になる前に、どうにかしたい。
できないだろうか。
頭の中でぐるぐると考えが巡る。
ほたるの手がそれを止めた。
ぎゅっと右手を取って、立つように促される。
「ほら、まずは探しに行こう? 運が良かったら、今日中になんとかなるよ」
「……そうね。じっとしてても、しょうがないものね」
雲雀は気持ちを切り替えて、ほたると一緒に昼の町へと繰り出していく。
力強い言葉よりも、その和やかな笑顔の方が雲雀の不安を萎ませるのだった。
外は快晴で、太陽はもうすぐ真上に着こうかとしている。
影を失くした雲雀にとって、この時間帯はまだほっとできる。
しかし天頂を過ぎてしまえば、自らの非常識が浮き彫りになる。
疲れた顔をしたサラリーマンや姦しいおば様たちが行き交う日中において、流石に、巫女が二人並んで歩く姿は珍しいようだ。
それもアタッシュケースとギターケースを、それぞれ手にしているものだから余計にそうらしく、道すがら色々な人にじろじろと視線を投げかけられて、雲雀は居心地の悪い思いを抱きながらも、素知らぬ風に装ってほたるの後ろを歩く。
ほたるに連れられる形でやって来たのはブティックだった。
これには雲雀もわけがわからず、怪訝になる。
「なんで服屋?」
「もちろん、着替えを買うためにだよ」
「いや、それなら後で神社に取りに行くもの」
「……あー、そう? まぁ、それならいいか。うん。じゃあ、次行こー」
なんだか歯切れの悪い様子に、余計に(何を考えてるのかしら?)との疑念が強くなった。
しかも、その次に向かったのはファミレスなのだから、更に謎は深まっていく。
ちっとも、あの妖怪を探しているようではない。
これでは普通の少女が町を歩く時と変わらない。
「ほ、ほら、朝ごはん食べてないし。お昼も近いし?」
と、雲雀の不信なものを見るような目に気圧されたためか、ほたるが言い訳染みた言葉を吐く。
けれど確かに、起きた時間が遅めであるから、昼が近いというのも事実であるし、言われてみれば、雲雀は空腹を感じていた。
もう何日もまともに食事を採っていない、思い出せる最後は妖怪の血肉ぐらいなのだから当然であろう。
だから食べるならば、麺類が良い。
肉々しいのは御免被りたい。
しかし一つ問題がある。
「でも、私、お財布もないんだけど」
「そのくらい貸すよう!」
(あ、奢ってはくれないんだ)
ほたるのことだから、そんな風に言うような気がしていたが、どうやらお金のことに関しては緩くないらしい。
ほっとした。
雲雀の中でのほたるは、保証人の書類にほいほいとサインしてしまうような人間だった。
そうして昼食の後には、ほたるがデザートを食べたいなどと言いだし、雲雀は当然いらないと言ったのだが、勝手に二つも買ってこられては食べるほかなかった。
それからも、なんの意図があってか、様々な店に寄るはめになり、それでも(ほたるのことだから、何か考えがあるんだわ)と、時々文句を挟みつつも従っていたが、遂に夕方となってしまった。
雲雀は遂に、ほたるへの不信感を露わにする。
「ねぇ、真面目に捜索してる?」
「してるよ、うん。今日一日、町中を探し回ったじゃない」
「私には遊んでるようにしか思えない。ゲーセンとか、行く必要ないじゃない」
「ギロギロとした目で探し回っても、私たちは目じゃなくて気配を探るんだから無意味でしょ? だったら、他にできることしながらでも充分だと思ったの」
「なによ、それ……」
雲雀はほたるを、じろりと睨み付けた。だが、彼女はどこ吹く風で。
「明日は今日は探せなかった方に行けばいい。そしたら見つかるよ」
「貴女は……人の危機には敏感だと思ってた。だから、もっと血眼になってくれると思ってた。でも、違ったのね。明日になる前に、また一人犠牲者がでる」
「朝にも言ったけど、この広い町で探し当てるのは大変なことだよ。二日三日は掛かってもおかしくない」
「今日遊んだりしないでに、もっと色々なところへ行ってたら、見つかったかもしれないじゃない!」
不信を通り越して、最早それは失望であると言えた。
雲雀は、退魔巫女として幼き頃より育てられてきたであろうほたるを、当然ながら仕事に対して使命感や、矜持を持っている者だと思い込んでいた。
少なくとも、復讐や生活のためだけの己よりは、退魔師として正しい在り方をしているはずだろうと。
(でも私はこの子のことを、なにもわかってなかったんだわ)
そのような雲雀の思いなど知らないように、ほたるはこんな台詞を吐くのだった。
「わかった、わかったよ。明日はちゃんとやるから。ホテルに帰ろう? 休みは取らなきゃ」
雲雀は、そんな彼女に背を向けて歩き出す。
ホテルとは逆方向だ。
「ひ、雲雀ちゃん……?」
ほたるが追いかけてきても、構わず突き進む。
「一人でも探す。ついてこなくていいわ」
「馬鹿なこと言わないでよ。今の貴女じゃ、見つけたところでなにもできない」
「銃がある」
「霊力がないのに、なにを……」
「銃にはまだ霊力が残ってる。それぞれ、五発分ぐらい。だから、それでやる」
念のため、ホテルを出る前に確かめたところ、間違いない。
故にわざわざ持ってきたのだ。
いざ戦うことになったら、それでほたるの援護をするつもりだった。
呆れ顔のほたるから、
「……そう。勝手にすればいい」
との言葉を頂いて、雲雀はあえて力強くに頷いてやる。
そしてもう振り返らずに前を行く。




