再会 虹見高地
大陸へと渡り、とある山の中腹にて修行を開始すること数時間。
ほたるは腹部に一撃を貰って、生い茂るシダ植物を転がり潰していった。
拳の主がその姿を見下ろしながら、吐き捨てるように言う。
「ほら立てよ。まだ三十日もあるんだぞ」
顔立ちは二十代ぐらいだが、服装だけでなく髪まで白い。
彼は〝白桃仙人〟と呼ばれる者だ。
仙人とは、何かを為すために人間を超えし人のことである。
人の何倍もの寿命を持ち、太陽の光を浴びて活動する。
妖怪とも呼べなくもないし、昔はそうであったが、今では区別されている。
「まだまだぁ!」
気合と共にほたるは立ち上がって、薙刀を構え直す。
その次の瞬間には、青い空が目に入っていて、またもや草に抱きしめられた。
彼女が仙人に課せられたのは、三十日間戦い続けるということのみである。
始める前にほたるは訊ねてみた。
「ご飯の時間は?」
「好きにしろ。できるのならな」
「おトイレとかは……」
「好きにしろ。できるのならな」
「お風呂……」
「だから好きにしろよ」
「できるわけないじゃないですかーっ!」
しかし、だからと言って、おめおめと何もせずにとんぼ返りするわけにはいかない。
彼女にも意地があるし、強くなりたいという思いがある。
「わかりましたよっ! やります! やらせてください!」
「よろしい。……あ、睡眠も好きにしていいぞ」
「できるようになってやりますから!」
そして数時間が経って、まともに戦うことすらできていない。
立ち上がれば即座に殴られるか、蹴られるかして、地面をご紹介されてしまう。
既に全身が軋むようだった。
そもそも、その若々しい姿からして仙人らしくないが、白桃仙人は意外にも口数の多い男であった。
彼は殴りながら、蹴りながら、喋り続ける。
「世の中には色々な力がある。霊力とか、魔力とか。まぁだいたいは生命力から作られるもんだが、なんで名前が違うんだろうな?」
問いかけに、ほたるは答えることができない。
吹っ飛ばされて、今度は木の上をベッドにしていたためである。
「名前の違いは役割の違いだ。霊力は退魔に向いてる、魔力は魔術に向いてる。でも霊力だって魔術に使えないわけじゃあない。代替可能だ。だが効率が悪い」
木の上から跳び下りつつ、薙刀を振り下ろすが、難なく躱されて、背中に蹴りをお見舞いされる。
また草の匂いを嗅いだ。
「魔術師も退魔師も、一番効率の悪いことを普段している。まるで呼吸するかのように。何かわかるか?」
その問いに、ほたるは刃を振り回しながら答えた。
「わかりません!」
腹に仙人の拳が深くめり込んだ。
意識までもが吹っ飛びそうになる中、仙人の言葉はやけにはっきりと耳に届いた。
「身体能力の強化。それから治癒力の向上」
地面に大の字で倒れるほたるを眺めながら、彼は更に続ける。
「これに最も効率的なエネルギーは、内功だ。気力、気功とも呼ばれる。……さて、ここに一つの疑問がある」
「な、なんですか?」
薙刀を杖代わりにして立って訊ねる。
仙人は淡々と答えた。
「どうして霊力と内功を得ないのか」
「そんなこと……できるんですか?」
「できる。が、誰もが不要なことだと思っている。先に言ったとおり、代替可能だからだ」
彼の話は、まさに目から鱗が落ちるようなものだった。
ほたるは攻撃を仕掛けるのも忘れて、その言葉に耳を傾ける。
「だが、しかし、効率が違う。たとえば今のお前が、五十の霊力を作り出しているとする。すると、そのうち三十が肉体強化で、残りの二十を攻撃に使っていることになる。もしも少しでも……十程度の内功が作れでもしてみろ、妖怪退治に使う霊力は四十にもなる」
仙人の気配が突如として変わった。
今まで彼は内功のみを使用していた。
しかし今は、複数の力をその体から感じられる。
仙人が一歩ずつ近づいてくる。
「内功の会得は楽だとも、難しいとも言える。努力さえすれば、誰でも獲得できる力だ。しかし三日で習得する者もいれば、五十年かかる者もいる。お前はどちらだろう? そんなことはわからん。だから、この三十日だ。極限の戦いの中で得ろ。さもなくば時間を無駄にするだけだ」
そして彼は跳びかかってきた。
それを迎え撃たんと、ほたるは強く薙刀の柄を握りしめる。
白桃仙人は、横たわる巫女を見下ろしながら、大きな欠伸をした。
少女が起き上がる様子は一向にない。
つまらなそうな表情で顎をさすって、ぽつりと言う。
「この三日間をどう生かすか、全てお前次第だ」
巫女は、彼と出会ってからずっと、眠り続けている。
修行は全て夢の中で行われているのだった。
これはまるで無意味なことではない。
睡功と呼ばれる修行法の一つである。
と言えども、現実の三十日間より得るものは小さい。
しかし、現実の三日間よりも大きいだろう。
彼はしばしばこの修行法を人に課す。
何故なら、彼もまた己の高みを目指して修行中の身で他人に構ってやる暇などないが、頼る者をまるっきり放っておけるような性分でもないからだ。
そして今回はそこに、旧知の友への懐古の情が加わっている。
「まぁ、頑張れ。母親に似てるようだし、そこそこ強くなれるだろ。それでも無理な時は……」
若い仙人は言葉を半ばにして、霧の向こうに去っていった。
* * *
虹見高地の戦況はいつしか、妖怪対妖怪に人間が横入りするという形から、妖怪対人間という風に様変わりしていた。
妖怪らが一まとめにならぬように、との目論見であった退魔師たちは、これには面食らわずにいられない。
三神社は更なる戦力の補強を行い、統一された妖怪らを再度分離し、地域を再編成するべく動き出す。
椿坂ほたるは、そんな彼らの応援要請を受けて戦地へとやって来た。
陽は天頂を過ぎている。
既に他の退魔師も高地に集まっている。
もしや雲雀もいるのではないかと、その面々を見回すが残念なことにいないようであった。
妖怪嫌いの彼女なら、いそうなものなのだが……。
神社の境内に集結させられたほたるらの前に、いかにも偉そうな男が現れ現在の状況を解説し始める。
それによると妖怪たちは、そのほとんどが〝二鼻山〟の頂上に集っているらしく、これからそこに向かって一斉攻撃を仕掛ける、というのが作戦だと言う。
しかし殲滅するわけではない。
混乱させて、散り散りにさせることこそが目的だ。
それを聞いてほたるが思ったのは(厳しいなぁ)ということだった。
妖怪の数も正確にわからない、果たしてこの場の戦力で充分に遂行できるのだろうか。
隣に立つ男も同様に感じたらしく「割に合わんな」と呟く声が、ほたるにだけ聞こえる。
ちらりと横目で窺うと視線が合って、男はばつの悪そうな表情になった。
ほたるは、その彼にひっそりとした声で言う。
「やっぱりこれ、無理ありますよねぇ」
男が苦笑しながら答える。
「色々と言いたいことはあるが、人間憎しでまとまった妖怪を侮りすぎだな。やはり妖怪同士のことに、人間が首を突っ込むとろくなことがない。火の出た鍋に水をかける阿呆なし、だ」
「うーん……どうしようかな」
応援要請を受けた手前、ここで去るのは問題があるが、雲雀がいないのなら残りたくない。
仕事には真摯な姿勢を取ってきた彼女にしては、珍しくもそう思ってしまうのだった。
「悪いが俺は一抜けだ。お前さんも、今のうちに決めた方がいいぞ」
「そうですかー……。あ、東風谷雲雀って退魔師は見ませんでした?」
と神社の代表者の話を小耳にしつつ訊ねると、周囲の退魔師たちがぞろぞろと森に向かって移動を始めた。
ほたるも、その流れに乗っかって行く。
男だけが逆らいつつも、ほたるに耳打ちをして行った。
「その名前なら、名簿の最初の方で見たぞ」
ほたるは大きな声で、長物を担ぐ背に礼を告げた。
彼の言う名簿とは、虹見高地の戦いに参加する者のリストのことであろう。
ほたるも神社に来てすぐ書かされていた。
その最初の方ということは、まだ妖怪と妖怪で争っていた頃に召集された者のうちにいたに違いない。
そうとなれば、退くことは考えられない。
戦争がまだ終わっていない以上、彼女だって戦っているはずだ。
まずは〝三目山〟を行く。
行軍は順調に進んでいたが、全ての妖怪が一所に集まっているのは真実らしく、山はひっそりと静まり返って微かな妖気だって感じることがない。
それがむしろ不気味な印象を退魔師たちに与えるのだった。
ほたるもその例外ではなく、修行の成果には自信があるものの、手に汗握っている。
時々、薙刀の柄から手を離して袴で汗を拭いつつ、前へ進む。
三目山と七耳山の境目で、突如として妖気を感じた。
それは一個体のものらしいのだが、どこか違和感がある。
一定の気配ではないのだ、濃く薄くを繰り返している。
ほたる以外の退魔師も同じように感じたらしく、戸惑いの波が広がっていく。
「落ち着け! どうせ死にかけの雑魚に違いない!」
先頭からそのような声があがる。
果たして敵はどこから来るのか。
不安定であるためか、出所が判然としない。
だが、それに混じって覚えのある気が、ほたるには感じられた。
(雲雀ちゃん……?)
信じられないことだったが、確かめれば確かめるほど、確信に近づいていく。
そして彼女はどうやら妖気と共に、隊列から離れていこうとしているらしい。
その様子に、退魔師たちは安堵するが、ほたるだけは不安でいっぱいだった。
いてもたってもいられず、ほたるは遂に行軍から離れて雲雀の気配を追う。
その背中に声をかける者もあったが、無視した。
幸いにも、追ってくるほどの者はいなかった。
ほたるは木の上に登って、枝から枝へと跳んで渡る。
ぬかるんだ地面を見て、これでは全力で走ることができないと判断したのだ。
「嫌な予感がする……!」
先ほどから、雲雀のものと思しき霊気と不安定な妖気が、重なり合うかのように同一の場で感じられる。
妖怪が彼女を抱えているのだろうか。
それともその逆だろうか。
答えはすぐに明らかになる。
大地を走る彼女の背中を、木の葉の隙間から視認すると、ほたるは木から飛び降りて雲雀の前に立つ。
そして、愕然とした。
「雲雀……ちゃん……?」
妖怪の気が傍にあるのも当然だ。
彼女こそが、その源なのだから。
しかし、まだ人間としての部分が残っているために、霊気も感じられるのである。
故にだろうか、東風谷雲雀は──人狼と呼ぶに相応しい姿をしている。
もしくは狼女と。
灰色になった頭部には三角形の耳があり、では本来の耳はと言うと、深い体毛に隠れて窺い知ることができない。
顔面だけでなく、シャツから覗く腕も、灰色の体毛によって大部分が覆い隠されている。
口角から覗く牙は人のそれと比べて遥かに鋭く大きい。
こころなしか、鼻先が突き出ているように見える。
特に奇異なのは、その両手であろうか。
人の手では最早なく、一方で狼のものでもない。
回転式拳銃だ。
手首から先が黒光りする拳銃となっている。
形そのものが変化しているのである。
彼女の愛用していた銃とは、明らかに種類が違うが、肉体と同化した際に元々の形状を失ったのだろう。
その雲雀が天高く遠吠えをあげる。
ほたるは、もう一度はっきりと「雲雀ちゃん!」と呼びかけた。
途端、吠えるのをやめて、彼女の黄金色の瞳がギョロリとほたるへ向けられる。
「雲雀ちゃん!」
その奥に、まだ彼女の強い意志があるように思えて、また呼びかけた。
しかし狼女はぷいっと視線を逸らすと、四つん這いになって木々の隙間を縫うようにして斜面を駆けて行ってしまう。
ほたるは、へなへなとその場に座り込んでは、ただ茫然とするのみだった。
はっと我に返った頃に、ひとたび捉えた妖気を再び探索すれば、どうやら雲雀は五歯山の方にいるらしい。
皆が向かったであろう、七耳山や二鼻山でなくて幸いだった。
(もしかして、退魔師には会いたくないのかも。そりゃそーだよね。今のあの子じゃ討伐対象になりかねないし、半分は妖怪なんだから本能的危機感もあるのかも)
感知を続けながら、ほたるはようやっと立ち上がり、雲雀の後を追う。
再び木の上に登って、忍者のように枝と枝の間を跳ぶ。
「でも、何ができる? 妖怪になりかけた雲雀ちゃんを、どうすればいい?」
そんな自問自答を繰り返しながら。
いや、一つの答えを避けて、ぐるぐると同じところを周っているのだ。
退魔師、退魔巫女であるならば、その道を行くことが当然のはずなのだ。
彼女が今後、人間に危害を加えぬ保証などないのだから。
もしも仮に、人並みの知性を得て人語を解すようになれたとしても、人間に牙を剥くかもしれない。
人であった頃の名残が、まるで無ければそうなるかもしれない。
それに完全に妖怪と化してしまえば、とてつもない力を発揮するかもしれない。
可能性でしかない。
けれど今、確実に潰せる可能性だ。
(でも……まだ半分だけ。いやもっと人間の部分が多い。だから、まだ、わからない)
根拠がなくとも、ほたるはそう縋り付くしかない。
その行く先を遮るかのように、漆黒の羽根が宙を舞い、ほたるの前に男が姿を現した。
次に跳ぶ予定であった枝の上を男に立たれては、ほたるは足を止めずにはいられない。
それに向かって忌々しげに言葉を吐いた。
「今すぐ失せて。アンタの顔なんか見たくない」
クロハネは笑みを絶やさずに言う。
「いやいや、少し用がありまして」
薙刀の切っ先を軽く振って、ほたるは先を促す。
最小限にしか言葉を交わしたくなかった。
しかし次に、
「東風谷を元に戻したくはありませんか?」
との台詞を放たれては、そうも思ってはいられなかった。
「方法があるの!?」
食い気味となってしまうのも無理からぬことだろう。
捨てる神あれば、拾う神あり。
まさに、この言葉の通りだったのだ。
しかし相手はクロハネである。
ほたるは、一瞬でも気色ばんだ己を恥ずかしく思った。
そして男を強く睨み付けて問う。
「何が狙い?」
「東風谷は人間でなくてはならない。それだけですよ。今ならまだ戻せる、私ならね」
「貴方があの子を……ああしたようなものでしょう……!」
「いいえ。私はそのようなことを望んではいません。だから戻す。貴様にも、その手伝いをさせてあげましょうか? と訊いています。私なりの親切心、気まぐれ。別に私だけでも滞りなく行えますよ」
「……貴方は、雲雀ちゃんに何をさせたいの? 何のために、あの子を……?」
淡々と、当たり前のことのように男が答える。
「風を生むために」
その言葉の意味が、ほたるには理解できなかった。
彼の瞳は光も何もかも吸いこんでしまえそうなほどに深く、語ることをしない。
自己の内で完結しているから、必要がない。
雲雀も似たような色を見せたことがあった。
この二人には互いだけの世界があるのだろうか。
そう思えばこそ、ほたるは「手伝う」と首を縦に振る。
雲雀を放っておけない、ましてや、この男と二人きりにしたならば、何が起きるか、何を起こすかわからない。
嘘など幾らでも吐ける。
本当に人間に戻せるのか、信用できない。
「では……」
とクロハネは自らの手の内を晒すことなく、ほたるに命じる。
今はそれに従うことしかできない自分が、どうにも歯がゆい存在だった。
ほたるは言われた通りに、まずは雲雀の追跡を再開する。
しかし相手も、そう簡単には尻尾を握らせてくれない。
人狼と化して鼻が利くのか、はたまた野性的勘か、一定の差を保ちながら移動されてしまう。
だが、それでいい。
そうして追うことで、ある場所へと導くのだ。
それは五歯山に幾つか点在している広場。
木々はなく、草の丈も短い場所。
クロハネはそこに既に仕掛けを施してあって、後は獲物が罠にかかる時を待っている。
「……んっ! 雲雀ちゃんが止まった」
数刻を経て遂に、逃げ続けていた彼女の気配が停止した。
目論見通りのその場所で。
ほたるは枝を強く蹴っては、それのしなりを利用し加速していった。
べっとりと、心にこびり付いた不安に急かされるがままに。




