2 ライバルは可愛い後輩
『俺、結婚するから、美緒とーー』
頭の中を、先日聞いた言葉が延々とリピートして止まらない。
私の視線は、部屋の一角でコピーを取っている人物に注がれていた。
コピー機を動かして淡々と資料を作っているのは、胡桃美緒ちゃんだ。柔らかな肩までの明るい茶髪が、彼女が動く度にフワフワと揺れている。大きな目はクリクリとしていて、甘えた口調がいかにもな感じの、そんな髪形のイメージそのままの可愛い彼女。
一見ドジな一昔前のドラマのヒロインのような、愛嬌のある子だ。
でも彼女は、愛嬌はあってもドジではない。それどころか、与えられた仕事はそつなくこなす実際は要領のいい子だったりする。
そう、寧ろドジなのは……。
「及川」
「うわっ! は、はいっ」
突然すぐ近くで名前を呼ばれ、私は奇声を発した。
声がした方に顔を向けると、三年先輩に当たる河野知也が呆れたようにこっちを見ている。
「こ、河野さん、何か?」
私は慌てて、机の上に広げたままだった伝票を片付けながら尋ねた。目の前に立つこの男がいなくなったら、再び伝票を広げ直して仕事を再開しなければいけない。
河野知也が私の元へ来る時、それは私のアラが発覚した時なのだ。
ノロノロと仕事をしている様子を見せて、彼の怒りを助長させる訳にはいかないのである。
「何かじゃねーよ、お前何年この仕事してんだよ。計算間違ってるじゃねーか!」
彼は、私が作った取引先に送る注文書を突っ返してきた。
「えっ、そうですか? すみません」
「すみませんじゃねー。後輩のすることぼーと見てる暇があったら先輩らしくまともな仕事をしろ!」
ギクッ。バレてる?
「たくっ、及川のした後は、何でもチェックしねえと安心できねえな」
苦い顔をした河野知也は、ぶつぶつ小言を言いながら自分の席へと帰って行った。
もう最悪、また計算ミスしていたなんて。しょんぼりしていると、シトラスの香りがして隣の席に美緒ちゃんが戻ってきた。
「今時大事な書類をパソコンで作らない、この会社の方がまともじゃないんですよ。人間だもの時には間違いくらいしますよね」
彼女はこっそり耳打ちしてくる。はあ〜、やっぱり聞こえてたのね。間違いの回数がかなり多いんだけど、そこは許してもらえるんだろうか?
「コピー、もう終わったの?」
私が問いかけると美緒ちゃんは苦笑を浮かべた。
「あんなの簡単な仕事ですもん。私、こんな誰でも出来るような事務員には絶対になりたくなかったんですよ。学生の頃はプログラマーになりたかったなあ。だけど企業には女だからってことと、多分この幼い外見のせいとで全く見向きもされず、やっと入ったこの会社は色んな所が古いアナログ式だし……」
「まあ、うちは頭の固い社長が全ての、小さなワンマン会社だからね」 しかも扱っているのは漬物だし……。
うちは一応老舗と言われている漬物の製造販売会社だ。
だが内実は、事務所と併設してある工場の工場長を兼務する社長と、事務社員数人、製造パートの主婦数人の小さな所帯である。
根っからアナログ人間の三代目社長は、パソコンが嫌いで導入がかなり遅れていた。
私はオヤジ社長と一緒で、実はパソコンが大の苦手。だから特に困ってはいなかったけど、他の社員は不満を結構口にしている。だけどそのお陰で、度々計算ミスを指摘されているのは何と私だけ。何と言うか……、とっても情けない。
電卓を出しながら片付けていた伝票を広げる。
すると、机の上にデンと置かれた先ほどの注文書に目が行き溜め息が溢れた。
「とにかく、私は及川さんを苛める河野の奴は嫌いです! 出来る男を装ってか弱い女性を皆の前で罵るなんて、女の敵ですよ」
美緒ちゃんは河野知也の方を盗み見ると、憎々しげに文句を並べたてた。
「ちょっ、静かに……。仮にも先輩よ?」
か弱いかどうかは激しく疑問ではあるが、興奮したように彼への陰口を口にする美緒ちゃんに、私はヒヤヒヤしながら注意を促す。声が大きいって、もう……。
不思議なことだが、何故か美緒ちゃんは私になついている。彼女が入社してきた当初からそうだった。
私は彼女の教育係をしていたのだが、何かにつけ可愛らしくて私とは正反対の雰囲気を持つ彼女が、最初はとても苦手に感じていた。
だがこちらが微妙に避けているのに、彼女はどんどん懐に入り込んでくる。よくよく彼女を知れば、意外と素直な性格で、可愛い女の子に多い男性社員に媚びるような所もなく付き合いやすい。気が付けば、時々映画に行くような仲になっていた。
それも最近では行ってないけど……。美緒ちゃんに彼氏が出来たからだ、健という。
やっと怒りを収めたのか、机に向かい仕事を始めた美緒ちゃんの横顔を、何気なく見つめる。小粒ながら整った鼻筋が、私の視線に気づいてこちらを向いた。自分を見つめる私を、彼女は不思議そうに見たあとニコリとする。
その様子は全くいつもと同じだった。
健から、まだ何も聞かされてないのだろうか?
あいつが美緒ちゃんと結婚すると言ってたのは、先週の日曜日のことだ。あんなふうに今まで付き合ってきた彼女との将来を、健が真剣に考えたことあっただろうか?
まだ、言えてないのかもしれない。
なんてったってプロポーズだよ。そうそう口には出来ない、勇気がいるものだよね?
それにしても、私はいい加減健から卒業しなきゃな……。
いつまでも、あいつのこと考えてるの止めなくちゃ。ここらで本当にきっぱり諦めるんだ。
「おい、真!」
夕方会社を出たところで、思いがけない声が聞こえてきた。私が間違える筈がない。健の声だ。
え? どこ、嘘?
「こっちだよ、こっち」
キョロキョロする私に、イライラしたような声が正面からしてくる。
「えっ? ええっ?」
前の通りに停車中の車の窓から、辺りを窺うように視線を送る不審者みたいな健が、こちらを睨むように見ていた。
「ど、どうしたのよ、こんな所で」
健の住むボロいアパートはこの近辺ではない。彼の勤務先も町内が違うし、何故ここにいるのか理由が分からない。
「お前に会いに来たんだよ、決まってるだろ」
「えっ?」
そんなセリフに思わず固まった私に、気づくこともなく周囲を見回すと、口早に健は命令してきた。
「いいから、早く乗れ。目立ってしょうがない」
「乗るって……、何故?」
やばい。嬉しくて頬が緩んでくる。出来るだけ普通の顔をしなければ。
「ちょっと相談があるんだ。いいだろ少しぐらい? お前が一番適任なんだよ」
「でもさ、私の車は? どうすりゃいいのよ」
「そんなの後で、ここまで戻ってきてやる。とにかく早く乗れ、美緒に見つかったらまずい」
もたつく私に心底苛立ったようで、健は半分怒ったように文句を言って助手席のドアを開けた。
何だよ、その態度。
私は仕方なく車に乗り込む。どうやら相談とは、美緒ちゃんのことらしい。ウキウキしかけた心が、急速に萎んでしまった。
そりゃそうか。何せ結婚したい相手だもんね。相談事なんて、他にあるわけないよ。
健のちょっとした一言に馬鹿みたいにときめくなんて、私って本当成長しないなあ。
「あのさ……」
車を運転させながら、言いにくそうに健は切り出す。
「美緒の奴、今日どうだった?」
「どういうこと?」
「うん……」
健は赤い顔を私に向けると、思い切ったように告げてきた。
「俺さ……、夕べあいつに言ったんだ。結婚してくれって」